第9話 懐古

 親元を離れて、もう十年の月日が経った。いつも優しいお父さん、怒ると怖いけど綺麗でかっこいいお母さん。ずっと一緒にいると思っていた二人が急に離れて、当時の私は感情の整理が出来ずよく泣いていた。モノに当たったり、人に当たったりもした。それがルームメイトのメアリー。

 出会いは最悪。まだここに来て一年の冬、クリスマス休みで実家に帰ろうとしていた矢先に、酷い嵐がやってきた。寮の共有スペースに閉じ込められた私はむしゃくしゃして、思いっきりクッションを投げた。それに当たったのがメアリーだった。


「ちょっと何すんのよぉ!」


勿論、人に当てるつもりなんてなかった。ただそれを上手く言葉で伝える事が出来なくて、真っ赤になって怒ってきたメアリーに私は拳で返した。


「――わ、わけわかんないんだけどぉ⁉ え、メアリー悪くないよねぇ? 絶対悪くないよこれぇ⁉」

「う、うるさいうるさい!」

「ぶふぉ⁉ いいわ、分かったよ。 そっちがその気なら!」

「ちょっと二人ともやめなよ! だめだよ喧嘩は!」


 メアリーが私に殴りかかろうとしたところを彼女は力づくで止めに入った。本当に綺麗な白い髪を揺らしながら。イライラしてたけど、人形さんみたいって彼女を見て私はそう思った。それがエレナ、もう一人のルームメイトとの出会いだった。

こうして私は、曲がりなりにも二つの空白を埋める事が出来た。

 あっという間に時は流れた。小さかった私達はあっという間に大人に近づいた。三人の中で一番背の低かった私は、いつの間にか誰よりも高くなっていた。

 中等部から高等部に上がると、寮の部屋は三人部屋から二人部屋になった。そして、高等部からは外部からの生徒が内部の倍以上入ってくることもあり、三人は別々のクラスになった。初等部から八年間一緒だった私達は初めてバラバラになったのだ。


「――じゃ、私が違う部屋に行くよ」


 お通夜みたいな空気の中で、最初に手を挙げたのはエレナだった。


「ど、どうしてぇ? 私が行けばいいじゃない?」

「君はいいよ行かなくて、それにエレナも。 私が行く」

 ちょっと待ってとそこにエミリーは割り込んだ。

「はあ? セネカはいいよぉ。 だってあなたは寂しがり家じゃない――私がいくよぉ」

「君っていつもそう! 本当は出来ない癖に見栄張っちゃってさ」

「……あんた、一言多いってよく言われない?」

「あら、君こそ語尾に一文字多いってよく言われないかしらぁ?」

「なにそれぇ⁉ 私の真似?」

「そうですけどぉ? 文句ありますかぁ」


 私達二人は立ち上がり、睨み合いながら顔を近づけた。


「――もう、二人とも落ち着いて! ダメだよ、喧嘩は!」


 慌てた様子のエレナが間に入り、制止を求めた。


「はあ、こうなるのが嫌なんだよ…… いい、私も三人で一緒にいたい、離れたくない。 でもね、私はそれ以上にこの関係が崩れる事の方がもっとイヤ」


 エレナはすっと息を吸いこんでから、私達一人一人の顔を見て話しだした。


「セネカ、貴方は沸点が低すぎ。 すぐに手をだすな」

「うっ……」

「エミリー、貴方は好戦的すぎ。 売られた喧嘩を買うな」

「うぅ……」


 でもね、とエレナは付け足すと、子供を見るような優しい目に変わった。


「――セネカとエミリー、二人ともすごく友達思いで、すっごく優しい女の子」


 エレナは私達に抱きついた。彼女の細い手に三つの頭が囲まれた。これは昔から、喧嘩した後に仲直りの印としてやっていた。でも最近は滅多に無かったから、ちょびっとだけ、恥ずかしい。


「ほら、仲直りして。 二人とも」

「――ごめんエミリー、言い過ぎた」

「私もごめんねぇ、セネカ」

「よし、いい子だいい子だ」


 エレナは私達の頭をくしゃくしゃ撫でた。


「……やめてよエレナ、恥ずかしい」

「でも、ちょっと懐かしいかもぉ」

「ふふ、またこうしよう。 また三人で集まった時、もう一度」


 私は顔を下げてしまっていて、そう言ったエレナがどんな表情をしていたのか分からなかった。

暦は年の瀬に近づいていた。高等部に上がってからも、時の流れはあっという間だった。親しかった友と離れ離れになり、加えて知らない顔が増えて不安ばかりだったが、それは杞憂だった。

