第10話 大根役者
すっかり陽が沈んでから、足を引きずるようにセネカは校舎を後にした。私達は彼女が完全に出ていったことを確認して、同じ教室の、カーテンの中から出た。
「ぷはあ、ばれなくてよかったね……」
「あ、ああ……」
正直私はずっと情けない顔をしていたことがマナにばれなかったことの方がほっとした。なんせ長時間、音をたてないようこの狭い場所で密着していたのだから。
食堂で作戦を練った後、私達はエレナの後を追った。そしてこの旧校舎に辿り着き、セネカよりも一足早くこのいじめの現場を目撃した。
私達もこの隣の空き教室から耳を立てていたのだが、窓の外からセネカの姿が見えたので一目散でこの教室の隅、カーテンにくるまって身を潜めた。
バレなかったことは奇跡だが、彼女はあの衝撃的な光景を前にして、他のところへ目が回らなかったのかも知れない。
何はともあれ、私達は動きを悟られず恐らくセネカが夢に沈んだ原因を観測できた。しかしその内容が内容なので素直には喜べなかった。
重い空気の中で先に口を開いたのはマナだった。
「これで夢に沈んだ理由が大体わかったね」
「そうだな……」
それはエレナへのいじめを止める事が出来なかった、傍観者を貫いたことによる後悔。恐らくこのことをずっと彼女は気に病んでいた。そして木の葉が舞う、一年前と同じ景色に入り、白昼夢のようにこの一件を思い出したに違いない。
「ねえ、アニマ。 アニマは学校行ったことあるの?」
「ああ一応。 小学校だけだが」
「ふーん、そうなんだ。 一度も行ったとないから分からないんだけど、学校て勉強するところだよね?」
その純粋な質問に私の胸はチクリと痛んだ。
「――ああ、そうだ。 学校は勉強するところだ」
「ならどうしていじめが起きるんだろう、勉強をしに来てる筈なのに、どうしてお互いを憎み合うんだろう?」
私は口を開いたまま、答える事が出来なかった。
*
今日も空は冴えない。朝から辺りは濃い霧がかかっていて陰鬱とした私の心を映しているようだった。
ふとした瞬間にエレナの叫び声が耳で響く。そして何度も何度もそれを見過ごしてきたような罪悪感が私の体中を満たした。
授業も禄に頭に入ってこなかった。気が付いたら時計の針は下校する時間を指していた。帰り道、友達に何度か話しかけられたら曖昧な返事をする事しかできなかった。
あのいじめを止められなかった事実、そしてそのことに理由を付けて正当化しようとしていた自分に対する失望。色んな負の感情が合わさって意識が宙ぶらりんになっているようだった。
しかし、だと言うのに私の足はまたこの旧校舎へと向かっていた。彼女と会った時、何を話せばいいかまとまってすらいないのに。
「……私に何ができるって言うの」
自嘲気味にそう言って、私はゆっくり階段を上がった。
「……!」
また聞こえてきた、誰かが叫ぶ声。
もう、うんざりだ。思わず耳をふさいで、その場で縮こまる。
「――弱虫」
違う、弱虫なんかじゃない!仕方がないんだ、出来ないんだ。怖いんだ。踏ん切りがつかない。足が震えて、一歩が出せない。でも信じてくれ、エレナを助けたい。彼女は親友だ。家族よりも大切だと思うくらいに!
