第2話「扉の向こうに後悔の英雄は囚われて。」

 ◇◇◆◆

  

  焚き火の前に腰掛けた女が夜空を見上げている。

  

私:それは、後悔じゃないと言えば嘘だ。

  

私:固く閉ざされた扉の前で私は口を閉ざした。

  勝てる可能性は無かったのか?

  それがきっと運命、これまでのツケだったのだろう、

  私達は圧倒的な強者と遭遇し、いとも容易く敗走した。

  

私:与えられた選択肢は二つ。

  

私:全員纏めてさよならか。

  誰か一人がさようなら、だ。

  

私:しかし、私はその役目を買って出ることが出来なかった。

  普段なら、憎まれ口叩いて皆を鼓舞するあの男が、

  なんということだろう、囮になって私達を逃がすと言った。

  そんなことを言うやつでは無いだろう? 鎗でも降るんじゃ無いか?

  しかし私はそんな軽口も返せず、彼の提案にただ口を閉ざした。

  

私:そしてあの扉と一緒に自らの心も閉ざしたのだ。

  ああ、分かってた、生きて帰れるだなんて思っていない。

  命を賭けて、そして運命を変えるため果てる。

  あの男の命一つで未来が繋がるなら安いものと。

  

私:いいや、自分の命が繋がるなら安いものと。

  私はそう思ったのだ。

  我ながら自分の醜悪加減に閉口する。

  それに比べて彼の生き方のなんと高潔なことだろう。

  私もあんな風に散れたら良かったのに。

  そんな言葉を飲み込んだ。

  

私:その代わり、私は彼を英雄と呼んだ。

  命を賭けて仲間を救った彼に報いるために、

  私達はもっと大きなものを救わなければならない、

  と。

  そう、例えば、

  

私:世界を――。

  

私:ふふふ。

  ああ、これは、最低だ。

  彼が命を賭けて守った未来を、彼の思いを私はまだ利用しようというのだ。

  救ってくれた彼のため?

  いや、彼を犬死にさせた責任をとりたいというのが本心だ。

  でなきゃ私はきっと自分が許せなくなる。

  きっと彼は、いつも私のことをあの場所から見ている。

  だから、裏切ることは許されないのだ、今度こそ。

  

私:何があろうと、私はこの世界を救わなければならない。

  たとえ、代わりに何を失っても。

  

私:私は考えた。

  考える間もなく答えを出した彼のような最適解を、私は出せる自信が無かった。

  けれど、私に出来ることはそれだけだ。

  愚直に精々時間いっぱい考えよう。

  ああ、それでも。

  英雄となったあの男は、

  

私:たとえ彼にもらった命で私達がどれだけ世界を救おうとも、

  大恩あるあの男、

  置き去りにしてしまった真の英雄は、

  それでもいつか人々に忘れられてしまうのだろうか?

  

私:そんなこと、

  許されて良いのだろうか。

  それを許せば、人々は彼を忘れ、

  それどころか私達でさえやがては彼を忘れる。

  あの暗闇に残った彼は、永遠に暗闇の中に囚われる。

  

私:だから忘れてはならない、いつまでも憶えていなければ。

  それが犠牲によって救われた者の責務でありせめてもの贖い。

  

私:けれど、真に願うべきは……。

  いや、よそう。

  そんなことを考えるのは、傲慢ごうまんだ。

  故に、何としても。

  私達はせめて世界くらい救わなければならないのだ。

  

私:ならば、後悔じゃないと言えば嘘だ。

  

私:あぁ、どうしてこんなことになってしまったのだろう?

  問いかけてみても、

  固く心に閉じ込めた男は何も教えてくれなかった。

  

私:そう、彼はもう私の中にしか居ないのだ。

  

 ◇◇◆◆

  

私:もしもあの時、ただ死にゆく運命を受け入れていたら。

  

私:別れを告げる背中に手を伸ばしていたら。

  生きたいなんて思わなければ。

  代わりに世界を救うなどと逃避しなければ。

  

私:ああ。

  

私:大見得切った彼を止められていれば。

  死を覚悟した彼の笑顔に秘かな安堵を覚えなければ。

  

私:彼の隣に並び立ち最期まで、命尽きるまで共に戦っていれば。

  

私:勝てる筈などなかったさ。

  分かっている。

  けれどどうしてなのだろうな。

  奇跡的に生き残ることもできたのでは。

  そう、思ってしまうのだ。

  

私:何を宣う。

  彼に救われた分際で何をいけしゃあしゃあと宣うか私は。

  恥知らずにも程がある。

  

私:逃れざる死を覚悟して、自ら死地におもむいた彼への侮辱に外ならない。

  そんなものは、

  恩を当たり前のように享受して思って良いことでは決して無い。

  感覚が麻痺まひしているのか。

  生き残らせてもらっておいて、かも知れなかったと思うくらいなら、

  いっそあの場で死ぬべきだった。

  彼の決意を、

  彼の選択をけがすくらいならば、

  いっそ私があそこに残るべきだった。

 

私:自分でも恐れ入る。

  未だにそんな馬鹿げたことを考えているのだから。

  真に生き残るべきなのは私とあの男、

  いったいどちらだったのか。

  神にさえ分からずとも私には分かる。

  などと言えば、不遜ふそんもここに極まれりと言った具合だが、

  そんな物は明白。

  彼だ。あの場の私に生きる価値などあるだろうか。

  今だって。

  けれど、天秤にかけるのも烏滸おこがましい。

  命を賭した彼は英雄で、私など足下にも及ばない。

  私が残ったところで、皆を生きて逃がすことは出来なかった。

  或いは皆で彼を逃がそうとしても同じことだろう。そして、

  

