第4話 夢の後に
起き上がると涙がぽたぽたとシーツに落ちた。
そこは真っ暗闇でも、魔女と魔導士がいる海辺でも、突然崩れだす画廊でもない。ただ普段の生活がある私の部屋だった。
窓掛けをそっとめくるとまだ外はほの暗く、静寂に包まれていた。通りには馬も人もいない。ただ猫が一匹、石畳の上で眠たそうに大きな欠伸をしていた。
「あの夢は何だったんだ……」
夢の終わり際、イトリが私に語りかけていた言葉の真意、そして私が今どうして泣いているのか。
思い返せば思い返す程、謎は溢れかえった。
「あーもう!」
頭を掻いても混乱するばかりだ。
するとジリリ、と呆然としている私を覚ますように玄関から呼び鈴の音が聞こえてきた。
「――はい、今出ます!」
私は涙を拭い、軽く身支度を整えて急いで寝室を出た。早朝に人が訪ねてくることはそう珍しくは無い。
モヤモヤとした気持ちを切り替えて帽子掛けからコートを取り羽織ると、すぐ隣にある玄関のドアノブを回した。扉を開けて外から入り込む空気は冷たく乾燥していた。
「あの、恩返しをしに来ました」
沓摺りの奥には脇に大きなスーツケースを置いた灰色のポンチョを着た少女が、深くフードを被り立っていた。
少女は落ち着かない様子で、わさわさと横に揺れていた。
「恩返し……?」
私の声にその小動物のような横揺れはピタッと止まり、彼女は顔を見上げて深く頷いた。
犬みたいだ……
「はい! 十年前にしていただいた……ここからずっと南にくだった港町の孤児院を覚えていますか?」
「えっと――」
少女は、ドアを跨ぎ私との距離を詰め両手を握った。弾みで彼女のフードは取れた。彼女は肩まで癖のある赤い髪を伸ばし、人形のような整った顔をしていた。
「あたし、マナです! あの時は夢を見続けていたあたしを助けてくれて、本当にありがとうございます」
近い、近い、近い!
マナと私は目と鼻の距離だった。恥ずかしくなって私は思わず彼女の掴んだ手を離して、後ろに下った。
「ああもう、マスケット銃を持った魔女が現れたと思ったら次は恩返し? 朝から頭が追い付かないよ! ……そもそも、人違いじゃないかな? 十年前私はまだ六歳だったぞ?」
しかしマナはまた私の手を、今度は引っ張るように掴み距離を詰めた。
「……魔女? って人違いだなんて、そんなはずありません! だってここは夢診療所ですよね?」
マナは片手に持ったこの場所の住所が書かれたメモと玄関の隣にある看板を指さした。
「そりゃあそうだけど……」
「何で隠そうとするんですか? ――もしかしてあたしが嫌なんですか? そうなんですか?」
今にも泣きだしそうな声でマナはそう言った。握った手を体に押し付けて、ほぼ私とマナは密着している状態だった。
胸の柔らか――って違う! 確かにマナの言う通りここは夢診療所だけど、私がここを開いてからまだ一年しか経ってない。どう考えてもこれは私じゃなくて違う人だ。
「えぇ……ちょっとちょっと! 本当に知らないんですって!」
「でも貴方のその白い髪! 目の下にそんな隈はなかったし声は記憶より二オクターブ低いですけど、その髪はまさに記憶と合致しています。 動かぬ証拠ですよ、観念してください!」
なんだその犯人に問い詰めるような口ぶりは。それに髪だけだと証拠が少なすぎるだろ!
「観念しろたって、あんたのその茶髪と甲高い声は一インチも記憶にありません! ……あ、ちょっ……触るな! くすぐったいでしょーが!」
マナは全く聞く耳を持たなかった。そこに助け船、否、さらに場をかき乱すような男が現れた。
「おうおう、朝から元気じゃねえか」
「カイ……」
長身で角刈りの男は玄関からすぐ近くの階段で煙草をふかしながらそう言った。その男――カイは所謂幼馴染で、この四階建てのアパートの一階に住んでいる。そしてこの診療所の大家でもある。
「男と女の言い争う声が聞こえて飛んできたんだがお前だったかアニマ。 やるじゃねえか」
カイは私の頭をかきまわし、楽しそうに微笑んだ。
「いやあいっつも俺の後ろにくっついて離れなかったお前が女連れ込んでるなんてなあ。 感慨深いなあ」
「感慨深くないから、連れ込んでないから!」
「――しかもなかなかのべっぴんじゃねえか。 ええ? それに背丈は低いが大事なとこは栄養届いてるみたいだし」
耳元でそうカイは最低な事を口走った。
確かに彼女は豊満ではあるけれど――問題はそこじゃない!
