鬼と道具・肆
炎が全身を包む。
不思議な事に焼かれる痛みはなかった。揺らめく炎を眺めていると、いずれ黒い穴が出現する。そこから、白い手が伸びてきた。鋭い爪は黒く染まっており、それが俺の服の袖を乱暴に掴む。その腕に荒々しく、炎の中から引っ張り出された。一時的に平衡感覚をなくし、床と思われる硬い木材に強く叩きつけられた。怪我の治りきっていない足を打ち、声にならない呻き声を上げる。その激痛で蹲ると、足音がこちらに近付いて来た。
単色の和装も長い前髪も、その隙間から除く冷たい目も、一本の角も、どこまでも昏く黒い。確か波墨と呼ばれていた鬼神だ。俺の背筋に、ぞっと冷たいものが走る。身構えるように後退るが、背中に硬い板状の物が当たる。どうやら壁のようだ。
「私が怖いですか」
床に着く俺を、直立したまま見下ろす波墨は、冷えた声で問う。俺が応えずにいると、膝を着き、俺の怪我をしている方の脚を、突然掴んで衣服を脱がせてきた。
「 ……っ、やめろ·····、ぐっ……」
痛みでろくな抵抗ができない。露わになった足に、青くなって腫れている痣がある。それを無遠慮に触れる黒い鬼神が、目を歪めた。
「骨を折った方が治りが早くなります。折りますか?」
「……は、」
何を言っているのか理解が出来ないまま、波墨が足に触れる手に、力が籠る。全身が硬直したまま動ない。その様子を観察していた波墨は「仕方ないですね」と愚痴のように小さく呟いた。
「大人しくしていなさい」
強く言われ、俺は無言でじっとしているしかなかった。その隙に波墨は、簡易的な治療道具を取り出した。手際よく足が手当てされる様を、俺は呆然と見つめるしかない。最後に綺麗に包帯を巻き終えると、そのまま波墨は道具を片付け、変わらない冷たい声で言葉を紡いだ。
「暫く歩かないように、他に痛い所は」
「……ない」
「そうですか。……貴方の名は」
「切」
再び波墨は俺を見る。そして顔を近付けると、くい、と俺の顎を静かに持ち上げた。
「切、貴方は私の道具になりなさい」
「断る」
即答する俺を、波墨は顔を顰めて見つめる。 目を逸らさないでいると、彼の方が先に顔を逸らした、その横顔からの表情では、何を考えているか判らない。しばらく沈黙していると、波黒は責めるような声で呟いた。
「道具は嘘を吐き、すぐ裏切ります」
その言葉が理解できずにいると、それを無視して彼は続ける。
「鬼神と人間は時間の流れ方が違います。だのに、ずっと一緒にいると言っても、百年も待つ事なく、寿命で死ぬ……でも」
だんっ、と、俺の横の壁が勢いよく叩かれる。波量は壁に手を着けたまま、俺を睨みつける。その日はどこか、淋しそうな印象を与えた。
「來嘉はそんな寿命も気にせずに、人間を殺す化け物です。あの化け物は、貴方をすぐに焼き殺します。だから私の物になりなさい、切」
「……君は、俺を心配しているのか?」
思わず出た科白に、波墨がぎょっとした。その様子に、俺は首を傾げる。彼は壁から手を離し、俺とも慌てたように距離をとった。
再び黙る時間が流れる。俺が返答を持っていると、
「すみませんでした」
と、素っ気なかったが謝罪が返ってきた為、今度は俺が驚いて、目を見開いた。
「貴方を來嘉から引き剥がす為に、使用人に命令して……貴方にこんな怪我をさせてしまった。貴方のように、人間の命がとても尊いものだと知っていたと言うのに」
その科白を聞き、音が聞こえそうな程緊張していた身体が脱力した。
気が抜けたついでに、大きな溜息が出てしまう。波墨が不審そうにこちらを見ている。安心させようと、俺は笑ってみせた。昔から感情表現が希薄と言われてきたが、上手く笑えただろうか。
「大丈夫だ、波墨。俺は來嘉と一緒にいる」
「……何が大丈夫なんですか。そうすると貴方は焼かれますよ」
「俺は來嘉に焼かれないし、殺されもしない」
鬼の町に来て、この言葉を使うのは何回になるだろう。
形容の難しい自信があった。あの小さな鬼の子を守らねばと思った。あの淋しそうな背を追わればと、決意させた何かがあった。
厳しい視線を向ける波墨も、諦らめたのか、小さく息を吐く。憂うように目を伏せ、愚痴のように言葉を零した。
「……まるで、緒花のように、強い目で言うのですね」
人の名前だろうか。と考えていると、波墨が俺の前で屈み「立てますか」と手を伸ばした。どうしたのかと疑問に思いながらも、流れで手を取る。自力で立って歩けない為、彼の肩を使う事になった。
