後編


「今日もいいもの買ってきたからなー」

「わーい! なーに?」

 イスズ君が取り出したのは小さな鉢。中に鮮やかなオレンジの魚が泳いでいる。間抜けな顔だ。

「何これ何これ! この魚見たことない!」

「海の魚じゃないんだ。金魚っていうんだよ。人間の代表的なペットの一つ」

「へぇ、キンギョ」

 少し残念だった。海水で生きられないなら、一緒に泳ぐことができない。狭い浴槽でそんなことを考えるのは贅沢だったようだ。

 私はとびきりの笑顔でお礼を言った。

「ありがとう!」

「どういたしまして!」

 イスズ君の笑顔は可愛い。この笑顔を見るためなら、私は……。


 金魚鉢を置いた椅子を眺めて、時々金魚を撫でてやる。餌と勘違いして一瞬寄ってくるのが面白い。

 海の仲間たちに会いたい……そう思うこともよくある。でも、イスズ君は海では生きていけないから。私が陸に上がるしかない。

 いや、陸地を歩けもしないのに、こんなところまで来てしまった。本当にこれで良かったのか? わからない。わからないことを、いつまでもぐるぐると考える。これからどうなるのか。イスズ君と二人、老いていくことができれば、それを超える幸せはない。今はそう思う。


「最近、落ち込んでる? 元気がないみたいだけど……」

「……ううん、ちょっと泳ぎたいだけ。体鈍っちゃった」

 嘘ではなかった。体はもうバキバキだ。骨が固まってしまうのではないかと心配した。

「大きい水槽、まだかかりそう?」

「うん……もう少し待ってね」

「わかった」

 浴室の床に寝そべる。ドアから外に尾鰭が飛び出す。イスズ君が私の全身をマッサージしてくれる。

「水も後で替えてほしいな……」

「うん、後でね」

 大きい水槽、楽しみだなぁ……。最近、楽しいことが待っていないと生きるのが辛い。体は痛いし昼間寂しい。水槽が来たら、イスズ君と二人並んでテレビを見るのだ。


 終わりは突然やってきた。

 家の扉が開く音がしたので、「おかえりなさーい! おつかれーおかえりー!」といつものように騒いだ。いつもと少し違う控えめな足音がして、覗き込んだ顔はイスズ君の面影がある中年の女性だった。

「……化け物……!」

 女性は妖怪でも見たかのような形相で後退り、走り出して家を出ていった。勢いよく閉められた扉の音が耳に響く。

 騒がなければ良かった……と思っても後の祭り。まずいことになった。イスズ君以外に姿を見られてしまった……。

 それからすぐに帰ってきたイスズ君は慌てていて、先程の出来事を既に知っているようだった。

「ごめん! ごめんね、母に合鍵渡してたんだ……まさか連絡もなく来るなんて思わなかった」

 大丈夫だよ、私は平気だよと言ってあげたい。でも、そうもいかない。

「私は、どうなるのかな……」

 彼は悲痛な面持ちで、私を抱きしめた。

「……今日、あの水槽を買い取ってきたんだ」

 声が震えている。イスズ君の顔が見えない。

「騒ぎになる前に、君は海へ帰った方がいい……」

 ……なんとなく、そんな気がしていた。

 だって人生は上手くいかないことの方が多い。それなのにここ最近は穏やかに暮らしすぎていた。清算が来たんだ。

「嫌だよ……」

 そう言うとイスズ君はうんうんと頷いて私を強く抱きしめる。苦しいくらいだ。イスズ君のすすり泣く声が聞こえてきた。泣かれると弱い。私も泣くしかない。

「離れないんだからぁ……」

 涙が涙を誘って出来の悪い歌のように二人で泣いた。もう別れを回避する術は無い。私も両腕でイスズ君に抱きついて、ただ泣いた。

 しばらく二人でそうしていて、不意に急がないと、と言うイスズ君。もう泣いてはいなかった。私を連れてきた時と同じように、抱き抱えて毛布で隠して大きな水槽まで運ぶ。トラックに運び込まれる。行き先は海、私の生まれ故郷。

「嘘だよね? もっと私、イスズ君と……」

「ごめん、泣いちゃうから……」

 彼は泣きそうな顔で運転席に乗り込んだ。

 ガタガタ揺れる。エンジンの音、車が走る。

 私は先日あったバレンタインのことを思い出していた。イスズ君は私からチョコレートが欲しいと言って、一回私にくれたチョコを返してくれと言ってきた。理解するのに時間がかかったけど、女性からチョコレートを贈るのがこのイベントらしい。結局チョコは一緒に食べたけど。

 ホワイトデーになる前に、私は海に帰る。ねえ、一方通行だよ。


「ついたよ。懐かしい?」

「……言葉もなく、ね」

 初めてイスズ君と出会った海に来た。これが遊びに来たのならどんなに嬉しかったことだろう。

 古い時代、人魚は足を手に入れて声を失ったという。そんな魔法が存在するなら、本当に良かったのに。

「私、またここに来るよ」

 イスズ君は僅かな笑顔を覗かせた。

「しばらく陸に近づいちゃダメだよ」

「また会えるって信じてるから」

 嘘だ。本当に信じてるならわざわざ口にしない。

 波の音がした。聞き馴染んだ故郷が私を呼んでいる。

「じゃないと……私の最後の恋人はイスズ君だから」

 イスズ君は私を抱き上げて、キスをした。

「君は綺麗だ」

 涙が溶けた海水が、私を力強く受け止めた。私は未練がましく水面に顔を出したままで、イスズ君が手を振って立ち去っていくのを眺めていた。

 夜空は星がいっぱいだ。私の心には、たとえ海を注ぎ込んでも埋めきれない穴が空いた。

 さよなら、私の最愛の人。

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浴室の人魚 日暮マルタ @higurecosmos

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