第3話 イトリの画廊

 導かれるがまま、代り映えの無い景色を歩き続けると、いつの間にか私達は広大な宮殿の前に辿り着いていた。

 イトリは私に「ついてきたまえ」 と、十代前半の外見には見合わない大人びた口調で言うと前を向いて歩きだした。

 蝋燭の赤い光に照らされた廊下には所狭しに大小さまざまな絵画が飾られていた。教会や貴族の家にありそうな立派な宗教画から、明らかに素人が描いたバランス感覚が滅茶苦茶な静物画まで、その種類は多岐に渡った。


「どうだ、統一感がないだろ」

「自覚はあるんですね……」

「まあね」


 そして館長は延々と続く画廊を歩きながら私に語りだした。


「どうだ、目的地まではまあまあそこそこの時間がある。 折角だから昔話でもしようじゃないか」

 

 なぜだが、喜々と語りだす彼女が私には別の人に見えた。


「魔女の物語は知っているだろう? あれは酷い話だ。 正しい歴史を受け継がせるのがどれほど難しいのか実感したよ。 盛に盛られ、削りに削られ、そこに蛇足の連続――要するに間違いだらけってことだ。……実は夢自体を創ったのは僕じゃないんだ。僕は不確定的な存在だった夢に空間の魔導士の手を借りて肉付けしただけなんだ。 アイデシアの歴史が修正されたみたいに、僕のも誇張されているんだよ」

 

 それは今までの通説をひっくり返す衝撃的な発言だった。


「……⁉ じゃあ、夢っていったい何なんですか?」


 分からない、とイトリは首を横に振って答えた。

 

「僕にとってずっと昔、キミにとったら途方もない過去から、人の数だけ夢が存在していた。 そしてその数以上の解釈があった。 ある民族は夢を神からの啓示と信じその体験を隣人と共有した。 ある人々は、夢を音楽、文学、芸術とあらゆる創作の元とし、形にして後世に残した――いつの間にか全て魔女のせいに変わってしまったがな」

 

 そう言うと彼女は自嘲気味に笑った。


「とにかく、この場所はそんな夢の軌跡を集めている場所だ――画廊とでも言っておこうか」

「つまり、ここにある絵は全て誰かの夢であると」

「その通り」


 イトリは足を止めて、まだ乾ききっていない、油の匂いがする絵をじっと見つめた。そこには向日葵畑で遊ぶ親子が描かれていた。沈んでいく夕陽の赤黒さが写実的だった。

 その絵に何か思い当たる事があるのだろうか。しかし、私には彼女の青い瞳が絵のずっと遠くを捉えているように見えた。


「この絵もその一つだ」


 そう言うと彼女はまた進みだした。


「しかしいつからか、ぱたりと夢にまつわる作品や伝承は出てこなくなった――どうしてだと思う?」


 振り返り、彼女はいたずらっ子のような顔をした。

 私は歩いてきた道の方へと指を伸ばし、掛けられた絵画をなぞってすぐ横にある絵画を指さした。それはまだ木炭で描かれた下書きの段階で、布で消そうとした後が残っていた。


「私達が進むにつれて無造作に飾られていた絵画――夢の軌跡は段々少なくなってきました。 そしてこの描きかけの絵を境に壁には何もかけられていない」


 イトリは頷いた。


「突飛かもしれませんが、それは人が夢を見なくなったからでは?」


 私は得意げに館長を見つめた。

 どうです、完璧な推論でしょう。ほら驚いて声も出せないじゃ――あれ、妙だ。何なのだろうこの静寂は。

 不意を突かれたみたいに館長は目を丸くした。そして彼女の肩は小刻みに震えはじめ、ぷぷっと吹き出した。


「いや、人は夢を見ているよ。 現にキミはこの場所にいるじゃないか!」

「っ……! 確かに……」


 何という凡ミス。キメ顔で言ったこともあってか、とてつもなく恥ずかしい。

 私は真っ赤になった顔を両手で隠し狼狽えた。


「まあ着眼点は悪くないぞ、うん。 事実アニマが指摘した通り、あの絵から先に絵画は飾られていない」

「ではなぜ?」

「夢は中々記憶に焼き付かない。 覚えていても場面の一部だけしか思い出せない断片的なものだったり、楽しかった怖かったみたいな漠然とした感想だけだったりする。 ――なら、これはどうだろうっ!」

