第2話

【3】


灰色の髪。薄紫色の目を曇らせた女が一人、みすぼらしい馬車で荷物同然に運ばれていた。色の抜けた髪を一つまみ取ると不思議そうに眺めた。

「私は、誰......?」

再び目を覚ませば山奥の小さな修道院の粗末なベットに寝かされていた。床のように固いベット。シミだらけで汚らしかった。女は理解の及ばない奇妙なものを見るように辺りを見渡した。ひび割れた水差し。ガタガタと音を立てる薄いガラス窓。至る所に置いてある女神像。

「ここは、どこ......?」

全ての指についていた指輪も豪華なドレスもない。貧相でツギハギのある草木染めのワンピース。まるで今までの出来事が記憶が全て夢だったかのような状況。

「アリス、目覚めたのね。さあ支度をしなさい」

「えっ、支度。なんの......」

「嫌ね、今日が洗礼の日でしょう。正式な修道女となるための。忘れてしまったの」

修道女の姿をした女は心配そうに目を覗き込み、手を額に当てた。

「風邪はないようだけど......」

アリスと呼ばれた女は言われるがままに服を着替えた。今までのは自分の壮大な夢だったのか。だが簡単に飲み込めないほどにリアルに、脳裏に耳に焼きついていた。恐ろしい怒号も、自分が上げたこの世の終わりかのような悲鳴も。

修道院の人間たちは皆「アリス」と呼んだ。アリスは困惑した。アリスはずっと修道院にいたというのだ。別の記憶があると訴えても妄想だと言われた。暗い山奥の中では精神を病んでしまう子もいると言われてしまう。

アリスは一か月もして、修道女たちの言葉を信じた。自分はただの修道女。自分の記憶が正しいのか確かめるすべもなかったのだ。

「アリス何を恐れているのです。ここに貴女を害するものはなにもありません」

「はいそうでしょうとも。神に祈る私たちを害するものはそうはいません。ですが夢に見るのです。恐ろしい夢です」

「夢に怯えることはおよしなさい。所詮夢であるのだから。さあ、今日も働きましょう」

アリスになってからの彼女は肩の荷が降り心に余裕が出来始めていた。自身を害するものがないという安心感にも次第に慣れていく。ただ違和感は何年経っても消えることはなかった。最初の違和感は箒というものの使い方に雑巾の絞り方が全く分からない事だった。子供でも出来そうなことなのにアリスは全く分からない。よく修道女になれたものだと不思議に思った。何も出来ないアリスだったが修道女達は優しく丁寧に教えてくれた。アリスは体を動かす新たな知識達が増えるたびに喜んだ。平穏で心穏やかな毎日。


ある日、ぼろを纏った旅人を名乗る男がやって来た。籠にいっぱいのクランベリーを運んでいる時だった。クランベリーを懐かしそうに眺める不思議な男。彼は一晩泊めてほしいと言った。シスターアリアは男と知り合いだったのか涙を袖で拭いながら男の滞在を許可した。

アリスが男のいる物置小屋に夕食を届けに行った時の事だった。

「ああ、よかった生きていらっしゃった」

男は手で顔を覆うと感涙にむせんでいた。悪い心地だったが入ってしまった以上、邪魔しないように近づく。

「お嬢様、ああ。神よ。命あることに感謝します」

しばらく敬虔な信徒のように涙を流しながら祈る様子をアリスはただ見守った。

「――優しい人、名前を伺ってもよろしいですか」

「わ、私ですか。アリスと申します」

翌日、去り際アリスだけに不吉な予言めいた言葉を残した。

「アリスと言いましたね。お逃げ下さい。近い将来、貴女様に真の魔女の飼い犬。黒い犬。グリムが迫っています。出来るだけ対処してみますが長くは持たないでしょう。この通り、腕はすっかり錆びてしまいました」

男は傷だらけの腕をアリスに捲って見せた。痛々しい傷跡にアリスは「はっ」と息をのんだ。男の無事を祈るほかなかった。

「よき人の貴方の無事を私は祈ることしかできません」

「それで十分、十分なのです――どうかお元気で」



【4】


恐ろしい彼の予言は一年後に的中した。

慎ましい生活を突如脅かす黒い犬。アリスが夢で見た皇帝を殺したテレンスという青年そっくりの男が血の滴る剣を手に振り返った。

「これはどういうこと......」

アリスは血の海にただ一人、浮いていた。真っ白な修道女のローブがみるみるうちに赤く染まっていく。最後に取り残されたアリス。頭は状況を理解できずにただただ視線を動かすばかり。