「家族が、彼女が迷惑を被るだって? そんなの詭弁だろう。 キミは怖いんだ、今の三人の友情が崩れてしまう事が何よりも。 とんだエゴイストじゃないか」
「……」
「そうやって塞ぎ込むのは、いや、塞ぎ込んでいるように見せるのは、自分が弱いと自身に偽るための演技だろう? 怠惰を肯定するための道具だろう?」
「……」
「黙っていないで口を開き給え!」
「――怖いんだ。 ああ、私は怖いんだ! だから行動に移せない……」
「ならキミは臆病者だ」
「でも分かっている。 何もできずにいたら、私はずっと負い目を感じ続ける」
「崇高から滑稽はわずか一歩の差だ。 教養のあるキミならわかるだろう、ナポレオンの言葉だ。 僕はキミじゃない、この一歩を埋めるのはキミ自身がやるべきだ。 だが、僕も傍観者でばかりいるのは癪だからね、キミの背中を押す位なら神様も許してくれるだろう」
暖かい小さな手が私の背中を撫でるように触れた。反射的に私は立ち上がり、そして声のしていた方へと振り返る。
「あ、貴方は……」
しかしその姿はもうなく、一本の黒い杖が廊下に転がっていた。
「きゃあああ!」
奥の部屋から叫び声が聞こえてきた。エレナの声だ。
私は全力で声の方へ走る。あの時とは違う、こそこそ隠れたりせず、真っすぐに。私は、弱く、臆病で、卑怯者だった。時は一直線で、過去は永遠にやってこない。だが、今は変える事が出来る。
もう後悔はしたくない。
思いっきりドアを引き、教室の中へと入る。
二人の女に囲まれてエレナは地面に座っていた。
「な、何よあんた! いいわ、文句があるなら相――ぶふぉっ⁉」
「邪魔だ」
近づいてきた女を押し倒しエレナの元へと近づく。
「あわわわ…… アニマ大丈夫? 泡拭いてるよ! 泡!」
もう一人の女は私に構う事なく、最初に呆気なく倒れた女の所に駆け寄っていた。
「――行くよ、エレナ」
「う、うん」
*
「ほんと大丈夫? アニマ……」
「ああ、一応」
頭に氷を当てながらマナは心底心配そうに尋ねてきた。まったく、頭をぶつけて腫れがひかないなんて夢どころか現実じゃないか。
「とんだ大根役者だったな、キミたちは。 マナに至ってはただのアニマを心配してる人じゃないか」
「何も演じてなかった館長さんには私達の苦悩がわかりませんよ……」
「演じてたさ」
「何の役を?」
「それは僕自身さ」
「バカらしい……」
目を細めてマナが深い溜息を吐いた。相変わらず館長に対するマナの当たりは悪かった。
「館長さん、それにしてもこの世界はセネカさんの作ったものですよね?」
「ああ、当然さ。 何をいまさら?」
「いや、だとしたらこの世界にいる人格はセネカさんの記憶からできているんですよね。 エレナさんも。 よく私達の計画に協力してくれましたね?」
「あー、確かに。 だって知らない人たちからいきなり、『今からいじめられる人の役してもらってもいいですか?』って言われて普通承諾しないよね」
ふふ、と館長は可笑しそうに笑った。
「言っただろう、僕は僕自身を演じていたって。 もう一つ台本はあったんだよ、そして役者ももう一人。 こっちは中々に優秀だったな」
「それってまさか……」
私とマナは驚いて顔を見合わせた。そんな私達を見て、館長は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
*
エレナの手を取って教室を去った。
旧校舎を出て、広場を通り過ぎ、校門をくぐると、私達は海がよく見える丘の上に辿り着いた。こんなにも走ったと言うのに息は少しも上がらなかった。
「セ、セネカどうしたの? こんなところまで――って泣いてる⁉」
「あ、ああ。 ごめん、なんか疲れてたのかな……」
変わらず天気は悪かったが、風は落ち着て波は穏やかだった。薄くなった雲の奥で白い太陽が光っていた。夜には澄んだ星空が見えそうだ。
私は髪飾りを外して真珠を真っ白な空と重ねた。
「――昨日、あの場にいたのに、君を助ける事が出来なかった」
あの時と同じ、俯いたまま私は伝えた。
「……」
「一歩が踏み出せなかったんだ。 ――酷い話だよね、本当に」
「でも、セネカは私を今日助けてくれたじゃない。 ありがとう、凄くカッコよかったよ。 もう男の子だったら絶対離さなかったのに」
その言葉に私は思わず顔を見上げた。
潮風に純白の髪を靡かせながら、彼女は昔から何も変わらない晴れやかな笑みを浮かべた。
また涙が頬を転がり落ちた。嬉しかった、ありがとうの言葉が。でも、悔しかった。もっと早くにこの言葉を聞けなかったことが。
「……恥ずかしいよ」
「えへへ」
エレナは私と頭をくっつけて腕を回し背中からぎゅっと抱いた。
「セネカが私を心配してくれていたこと、助けようとしていたこと。 その気持ちが知れてすごく嬉しい――でもね」
彼女は今にも泣きだしそうな声をしていた。
「そのせいでセネカが傷つくのは、私はすごく嫌! 明るい、眩しいくらい明るいセネカが私は大好きなの!」
もうエレナは顔を歪ませて、雨のような涙を落としていた。
「だから夢に沈まないで!」
木の葉が風に乗って私達の間を走っていく。風に雲は動き、その隙間から光が差し込んだ。土の色をした冬の草は明るい光に照り輝いた。
「ここから出てきて、セネカ。 お願い、世界を嫌わないで。 確かに嫌な事は多いけど、でも私達を繋いでくれたのは紛れもないあの世界なんだよ」
そう言ってエレナが指し伸ばした手を、私はゆっくりと掴んだ。
「帰ろう、セネカ」
「――うん」
刹那、辺りは真っ白な光で満たされた。
そして意識は糸を切られたようにプツンと途切れた。
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