第2章
第5話 依頼
「ちょちょ――う、うわあああ!」
「……またか」
ドア越しに聞こえてくるマナの叫び声でまた目を覚ました。彼女が働き始めてから一か月、毎日これが続いている。私の目の下の隈はもしかしたら前よりひどくなっているかもしれない。
マナは孤児院からまさに裸一貫で飛び出してきていた。彼女の全財産が詰まっていると思っていたスーツケースは着替えの服だけが詰まっていた。「女の子は服が命なんです!」と言った時は呆れて声も出なかった。
ともかく、彼女には宿を借りる金も無いため、安く借りられる賃貸をカイから斡旋してもらえるまでの間は、ひとまずこの我家兼職場で暮らすことになった。
「――慣れとは恐ろしいものだ」
心底そう思う。最初は睡眠不足で悩まされていたが、今ではすっかり彼女の叫び声は教会の鐘よりも規則正しく、朝動き出す隣人の物音や馬の鳴き声よりも煩わしい、最高最悪の目覚まし時計となった。おかげさまで早寝早起きが型についてしまった。
重い瞼を擦りながら、彼女のいる台所へと私は向かった。
「おはよう。 今日も早いね」
エプロン姿のマナは私の声に振り返ると気まずそうな笑顔をした。
「あ、おはようアニマ。 ――もしかしてまた起こしちゃった?」
「うん」
「ご、ごめんね。 明日は静かにするから……」
「ああ。 で、今日は何があったの?」
「目玉焼きを作ろうとしてたんだけど、ほら爆発しちゃって……」
マナは叫び声の原因――黒焦げになったフライパンを見せてきた。よく見るとコンロの近くには天井まで黒い炭が炎の形でこびりついていた。
「うう…… どうしていっつもこうなるんだろう……」
「私が聞きたいよ……」
どんな手順で目玉焼きを作ったらこんな炭の塊が生まれるのだろうか。
「と、とにかくパンは出来上がってるからそっちを食べよう…… さ、座ってアニマ」
「うん……」
「フライパンに油を敷いて、卵をのせたの。そして火を付けたんだけどこうなった……」
マナは皿に乗った謎の物体に指さしてそう言った。
「まあ、明日頑張ればいいよ! 次は大丈夫だよ、多分……」
「ありがとう、明日も頑張ってみるね……」
「それじゃ、いただきます」
「いただきます……」
目に涙を含みながら、マナはゆっくりとパンを口に運び始めた。悲しんでいる彼女に対して失礼だが、子供みたいに表情が豊かな彼女は可愛らしかった。
そして何より、その鈍感というか無頓着な所。
現にエプロンを脱いだ彼女は薄いシャツ一枚で、下着の線がくっきりと浮かんで見えた。
「……? どうかした?」
「――あ、ごめん。 何でもない」
曲がりなりにもこんな美少女と一緒に暮らしているのだ。ろくに女性と接したことのない私には、何だか他人の家にいるような緊張感があった。
「なーにマナちゃん見て鼻の下伸ばしてんだこの野郎」
いや、緊張感なんて一瞬で消し去った。そこに朝食を終えて優雅にコーヒーを啜る角刈りがいるからだ。
「なーに当たり前のように人様の食卓上がり込んでんですかこの野郎」
「まあまあ二人とも落ち着いて……」
「いやだっておかしいでしょ! あんた何で私の家で私よりも早く朝食食ってんだよ⁉」
「お、俺に歯向かうか。なんだ、それが家賃を何か月も滞納しているやつの態度か? おい?」
カイはそう言うと性格の悪そうな笑みを浮かべた。
「ぐぬぬ……」
だめだ、完全に私が悪くて何も言い返せない。
「ダサいよ、アニマ。 絶望的にダサすぎる……」
マナの白い目線が痛い。
「まあ幼馴染の好だ。 滞納してる分は、この暗黒物質を除いた朝食で許してやる」
そう言うとカイは黒こげの目玉焼きをフォークでつついた。すると固形だったその暗黒物質はすぐに粒子状に崩れた。
「暗黒物質って何ですか⁉」
「恩に着る……」
ついでに暗黒物質も処理してもらえると嬉しいのだが……
「まあでも、こうやって食卓を囲んで、おんなじものを食べて、お話しして……なんか家族みたいであたしは好きだな」
「……」
顔を引きつらせながら恐る恐る目玉焼き(?)を口に運ぶカイ、そして不意を突かれてきっと間抜けな表情をしているだろう私を見て、マナはやさしく微笑んだ。
「……それにしてもアニマ、家賃滞納ってどういうことなの?」
「……実はここ最近、仕事が無いんだ」
「厳密には一か月と二週間だな」
「あらら…… 確かにあたしがここに来てから一度も仕事してないね……」
「そんで、貯金もない――って⁉」
何かに気づいたマナはテーブルを叩くと目を尖らせて体を震わした。
「それじゃご飯が食べられなくなっちゃうじゃん! これは大問題だよ、アニマ! 仕事を探さなきゃ!」
「動機は飯かよ!」
「お、いい威勢じゃんかマナちゃん! ――そこで今日はカッツカッツなお前らに吉報があるんだが」
「なんですなんです⁉」
そう言うとカイは鞄から折れてボロボロになった封筒を取り出して、テーブルに投げつけた。
「スコットランドの寄宿学校――カラデール女学院に通うお嬢様からのお仕事だ。 親御さんはここロンドンでも名が轟く程の凄腕の行商らしい、報酬は弾むぞ」
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