「……貴方を來嘉の所まで送ります。私の負けです」
それを聞きほっと安心した俺は、彼も変わり者のようだと呑気に思い、和んでしまう。波墨の力を借りて、今までいた和室から出る。私の屋敷です。と簡単に説明し、彼は丁寧に俺を支える。階段を下り、硝子窓で囲まれた長い廊下を進んでいる時だった。火の粉が舞っている。
はっとして辺りを見回すが、あの子供はいない。
「切、これは……」
波墨が呼ぶ。指を差さしているので、自身を見る。どうやらこの火の粉は、自分から漏れているようだ。気付いて波塁から離れようとしたが、それを彼に阻まれる。
「駄目だ、波墨が焼けてしまうっ」
「このくらい大した事ありません」
「なら……、せめて外に」
波墨は頷き、硝子製の大窓を開け、外へ出る。履物がないが、気にする余裕はない。大きな庭園、それを囲む壁の前に、どうしてかあの子が居た。
「來嘉」
勢い良く少年がこちらを向いた。見開かれた、綺麗な金色の瞳。裂傷のような火傷の傷痕。背負うには堪えるような荷を、その小さな背に負う、淋しそうな子供の姿。
「……波墨、お前……ッ」
「來嘉、落ち着け。今は……」
毛を逆立てた猫のように威嚇した來裏に、説明をしなくてはならない。波墨は優しい鬼神だと、判って欲しいと願いながら。
しかし、その前に、風を切る音が鳴る。次に声が鳴った。振り向くと、波墨の肩に、一本の失が突き刺さっていた。
炎が薙ぐ。
…
己がもうひとりいるかのような錯覚が起きた。正確には、己の神力を別の場所から感じる。それは僕の神力を移した器、切のものだと判断するのに、さほど時間はかからなかった。
町中を走る。久し振りの外出のような気もする。人間を連れ、時には蔑んでいる町人達。この光景が僕は若手だった。簡単な事が……鬼神と人間が仲良くなる事が、何故出来ないんだろうと、子供ながらに、ずっと疑問に思っていた。自分にも言えた事ではあるが、だがその悩みが、やっと解決すると思った。妙にどきどきと胸が高鳴っていたのだ。それなのに。
火の粉が舞う。いつもよりそれが多い事に気付き、僕は立ち止まる。動揺しているからだと思った。だが、宙を漂う火の粉に違惑感を感じる。流れの違う火の紛があるのだ。それを目で追うと、それは何処かへの道標のように察し、急いで追い掛けた。火の粉を追った先に、一軒の屋敷がある。切の姿が脳中にちらつく。僕は無礼を承知で出入口から無断で侵入した。微かな神力が漏れ出している庭に回り、探していると、切の声がした。
…
直後、眩い光が辺りを包んだ。波墨が呻く。彼の肩に刺さった矢が、まるで溶けるように消える。波墨を囲むように光の輪が顕現した。切がその場から離れようとしても、波墨が手を離さない。
「切!」
そのまま、波墨の神力が暴走した。火柱が発生し、二人の姿が、僕の声も届かないであろう暴風を巻き起こしながら、掻き消えてしまう。
人々の声が聞こえてくる。騒ぎで集まってきたのだろう。
炎は大きくなっていく。早く対処法しなければ、怪我人が出る。それに、切と波墨の命が危うい。
どうにかしたい。否、この炎柱はどうにかできる力を僕は持っている。しかし、そうすると僕は、自分の神力によって死ぬ。
……落ち着いて、大丈夫だから。
誰かの声が聞こえた気がした。聞き覚えのある声だった。
僕は顔を上げる。このままでは二人の命を見殺しにしてしまう。そんなのは嫌だ。深く深く深呼吸をする。僕は決心した。
僕は、僕の命を引き換えにはしない。
僕は炎柱に向かって走り出した。熱い。波墨の神力の具現化である炎は、無慈悲に僕を焼く。それを構わず、炎の渦に包まれていく。必死に手を伸ばした。彼の事を信じて。僕の手に、何かが触れる。指にそれが這い、不器用にも掴む。すると。
人が集まり、役所の鬼達が来た頃には、人柱は隣家に燃え移りそうになっていた。しかし、その炎は除々に大人しくなり、収縮していく。焼けた石造りの屋敷の庭である火の発生地には、鬼神二人と、一人の人間が殆ど無傷の状態で発見された。
大人の鬼神は意識を失くして倒れており、子供の鬼神も朦朧とし、それでも膝で立ちながら、人間と手を繋いでいる。人間は二人の鬼神を危ういながらも支えていた。人間は目を細めて、鬼神の子供を見つめてる。
既に炎柱も火の粉も消え失せていた。
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