笑う、河童。

あんらん。

笑う、河童。

 川に、落ちたとき、いったいなにが起きたのか、わからなかった。

 

 ぶらぶら歩いていた土手から、水際にフキノトウをみつけ手を伸ばした。

 その瞬間。

 後ろから押され、そのまま水の中に真っ逆さま。

 落ちてすぐ、ほんの一瞬、父さんの顔が歪んだように見えた。

 それは、水しぶきがかかったせいだったのか。

 それとも、ぼくを突き落とした父さんの、苦しみの表情だったのか。


「おばあも、おじいも待っている。安心してあの世へ、ゆくがええ」

 凍えるぼくを見下ろし、父さんは、背を向け行ってしまった。

 春はもうすぐとはいえ、雪解け水はあまりに冷たく、流れは速かった。

 つかんでいた細い枝が折れた。

 ぼくの手は、むなしく宙をかき、

「とう、さ・・・ん」最後のことばも、風にきえた。

 

 どこかで、こうなることは、わかっていたよ。

 3人の男兄弟の中でいちばん病がちだった。

 下の二人の妹たちはもう手がかからない。

 母さんの手助けもできるようになっていた。

「土筆を、とりにいくぞ」

 朝もまだ明けきらないうちに、ぼくだけ起こされた。

 父さんはぼくをつれて家を出た。

 土筆なんて、まだまだ先なのに。

 

 もがくことも、助けを呼ぶこともせず、ただ、流れに身を任せた。

 それが、みんなのためだ。 

 隣の家のあの子も、そうだったんだと、今、気がついた。

 突然姿を消した、おさよちゃん。

 いつもいっしょに遊んでいたね。

 動きの遅いぼくを、じだんだ踏んでせかしていたね。

「のんびり、のんびりの、のんびり屋さん。

はやく、はやく、はやくしないと、おいてかれちゃうよ」


 ぼくは、会えなくなって悲しかったよ。

 「河童に、さらわれた」

 そう、おじさんはいってたっけ。

 だれも河童を見たことはないけれど。

 そして父さんも、家に帰ると、みんなにそういうのだ。


 「あの世」とは、良いところなんだろうか。

 年寄りや、長く患っていたものが、行くところだと思っていた。

 三途の川の奪衣婆だつえばや、地獄、極楽を決める閻魔えんまさま。

 おばあが元気だったころ、そんな話をしてくれたっけ。

 

 流され、流され、沈んで、沈んでいくうちに、震えていた体の感覚が消えた。

 と、同時にこれまでの、ぼくの何もかもが消えていく。

 記憶の欠片が水に溶けていく。


 気を失いそうになったそのとき、遠くから、なにかが近づいてきた。

 大きな大きななにか。

 するっとぼくを包み込んで、そして行ってしまった。


 とたんにふっと、体が軽くなった。

 そっと、目を開けてみた。

 そこは、相変わらず、水の中だった。

 ただ、温かい光が、上から斜めに差し込み、ゆらめいている。

 ここが「あの世」とやらなのか。


 すぐ目の前をゆっくり、鮒が横切っていく。

 ゆらゆら、水草もゆれている。

 なにかが足先にふれ、目をやると、転がっているいくつもの石ころの影に、いっせいに小さなカニがかくれた。 

「あっ、サワガニじゃないか」

 いっぱいとって、いっぱい食べたかったな。

 でもいつも、すぐ逃げられてばかりだった。

 いつも?ええっと・・・、それは、いつのことだっただろう。

 思い出せない。


「こぽっ、こぽっ、」と音がする。

 ぼくの口から吐き出される、泡ぶくの音だ。

 じっと耳をすませてみても、ほかに音はない。

 差し込んでくる光は、きらきらしてきれいだ。

 静かな、それは静かな水の中だった。

 

 きらきらしたあれを、つかまえることができるだろうか。

 手をのばしてみた。

 ぼくの手は、こんなだっただろうか。

 細い棒のような緑の腕の先に、奇妙なものがついた掌。

 ああ、でも、これがとても具合よく動く。

 水をかくと、体が軽く浮き上がっていく。

 

 「ぷはっ、」

 一瞬で、明るい光の世界へ飛び上がっていた。

 あれっ、ぼくはいったい、どこへ、行こうとしていたのだろう。

 どこへ、行くことになっていたんだろう。

 やっぱり思い出せない。


 大岩の上に着地し、「ふうっ」と息をつく。

 そこへ「どどどどっ、どどどどっ、」と、轟く音。

 顔を向けた先に、遠く、水しぶきがあがっている。

 ぼくは足を踏み出した。

 なんだか呼ばれているような気がしたのだ。

 

 二本の足もやっぱり緑色で、足先には掌と同じものがついている。

「ぺたっ、ぺたっ」と歩くたびに音がする。

 それがとても面白くて、むやみに行ったり来たりしてみた。

 なんだか、楽しい。

 木々に囲まれた水の流れと、それを縁取る大岩小岩を、ぴょんぴょんはねながら進んでいく。

 水音がどんどん近づいてきた。

 ひと際大きな岩を越したら、黒々とした淵に落ち込む、大滝の下に出た。


 のぞきこむと、淵は光をのみ込み、底が見えない。

 ゆらりと、大きな影が動いた。

 ぶるっ、と体が震えた。

 ぼくのいた流れはここに続いている。

 流れをさかのぼることもできたのか。


「りゅうが、ふち」

 ふいに口から出たそれは、だれが教えてくれたのだっただろう。

 そう、ここは、水辺に生きるものを守る、龍神さまの住む淵だ。

 だれもがそう呼んでいた。

 だれもが・・・。

 だれもがって、それはだれだったのだろう。


 それでも、ああこれでもう大丈夫だと、ぼくはそう確信した。

 ここに、ぼくを待っているものがいる。

 呼んでいるのだ。ぼくを呼んでいる。

 恐怖心はもう消え去っていた。

 ためらうことなく、ぼくは淵に飛び込んだ。


 光の届かない底の底目指して、ぼくは手足を動かした。

 深い深い水の底は、光のない世界だと思っていたのに、ぼんやり、ぼんぼりが灯っていた。

 ガヤガヤ、なにやらさわがしい。

「おおおっ、やっと、来た、来た」という声もする。

「しいっ、」と、だれかが制止する。


 いくつもの緑の影がゆれる。

 大きさはまちまちだけれど、似たようなつくりの異形の顔かたち。

 いったいどれだけのものたちが、ここにいるのか。

 いちばん前にいたちいさいものが、駆け寄ってきた。


「遅かったね。龍神さまは、すぐに帰ってきたよ。

 もっと早くこちらへ着くと、思っていたのに、

 やっぱり、のんびり屋さんだ」

 待ちくたびれて、怒っているような口ぶりだ。

 どこかできいた声だった。

 それはそれは、なつかしい声だった。


「よく来たね。待ってたよ」

「ここは、”あの世”、なの?」

 かすかにぼくのなかに残っていた言葉が、口をついて出た。

 そこにいるみんなが笑った。


「うううん、ちがうよ。

 ここは、人知れず生きる、あたしたち、あやかしの世界。」

 みんなが、笑っていた。


 


                              終


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笑う、河童。 あんらん。 @my06090327

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