「ちょっ……⁉」

 イトリが急に杖で私を押し倒し馬乗りになった。そして彼女は私の両手をがっしりとつかみ身動きをとれなくした。

 鼻と鼻が触れそうな距離だった。しかも頭から下は全て密着していた。足は絡められ、うまく動かせなかった。


「イ、イトリさん⁉」


 急すぎる展開に私の頭はついていけなかった。


「……暴れないでくれ。 ん……君は温かいな」


 艶めかしい声を出した館長は馬乗りになったまま、下着姿になった。


「この夢は、こうして人の温かさ――温覚がある。 そして勿論、冷覚があり、痛覚があり、触覚がある」


 イトリはその冷たい手で私の肌を舐めるように触れ、最後につねった。


「痛っ……」

「つまり皮膚感覚があるんだ――ならば皮膚快感は得られるだろうか?」


 そしてイトリは瞳を閉じ、ゆっくり唇を近づけてきた。


「ちょっとちょっとちょっと!」


 頭が沸騰しそうだ!

 イトリの息が鼻にかかる。もう何とでもなれ、私も目を閉じ、その時を待った。


 唇に、暖かく柔らかい感触がした。


「へ?」


 しかしそれはイトリの唇ではなく、彼女の人差し指だった。


「――ここから先があるとしたら? 貴方は夢から覚めたいと思う?」


 大人びた口調でイトリはそう言った。彼女の唇は蝋燭の光に照らされて鮮やかな赤色をしていた。


「いいえ」


 精気を失った声で私は即答した。


「うむ」


 イトリは満足そうに頷くと、私の体から離れ、脱いだコートを羽織り立ち上がった。


「何を本気に思っていたんだ私はああああ!」


 これはそもそも実証実験じゃないか! 私はまた恥ずかしくなって今度は体を上下に揺さぶりながら絨毯の上でのたうち回った。それをイトリは「キミはボラみたいに跳ねるな」 と言った。うるさい。


「とにかく、こうして記憶に残るような体験を夢の中で経験した人は意識下無意識下に関わらずそこに閉じこもったのだ。 ――ではもう一度君に問う、なぜここから画廊が途切れたのだろうか」

「――それは夢をみた人達が、思い通りにならない現実よりも、全てが自分の都合よく進む世界の方がずっといいと感じたからですか?」

「……まあ及第点と言った所か」


 イトリは腕を組みながら渋々と頷いた。

 どうして彼女はいつもこう偉そうなのか。


「どうも……」

「君の解答は意識下での事だ。 換言すると、眼前に広がる世界が夢の中だと、はっきりと認識している場合での事だ。 君の言った通り、意識下においては現実と夢の世界を天秤にかけ、選別すると言うプロセスがある。 だが、それでは無意識下、つまり夢を夢と認識できていない場合が省かれている」

「では無意識下ではどのような手続きを踏んでいるのですか……?」

「うむ、無意識化ではそもそも意識下で行われるような選別が無いのだよ。 ――それは君が良く知っている筈だ」

「私が知っている……? ――そうか! それは最初から、夢を見始めてすぐに、目の前の景色が現実とは地続きの世界であると認識するからですか?」


 それは私が最初からこの世界が夢の中だと把握していたのと同じような事だ。


「そう、正解だ」


 今度は満足そうに、イトリは手を叩いた。


「大体、意識下でこの夢を見るのは私達を除いていない。 だから無意識下において人々は、自分のいる世界が模写象だと気づかないまま閉じこもる――これが画廊の途切れた理由だ。 ほら、立ち上がりたまえ」


 私は彼女の手を取り立ち上がった。


「あれ、廊下は?」


 まだ廊下の途中にいたはずの私達はなぜかその出口に辿り着いていた。


「どうやら僕達がくんずほぐれつしているうちに廊下の端に辿り着いたようだな」

「滅茶苦茶だ……」


 眼前には宮廷のエントランスのように荘厳な空間が広がっていた。

 床に満遍なく使われた大理石は廊下から差し込む光に反射して宝石のように輝いていた。

「上だ、君に見せたいものがある」

 その明かりを頼りに私達は階段を上がるとさらに広大で祭壇のような開けた場所に出た。

 そこは床から天井まで全てが白く塗りつぶされ、装飾が殆どない質素な空間だった。そしてなぜか光源が無いのに真昼のように明るかった。そしてなによりも、その広大な空間の中央で浮かぶいくつもの紆余曲折した階段と本でぎっしりと詰まった本棚が球状に集まった塊が私の目を奪った。それは昔本で読んだ惑星のようだった。