「それは私が聞きたいですよ。元皇后陛下。探すのに苦労しました。貴方の飼っていた犬のせいで部下が何人も殺されるし、皇帝の忠臣共は口を割らずに死んでいくし散々な気分です」

アリスの――レジナの記憶は正しかったのだ。真実に気付いたころには胸に剣が刺さっていた。

「ああ、よく見ればどうして髪が真っ白なんでしょう。これでは証明にならなそうだ」

テレンスはしゃがみ込むと髪の毛を乱暴に引っ張り上げた。

「染めればいいのかな。あぁ勿体無い。美しき皇后。例の問題さえ起こさなければなければ俺がそのまま妻に迎えたのに。それになんです、修道女なんて。浅ましい反吐が出そうなほどな愚かな執着心だ――まあその価値が、分からなくもないですがね。貴女の旦那だった男です」

「な、にを......」

「実は抜け出す際に一目、貴女の姿を見ました。真っ赤に輝く燃えるような赤。澄んだ薄紫色の瞳――惚れない男はそういないでしょう」

テレンスは顔を息がかかるほどに近づくと、頬をなめた。舌なめずりをすると再び口を開いた。

「甘い。まるで花の蜜のようだ。殺すのが勿体無いほどに美しい。色が違うのなら別の女でも構わないのではないかな。初めから似た誰かを仕立てれば良かったのだから。あの時の私はどうしてまた若かった。そんなこと簡単な事も思い浮かばないほどにね――まあ、もう遅いのだが」

徐々に瞳に宿る光が弱く弱くなっていく。テレンスは両手でレジナの顔を包み込むと呟いた。

「あの時、俺に気付いてくれれば――未来はまた違ったでしょう」

レジナは横目に見つけた短剣をそっと手に取り隠した。テレンスは立ち上がって剣を再び持った。修道女達の血に、数多の血を吸ってであろう剣を。自分の夫を殺した剣を。

「さあ、首都に帰りましょう。民たちが貴女の首を今か今かと待っています。俺はこれを以て真の皇帝となる」

レジナの頭の中には記憶が巡っていた。

『今思えば皇太子から聞かされた結婚条件からおかしかった』

薄れゆく意識の中、皇太子が一度だけまっすぐに目を見て謝った奇妙な日の事を思い出した。今までの記憶が鮮明に思い浮かび、おかしなところに欠けたピースが埋まっていく。近づいてはいけない区画。部屋に焚かれた香。金を使えと囁く侍女長。結婚しても別々の寝所。テレンスが来るのを知っていたかのように席を外させた皇帝。人の来ない山奥。

『なんだ――そういうことね......この極悪皇帝。テレンスのために最もよい政権交代を演出したってことね。私は都合の良い駒。私の身を案じて送り込んでくれたようだけど、結局死ぬみたい。あの男、私を悪女にしたのは......そんな殊勝な男ではないわね。私に一度も触れることなかったのだもの。初めから言ってくれれば......いや、ちゃんと最後まで身の安全保障しなさいよ』

最後に両親や兄弟の姿が浮かんだ。あの男はここまで考えたのか。彼らもどこかに潜んでいるのか。テレンスに聞こうにももう彼女に力は残っていなかった。

『ただ最後は......』

最後の気力をふり絞って短剣を持ち上げた、虚ろでもはや何も見えていないはずの目がテレンスを捉える。咄嗟に剣を構えたテレンス。しかし、ナイフの切っ先はレジナの喉にまっすぐと突きつけられた。

『敵に殺されるものですか。誇り高き皇后として――私は自害を選ぶっ』

遠いどこかでテレンスが悲鳴を上げた。痛みは既に感じない。どんどん、どんどん暗くなっていく。見えなくなっていく。

「な、なぜ。お前らは揃って俺に憐れみの目で見るんだ!」

テレンスの悲痛な叫びを最後に真っ暗な闇へとどぷんと音を立てて落ちていった。

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