灯蛾

惟風

灯蛾

 細身で私より少し背が高くて、落ち着いた雰囲気の彼のことが好きだ。

 横顔を見つめるのが取り分け好きで、そのシャープな顎のラインにいつも見惚れている。

 彼が話す度に動く喉仏は、中性的な外見の彼の性別を力強く思い出させてくれて、私の心臓を跳ねさせる。

 例えば書店に立ち寄った時、彼の長い指は本棚に並ぶ背表紙の上をゆったりと踊るように動く。一冊取り出した途端、とっくの昔に読み終えている小説でも、まるで今生み出された斬新な物語なんじゃないかと思うくらいに魅力的に見える。私は無性にそれを読みたくなる。


 私が彼と初めて会ったのは、会社の同期に連れられて行ったバーだった。

 カウンターの奥に陣取る彼はバーのマスターの学生時代の後輩だとかで、たまにピンチヒッターとしてマスターの代わりにカウンターの中に立った。

 同期のお目当てはマスターの方で、でも通い出して早々に振られちゃったらしくて、私だけが足繁く訪れるようになった。


 ある夜、私が店の扉を開けると、振り返った店内の人達が一瞬息を呑んだ。

 顔の右側に大きな絆創膏と眼帯を付けた私は、街中を歩いている時から人目を引いていた。

 顔見知りになった常連客達がそれぞれに心配と困惑の表情を見せる中で、彼だけはいつもと変わらず奥の席に座り、軽く手を上げて私に挨拶してくれた。

 母親の虫の居所が悪くて投げられたリモコンがクリーンヒットしたっていうエピソードを茶化して話す私に、彼は口の端を少し上げて「そっか」とレッドアイを奢ってくれた。


 これまで私の親の話を聞いた人が示す反応は、同情だったり具体的な反撃や逃走のアドバイスだったり説教だったりした。私を思ってのどんな有用な助言も、義憤も、現状の私達母娘を否定することには変わりない。優しい人達の存在は嬉しかったけれど、同じくらいに辛くもあった。

「そうか」と受け止めて終わりな彼の態度が有り難かった。

 親や私が変わることを求めるでなく、ただそこにいる。私の中の何かが許されたように思えた。

 彼の色んな部分に惹かれていたけれど、それが決定打になった。


 私の明け透けな好意はすぐに彼自身も含めて店の誰もが知るところとなったけど、彼に何度想いを告げても「ありがとう」と返されるだけだった。拒絶されることはなかったけど、具体的な言葉で応えられることもなかった。

 それでも良かった。

 ただ、ふんわり一緒にいてくれることが心地良かった。

 彼を想うだけで、私は誰よりも幸せだった。


「最近、あいつにぞっこんだよね」

 いつも彼が座っている席で孤独に甘いカクテルを舐めていると、マスターが声をかけてきた。今日は彼は来ない日だけど、私一人でも通い詰めている。

「えへへ……まあ」

「あいつイケメンだもんなあ。左右対称でキレーな顔で羨ましいよ」


「……え?」


 マスターの最後の言葉が引っかかった。違和感を確かめたくて口を開こうとしたけど、ちょうど入口のベルが来客を知らせて会話は打ち切られた。

 胸の中に何かがザワザワと込み上げてくる。

 正体を掴もうとすればするほど遠ざかる。でもどこかで、自分から理解を拒絶している気もした。


 心細くなって、彼のことを想った。今日、一緒に喫茶店に行った。オシャレなカフェじゃなくて、昔ながらの純喫茶が彼のお気に入りだ。

 甘党の彼はコーヒーに決まって砂糖を入れる。スティックシュガーなら二本。容器から掬って入れる時はスプーン二杯。

 静かにかき混ぜる仕草はエレガントで、カップを見つめる瞼からは長い睫毛が伸びていた。

 彼は美味しそうに一口飲むと、窓の外を眺めてニコニコしていた。

 私はその様子を見つめながら、仕事の話や最近観た映画についてや今度行くライブについてなんかを彼に沢山話した。

 彼はたまに相槌を打ってくれて、タバコを取り出して、またコーヒーカップを見つめて、それで――


「……あ」


 顔を上げる。唐突に、気づいてしまった。

 どうして横顔が好きなのか。今日だって、私はいつものように彼の伏し目がちな瞳や首筋を見ていて、彼は外の風景や手元のスマホに視線を――

 それは。


 ということだ。


 そういえば、私は真正面から彼と目を合わせたことがほとんどない。

 だから私は、彼の顔が左右対称で整っているというマスターの言葉に共感できなかった。

 彼は。

 私が知っている彼はいつだって、私以外の方を向いて。


「……っ」

 一気に全身が冷たくなった気がした。

 全く気づかなかったわけじゃない。

 話しかけるのも、誘うのも、いつも私からで。でも断られることなんてほとんどなくて、だから。

 言葉にしないだけで、彼がありのままの私を受け入れてくれていると思いたかった。私を否定しない、それは彼の特別な優しさと愛情なんだと。

 違う。

 ただ、どうでも良いだけなんだ。関心が、無い。

 私が変わることを、向上することを期待しない。

 好きとか嫌いとかの次元ですらない。


 カウンターに伏せていたスマホを持ち上げる。母からの暴力的なメッセージが何件も連なっていた。

 もし今ここに彼がいて私がこのメッセージを見せたとしても、「ふうん」の一言でそっと流されてしまうだろう。そしてそれは、疲弊した私には心地良い曖昧さとして響くに違いない。


 それでも彼の存在が、袋小路を静かに照らす街灯のように私を照らしてくれたことに変わりはなくて。

 焦がれるのを止められそうにない、私のことが目に入っていないとしても。

 私はこれからも、灯りに惹きつけられる灯蛾とうがのように、触れられもしない光を求めてバタバタと周りを飛び続けるのだ。

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灯蛾 惟風 @ifuw

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