私はカイの耳を引っ張り尋ねた。
「カイ! 何なのこの人?」
「小さいときお前に助けられた人だ、恩返しがしたいらしい」
「それは聞いたよ!」
「この嬢ちゃんはマナって言うんだ」
「それも聞いた!」
「なあ、アニマ。 事情は知らんがこの子は遠い土地の孤児院を出てすぐ、自分の全ての荷物を持ってこの診療所にやってきたんだ」
事情全部知ってるじゃないか……
「――話くらい聞いてやれよ」
「そうですよ」
ぷくっと頬を膨らませて蚊帳の外だったマナは言った。
「なあマナちゃんよ、こいつは純血の獏だからってプライドが高いんだよ。 寂しい奴だよなあ」
「純血……」
「しかしなあ酷いじゃねえかアニマよお。 女の子が長旅してまで会いに来たってのに茶一つ出さねえのは」
よく見ると彼女の衣服と持ち物は砂埃を被って汚れていた。何日も風呂に入っていないのか、髪はべたっとしていた。
「それにここらはゴロツキが多いから、若い女の子一人にするのは危ないだろ?」
確かにこの場所――西ロンドンの治安は良くない。実際、一本路地裏に入れば浮浪者や薬物中毒者がたくさんいる。それにこの子だったらそんな連中から声を掛けられても気にせずついていきそうだ。
「うーん……」
「へ?」
それにちょっとバカっぽい。一人放置するのは酷だろう。
「……わかりました、とりあえず上がってください」
「やったあ!」
「よかったなあ、マナちゃん。 ――ところでアニマ」
打って変わりカイは珍しく表情を硬くした。その口ぶりと仕草から、なんとなく私はその意味を察した。
「今日は特に隈が酷いな……薬は飲み忘れるなよ」
「ああ、分かってる」
カイは用事があるからと言ってすぐにその場を離れていった。
*
診療所の中はとにかく変な物で溢れている。腰の高さまである地球儀、子熊の剥製、何が入っているのか未だに分からない試験管、挙げればきりがない。そこに机と椅子が一つずつと、目の前に応接用のソファがテーブルを挟んで二つ。私とマナはそこで向き合って座った。
マナは部屋中に置かれた物に気を取られているようだった。
「――こほん、紹介が遅れました。 この診療所を開いている獏のアニマ・フェルメールと申します」
「……あ、えっと、マナ・シレノスです」
マナはぎこちなく頭を下げた。
「……君を助けた人の事だけど」
「あ、はい」
「一人だけ思い当たる人がいます。 彼女は私の前にこの診療所で働いていました」
「その人はいまどこに……?」
マナは身を乗り出してそう言った。
「――今は恐らく外国に行っています」
「……そうですか。 いつ帰ってくるんですか?」
「それが私にも分からないのです。 先代と関わりがあったのはさっきまでいたカイなので」
先代の事は私がここで診療所を始める前から知っていた。カイが頻繁に彼女の凄さをまるで自分の事のように私に語っていたからだ。ただ私がこの場所に来た時には、紙切れを一つ残してとっくにどこかに行ってしまっていた。そこにはミミズの這ったような汚い字でこう書かれていた。『この診療所を任せた』彼女らしいとカイは腹を抱えて笑っていたが私はちっとも笑えなかった。おかげさまで全く知識のないまま仕事を引き継ぐことになり散々だった。
部屋を見渡す。相変わらず物で溢れていて雑然としている。けれど、これらは全て彼女が私に残したものだった。それらの多くが貰い物だという。きっと慕われていたのだろう。
変な夢を見た後だったから頭が回っていなかったが、今冷静になって考えてみると、十年以上前からこの仕事をやっていた先代ならマナのように恩を感じて遠くから訪れる人がいてもおかしくない。
きっと彼女もその一人だ。
「そう、ですか……」
マナは倒れるようにソファに腰かけた。曇った表情をしていた。当然だろう、会いたかった人がここにはいなかったのだから。
「――恩返し、したかったなあ」
「恩返しって具体的に何をしようとしていたのですか?」
マナがここに来た時から口にしていた恩返しと言う言葉が私は気になっていた。
「仕事のお手伝いです」
「お手伝いですか……申し上げにくいですが、私みたいに夢に入れなければ仕事はありません」
一応王立の名を冠しているが、この診療所の事業としての規模はかなり小さい。書類の作成やお金の管理は私一人で完結していた。
ただ、夢に入れる人材に関しては一人だととても十分とは言えない。せめて、あと一人威勢の獏が必要だ。なぜなら、私の療法が夢を食べつくすのではなく、夢を完結させることにあるだけあり、患者の心情の理解が必須だった。なぜなら、女性の患者に当たった時上手く立ち回るためには女心のかけらもわかりゃしない私なんぞではなく、同じ女性が手ほどきしたほうが間違いなく事がうまく運ぶからだ。
「いえ、だから夢に入る仕事のお手伝いがしたいのです」
「……えと、すみません。 もう一度言ってもらってもいいですか?」
「夢に入る仕事のお手伝いもしたいのです」
少し恥ずかしそうにマナ頬を赤らめながらは言った。
夢に入る仕事の手伝いもしたいだって?
