浴室の人魚

日暮マルタ

前編


 イスズ君が帰ってくるまで、私は狭い浴槽内で映画を見たり昼寝をしたりしている。読書はイスズ君に何冊か借りたけど、眠くなって浴槽に落としてしまったことが何度かあって、そのたびに彼が残念そうな顔をするのが可哀想で借りなくなった。壁に埋め込まれている液晶パネルはテレビにも映画にもなる。今日のニュースは、大型トラック衝突事故。大抵つまらない。

 自慢の尾ひれを見せびらかす相手もいない。狭い浴槽は不便だけど、海の匂いがして安心する。でもそろそろ水が傷んできたみたい。イスズくんに頼んで新しい水を張ってもらおうと思う。

 イスズ君がいない間の浴室は、暇だし、寂しい。寝るくらいしかできない。

 歌を歌うことがある。窓がなくて声がよく響く。全く新しいオリジナルの歌を作ってみたりもする。その多くは二回歌うことができない。

 玄関の扉の開く音がした。イスズ君だ! 私は上半身飛び出して「おかえりーっ」と声を出した。水音が立つ。玄関から歩いてくる音がする。

「ただいまー。今日も大変だった」

 イスズ君は朗らかな笑みを見せてくれる。帰ってきてくれたことが嬉しくて、何度もおかえりと言ってはただいまと言わせた。


 イスズ君は海で出会った釣り人だ。職業はサラリーマン。魚に釣り針を刺して陸に持ち上げて海に戻すというなんとも気持ち悪い趣味を持っている。私もそうして釣り上げられたのだけど、顔に針が刺さっているのがグロテスクに見えたらしく(魚にはそんなこと思わないのに)最初はすごく引きつった顔をしていた。どうにかこうにか針を抜いてもらって、海に帰れることになったのだけど、陸上が珍しくて私はしばらくイスズくんを引き留めた。可愛い顔をしていたのもちょっとタイプだった。

「針刺さないならまた会ってもいいよ」

 イスズ君は照れくさそうに笑って、これから毎日来れば毎日話せるってこと? と言った。可愛い男の子だ。

 会うこと三回目、私はイスズ君の用意した大きな水槽で、彼の家にやってきた。

 拉致ではない。私の意思だ。


「お風呂寒くなかった? 大丈夫だったかな」

「寒くないよ! イスズ君が帰ってくると温度上がる気がする」

 家に来た時の大きな水槽は一時的にレンタルしていたものらしく、家ではずっと浴槽にいる。窮屈だが、暖かい空間だ。

 帰ってきたイスズ君は、台所で何か料理をしている。

「お腹空いたー!」

 楽しみに待っていると、出来上がったのはラーメンだった。イスズ君は浴室まで持ってきてくれて、そのまま2人でラーメンを食べる。浴室は中華の香りに包まれた。

「美味しいー! イスズくんはお料理の天才だね!」

「えっへん!」

 イスズ君は魚も捌けるから、いつか私のことも捌いて食べるかもしれない。食料に困らない限り大丈夫だと思うけど、いつかそんな日が来るかもしれないと思うと、私は甘いときめきを感じるのだ。

「ごめんね、こんな狭いお風呂しかなくて……」

「住まわせてもらってるからね! いいんだよー、それよりそろそろ水換えお願いしてもいい?」

「もちろん! 少し濁ったかな」

 深くまで潜ったりイルカと競争したりできないのは残念だけど、イスズ君といるこの空間が、好きだった。

 体が鈍って泳げなくなりそうだ。そのうちイスズ君にどこか広いところに連れて行ってもらおう。でないと、少しずつ自分が死んでいくようだ。

「前にレンタルしてた水槽、買い取ろうかと思ってるんだ」

「……流石! 今それ相談しようとしてた!」

 海の方がいいけれど、水槽でも充分泳げるだろう。楽しみだ。


 イスズ君が私の尾鰭を撫でる。綺麗な鱗だと褒めてくれる。褒めながら、スポンジですごく優しく洗ってくれる。私は浴場に敷かれたマットの上をゴロゴロする。尾鰭はくすぐったいので自分で洗う。その間イスズ君がシャンプーしてくれる。「うぁー」と声が出るくらい気持ちいい。この文化は海にも欲しい。あわあわだ。

「お魚釣ってきてくれない?」

「まだお腹空いてるの?」

 イスズ君が少し顔を上げて目を見開いた。

「ううん、友達が欲しいだけ」

「ペットかぁ……」

 何か考え込んでいるようだ。ちょっと保留にしてもいい? と言われて、もちろんだよーと返した。ぱしゃんと尾で床を叩く。案外音は響かなかった。

「今日はいいもの用意したんだよ」

「いいもの?」

 待ってて、と言ってイスズ君は浴室を出ていった。私は自身の泡を流し、慣れ親しんだ浴槽にジャポンと戻る。イスズ君は背中に何かを隠しながら帰ってきた。優しい笑顔をしている。

「花火って知ってる?」

「花火? あの、時々大砲みたいな音で空に上がる光だよね」

「知ってたんだ。じゃあ、線香花火は知らないよね」

「何それ」

 じゃーん、とイスズ君が取り出したのは、ライターと細い紐のようなものだった。

「何それ?」

「危ないから触ろうとしないでね。これも花火で、でも可愛いやつだから。手はお膝、出来るかな」

「手はお膝!」

 バシャンと水中に手を浸す。イスズ君はライターでその線香花火の先端に火をつけた。

 すると瞬く間に炎ははじけ、パチパチと小さな光の花を咲かせる。わわ、危ないよ! と思って浴槽の端まで逃げたけど、光の花はそっとポツンと落ちて消えた。

「な、なに今の? これが花火?」

 なんて儚い。すぐに消えてしまった。あんなに勢いよく光出したのに、あんなに……寂しいなんて。

「線香花火。綺麗でしょ。これなら一緒に楽しめるかと思って」

 イスズ君の気遣いが私は嬉しかった。

「ありがとう……!」

 次の線香花火をイスズ君にねだる。一つずつ光の花が咲き、ぽつんと落ちて消える。それを繰り返す。

「気に入ってくれたみたいで、良かった」

 イスズ君は優しく笑った。朗らかってこういうことを言うんだろうか。なんだかむず痒い。

「つーぎ! 次のもやって!」

「今ので終わり。わがまま言わないの」

 私がわがままを言うと、この彼はむしろ嬉しそうにする。実はわがままを言われるのが好きなんじゃないか? と思って、私はむくれてみる。頭をそっと撫でられた。

 なんだか彼が愛おしくなって、そのまま静かに口付けた。

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