私:私達は彼の犠牲を飲み込んだ。

  

私:なのに、

  なのに、あの時私は彼との別れ際にこう言った。


私:「死なないで」と。


私:尊い犠牲を許容したばかりの心で恥ずかしげも無く涙を流し、

  懇願するようにそう願った。

  

私:私達の未来を守り抜こうとあの場に残った彼は、

  その言葉に何を思ったのだろう。

  こんな私には分かるはずも無い。

  その答えを私が知ることも永遠に叶わない。

  みんなを守るという役目を果たした唯一の功労者は、

  固く閉ざした扉の向こうで、今や物言わぬ骸となっているのだから。

  彼の命を奪ったのはあの化物では無い、私だ。

  何なのだろう、私は。

  全てが失策で失態でその果てに大切な者を失った。

  

私:紛れもない、後悔でしかありはしない。

  

私:私はなんと愚鈍だろう。

  何故もっと念入りに調べ上げ、慎重に行動しなかったのか?

  私には努力が足りなかった。

  私はそこに付け入られ、そのツケを彼で支払ったのだ。

  尊い犠牲?

  違う、それはただの怠慢の代償だ。

  当然の帰結に何を今更後悔する。

  英雄を死地に追いやり、

  奪い取った椅子に腰掛けて飲み下す悲劇のなんと甘美なことだろう。

  運命という言葉で体よく片付けた彼も今となっては思い出で、

  皆を、己を騙して鼓舞するための便利な道具に過ぎない。

  それは許されざる悪徳だ。

  そして得意げに、彼に報いるためなどと宣うことの何と醜悪なことか。

  

私:彼の犠牲に報いるなんてうたいながら、

  結局のところこの思いは、

  我が身かわいさで生き残ったバツの悪さを誤魔化す為の演出でしか、

  ありはしないのだから。

  

私:あの男が命懸けで救ってくれたこの命は、

  ただ無為で、虚ろな後悔を繰り返すだけだ。

  そんなもの捨て置けば良かったのに。

  それを自ら捨てる勇気は湧いてこない。

  いっそあの戦いの中に身を投じられたなら、

  こんなことを思わなくて済んだのだ。

  ……などと考える私を救った彼は、きっと盛大に掛け違えていたのだ。

  私に、私達にそんな価値はない。

  勘違いだったのだ。

  ならば結局彼も愚かだった。

  

私:いや。

  

私:もしかすると、

  逆に、あれだけ強く聡明だった彼が、

  何故生きることを諦めたのか。

  それを改めて考えると、

  私達を生かすという選択は過ちだったのでは無く、

  彼の選択こそ、やはり唯一の答えだったのかも知れないと思える。

  私達はどうしようも無い屑に過ぎなかったが、

  こうして彼を失った今、もしかしたら……。

  いや。

  これは所詮私にとって最も良心の呵責かしゃくの無い都合の良い考え方だ。

  その選択で、

  救う価値の無い者達を、

  やがて世界を救える何かに昇華するための犠牲、いや――。

  儀式だ。

  

私:ふ、ふふふふふ。

  

私:ああ、なんだ、そういうことか。

  死を覚悟した彼の笑顔に秘められていたのは、

  先を見据えた彼の手のひらの上で躍る私達、

  呆れるほどの道化だったというわけだ。

  そうかそうか、得心いった。

  ああ、それでも、

  

私:それでも、後悔じゃないと言えば嘘だ。

  

私:「ざまぁないぜ。」

  きっと彼ならそう零すだろう。

  隣に居なくたって聞こえる。

  或いは聞こえなくてももう分かる。

  彼の弾き出した答え

  「生きろよ。生きて世界を救え。」

  それがきっと全てだったのだ。

  だから、そんな私にできるのは信じることだけだ。

  彼の計算は正しくて、

  私達が世界を無事、

  救えるように成長するということをだろうか?

  それとも、

  私のことを嫌っていた筈のあの男が最後に

  「あばよ」と

  言ったそのときに、あの男の背中が

  「また会おう」と

  言っていたように見えたなんて馬鹿げた私の願望をだろうか?

  そう、そんな答えはもう分かっている。

  考える必要も無い。

  迷っている暇も無い。

  

私:それなら、私達はただ世界を救おう。

  あの化物に敗北した恐怖を糧に克己こっきし、

  身体を鍛え、

  技を磨き、

  この助けられた命で彼が救えただろう命よりも多くの命を救い、

  いかなる逆境にも抗い、

  どんな絶望にも立ち向かおう。

  生きるのだ。

  たとえ希望の見えない戦場でも彼が見た未来を信じて、

  ただ生きて生きて生き抜いて、限界さえも彼を理由に超えてやろう。

  それだって、

  あの死地に赴く彼の勇気に比べたら、大した物ではないと笑い飛ばしてやろう。

  どうしても駄目なときは、あの時彼が助けてくれたように、

  私達の心はきっと彼が助けてくれる。

  なんてひどい言いぐさだろうか。

  それでも

 

私:「生きるべきは彼だった」


私:なんて言い訳してるよりずっと良い。

  それに、もしかしたらまだ――

  なんて、結局、

  

私:何をどうしたところで後悔するのは目に見えているのだから。

  

私:そんな言い訳じみたささやきは、

  響くともなく夜空のどこかに消えていったけれど、

  何があっても「もしかしたら」の先だけは口に出すまい。

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