思わず彼女の手を掴み、今度は私がテーブルに身を乗り出した。だってそうせざるを得ないから!
「夢に入る事が出来るの⁉ じゃあ君も獏なのかい!」
「ふぇ⁉ あ、えっと。 はい……」
「仕事の手伝いがしたいの⁉」
「あ、あ、うん……」
なぜかマナの返事はたどたどしく、顔はタコみたいに真っ赤になっていた。なるほど起きてからもう時間がずいぶん経った気がする。陽が昇ってきてそれが窓から差し込んだんだろう。
「あの、ただ、私は祖父が獏の混血なので力が弱く、人の夢に意識して入る事は出来ないんです……」
「いや、大丈夫だよそれくらい! 私が何とかサポートするから。 マナさん、もしよかったら此処で私と働きませんか?」
一瞬の静寂。呆気にとられたマナは目を丸くした。
いつの間にか立場は一転、今度は私が必死に彼女を引き留めようとしてた。
「純血のアニマさんと違って、獏としての力は弱いんですよ?」
「血なんて関係ないよ。 同族は絶滅危惧種でね、人材は喉から手が出るくらい必要なんだ!」
「本当にいいんですか……?」
「ああ、勿論!」
私は敬語にする事も忘れて彼女に語り掛けていた。
少し恥ずかしい。
「――こほん、失礼……」
そんな私を気にもしないで置物のように座っていたマナは力が抜けたみたいに背もたれに頭を預けた。
「よかった、ここで働いてもいいんだ……」
「マナさん、これからよろしくお願いします」
「はい、喜んで! ――喜んで、恩返しさせていただきます!」
彼女は立ち上がり、窓の方へと歩いて行った。
「――ねえ、敬語やめない?」
「え?」
「だってあたし達同い年だし、これから一緒に働くんだから他人行儀なのはちょっとやだな」
「これ開けるね、埃っぽいし」マナはそう言うと閉ざされた窓を思いっきり開けた。長い間開けていなかったからか、溜まりに溜まっていた埃が部屋中に飛び散った。
「こほっこほっ……」
思わず私は咳き込んだ。しかし、ドレスのように揺れるカーテンの隙間から差し込んだ光に反射したそれは雪のようにも見えて綺麗だった。
「……」
私はそんな彼女に目を奪われてしまった。
「すんごい埃! どれくらいの期間掃除してなかったの?」
「――引っ越してからずっと」
「ほ、ほんと?」
「本当だよ。 だから二年くらいかな」
彼女の頬は明らかに引きつっていた。
「何そのあからさまに引いてる表情は……」
「そりゃ引くよ……アニマって眼鏡かけてて真面目そうなのに案外適当なのね……」
「悪かったね!」
男一人だと大変なんだよ。
「ふふっ…… とにかく、私もここに住むんだからまずは掃除から始めるよ! これからよろしくね、アニマ」
「ああ、よろしく……ってここに住む⁉」
「そうだよ?」
あっけらかんとした表情でマナそう言った。
「そうだよ、じゃないでしょ!」
とても「そうだよ?」だけで済む話じゃない。だって考えてみてくれ、年ごろの男女が同じ屋根の下に暮らすなんて、しかも今日あったばかりの二人が。付き合っても、友達でもないのに。
「あ、ここもすごい埃……」
動揺しきってる私なんてお構いなしにマナは辺りを物色し始めた。
ああ、もうどうにでもなれ。心の準備をする時間すらない。マナは「この部屋使ってもいいよね」と私の返事を待つことなくスーツケースを引いてリビングの奥、私の隣の部屋に入っていった。
「ちょっと待ってその部屋は――」
六畳ほどの空間にベッドがただ一つ。質素さを極めたその部屋で早速マナは荷物を開いていた。
「? 使っちゃダメだったかな?」
なんで、とマナは首を傾げた。
そこはだめだ。だって……
「ああ…… 人が住んでるんだ」
「え、でも見てよ。 ベッド一つで物なんか一つもない。 とても人が住んでるだなんて……」
そうだ人なんて誰も住んでいない。
現にここは空き家のようじゃないか。
私は何を言っていたのだろう?
「……そうだね。 ごめん、なんか勘違いしてた。 起きたばっかりだからまだ寝ぼけてるのかも」
「ふふ、可笑しい。 じゃあ私はここに住んでも大丈夫かな?」
「……ああ、もういいよ別に」
「やった!」
マナは拳を上げて喜んだ。そしてウキウキしながらまた荷物を広げ始めた。
私はその様子を扉に肩を預けてじっと眺めた。夢で魔女と会い、起きたら知らない女の子が突然押しかけてくる――こんなの今までの人生で一番慌ただしい一日のはじまり方だ。
だが不思議と悪い気はしなかった。妙な懐かしさを感じたからだ。ずっと昔に、こうしてこの部屋に誰かがいたような。
何もなかったこの部屋が、こうして活気に溢れていたような気がして。
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