放課後の廊下は、多くの生徒で賑わっていた。もう外の陽は傾いていて、辺りは茜色に照らされていた。


「セネカー! この後遊びに行かない?」

「ああ、ごめん。 野暮用があるんだ」

「そっか分かった! じゃあまた明日ね!」

「またな」


 沢山の新しい友達ができ、変わらず充実した日々を過ごす事が出来た。それにメアリーとの二人の暮らしも、衝突はかなりの頻度で起きるけれど、案外悪いものでは無かった。

 去っていく彼女に手を振ると、私は壁に掛けられた時計を見た。あと少しで彼女のクラスの授業が終わる時間だった。


「――行かなきゃ」


 私は建物を出て、小走りで中央の公園を跨いだ旧校舎へと向かった。レンガ造りの現校舎と異なり一面が木で作られたその建物は低層階までしかないこともあり、陽当たりが悪く、夕日の差し込んだ色は浅黒く濁っていた。

 この学校は進路によってクラスも変わる。私と違ってエレナは進学を希望していた。進学クラスは勉強を人一倍する必要があったため、彼女らが集中して授業を受けられるようにと、このように違う校舎に置かれていた。

 エレナと会う機会は滅多にない。だと言うのに、たまに食堂で顔を合わせても、決まって彼女は忙しいからと言ってすぐにその場を離れた。そんなエレナの顔色は酷く沈んでいるように見えた。

 まさか、とは思うけど、彼女から避けられているのではないか、と私は薄々感じていた。私はその漠然とした不安を、エミリーにも相談する事は出来ていなかった。

 もし間違っていたら、私が疑ったことを悲しく思われるだろう。もし正しかったなら、三人の関係は――それが今日一人で彼女の元へ訪れた理由だった。


「……」


 階段を昇ると、何か話している声が聞こえてきた。一語一語を聞き取る事は出来なかったが、その優しい声音はエレナの声だった。

 私はホッとして胸をなでおろした。

 よかった、まだ帰ってなかった。

 窓から外を覗くとさっきよりも陽が沈んだ中庭には、授業が終わり寮へと向かうより多くの生徒で賑わっていた。時折聞こえてくるその声を除いて、辺りは静寂に包まれていた。遮音性に優れた校内は、辺りの喧騒とは一切縁がなかった。

  

「……!」


 耳に飛び込んだその声は、怒号と似た、強いものだった。するとなぜか私は逃げるように、空き教室の中へ身を潜めた。


「ねぇ、何とか言いなさいよ!」


 女が叩きつけるように言い放つと、それに続いて震えながら息を呑む音がした。壁の奥に私はそっと耳を傾けた。

 その妙に甲高い声は聞き覚えがあった。確か、フリューゲルという貴族の娘だ。しかし様子がおかしい。


「もう、本当にそんなところがむかつくのよ」


 そうだよ、と何人かの他の女が続いて同意した。


「……」

「ほんと、庶民の癖に生意気なんだから!」

「ああっ!」


 それは涙の混じった彼女の声だった。


「なにこの髪飾り?」

「セネカ様がつけてらしたものと似てますね」

「そう、庶民には贅沢すぎると思ったのよ。 盗品に違いないわ!」

「や、やめて! 髪飾りだけは!」


――セネカ、何があっても問題を起こしてはいけないよ 


 動悸が早くなるのを感じた。間違いなく、それはいじめの現場だった。でもなんでエレナが? こんなのってあんまりだ。


「友達から貰った大切なものなの!」

「貰った? 盗んだの間違いでしょ!」


 気色の悪い甲高い笑い声が聞こえてくる。


――嫌な事があっても立ち向かっちゃいけないんだ


「あ、あれ……?」


 しかし心とは裏腹に、私は立ち上がる事すらできなかった。すっかり腰が抜けてしまって、力が入らない。

「やめて! やめてください……!」


――どうしようもない事が、この世界にはあるんだ


 そして何よりも、この声が、頭から離れない!

 ガラスが割れる音がした。エレナの髪飾りだ。続けて聞こえてくる涙を啜る声、私は聞いていられなくて両耳を手でふさいだ。


――セネカ、優しいセネカ。 貴方は強い、そしていい子。 でもね、学校では絶対に問題を起こしてはいけません。


 父、そして今は母の声。これは確か、あの三人が出会えた日、学校に親が呼び出された後聞かされた話だ。

 父は絶えず冷汗を流し、母は憔悴しきっていて、二人とも普段とは違う様子だった。


――だって貴方だけじゃない、私達にまで、いいえ、お家に影響が出てしまうの。


 そうだ、もしこれで止めに入ったら。いじめた側の一人は父よりずっと裕福で権威のある貴族の娘だ。気を悪くした彼女はきっとあること無い事を親や学校に吹き込んでくる。

 私の行いで家族を終わらせてしまうかもしれない。

 でもエレナはどうなる?

 このまま、何もしないと彼女はずっといじめられる。エレナの家は裕福じゃない。訴えたところで泣き寝入りするだけだ。

 でも、私に何ができる?

 仮に動いたとして、誰が救われる?

 私の家は失墜し、エレナは学校を追放されるだろう。


 だったら、このまま――


 弱虫、と誰かが言った。

 でも私は教室の隅で震えたまま、結局何もすることが出来なかった。


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