「どうだ、すごいだろ」

「――はい」


 現実では決して見る事が出来ない壮大な光景に私は大きく頷いた。まさに夢の世界でしか見ることができない、様々な自然の摂理を無視した混沌。私は童心に帰ってこの景色に心を奪われた。

そんな私を見て館長は満足そうに胸を張った。しかし、急に彼女はひどく神妙な顔をして私達が通ってきた廊下の方を振り返った。

 彼女の頬に冷や汗が伝っていた。これはただ事ではないと、私は咄嗟に感じた。


「……長話をしすぎたかな」

「……っ⁉」


どうかしましたか、イトリに尋ねようとしたその時、雷のような轟音とともに大きく地面が揺れた。上から砂埃が落ちてきて、床から壁に大きな亀裂が入った。まとまっていた惑星は剥がれ落ちた天井に当たり所々崩れ始めていた。


「な、なにがあったんですか⁉」

「どうやら時間がないらしい――きたまえ!」

「うわああ!」


 イトリは私の手を強引に掴むと、風のような速さで駆けだした。

 しかし崩れ落ちる音は遠ざかることなく近づいてきていた。


「クソッ…… 飛ぶぞ!」

「飛ぶって? ええええ⁉」


 地面が抉れる程の力で杖を思いっきり叩きつけると、その反動で私とイトリの体は宙に浮かび上がった。

 その速さはとてつもなく、あっという間に球体の近くまで私達は飛んでいた。


「イ、イトリさん! ぶつかりますよ⁉」


 前には天井の瓦礫に当たりボロボロになった階段が塞ぐように浮遊していた。


「そんなのわかってるよ!」


 イトリは杖を盾にしてそれを端に追い払うと、近くに浮かぶ階段に着地した。


「いつか理由は言うから、とにかく今は僕についてきて!」

「わっわかりました!」

「これから、この球体の中心地に向かう。 絶対に僕の手を離すなよ――夢だから死にはしないが落ちたら痛いぞ」


 足がくすむのを感じて私はごくりと唾を飲んだ。私達が立つ場所は地面から遠く離れていた。


「では行くぞ!」


 宙に浮かぶ階段や本棚を足場にしてコアに向けて私達は駆けだした。それにしても館長の足は速かった。手を掴んでいるとはいえ、置いていかれそうな勢いだった。


「うわっ!」

「イトリさん!」


 刹那、館長の飛び乗った足場が崩れた。そして握った手が衝撃で離れ、彼女の小さい体はゆっくりと下に落ちていく。


 いや、まだ助かる! 


「間に合えええ!」


 咄嗟に体を乗り出し、館長に向けて全力で腕を伸ばした。


「アニマ……⁉」

「よし!」

 そして彼女の小さな手を掴むとまた全力で持ち上げた。


「はあ、はあ。 すまない、アニマ」

「謝らないで、くださいよ。 ……貴方がいないと目的地に辿り着けないじゃないですか」

 私は呼吸を整えながらそう答えた。館長は申し訳なさそうに頷いた。



「着いたよ」


 何度か今度は私が落ちてしまいそうになったが、あっという間に私達はコアに辿り着いた。コアは貴金属からできたプレハブ小屋だった。入口には鉄製の扉があり、鍵はかけられていないが見るからに年季が入っていた。

 錆びた硬いドアを開けると、中は埃が積もりに積もっていた。六畳ほどの狭い小屋の中にはたくさんの画布や絵具が残されていた。その中で、ただ一つ私の目線を奪うものがあった。「これは――だ」 続けて館長は一つの額縁を指さし何かを言った。しかし轟音にかき消されよく聞き取れなかった。

 それは蝋燭の光に照らされた錆びた金の額縁だった。豪奢な作りだが、肝心の中身の絵は何も描かれていない、ただの真っ白な画布だった。

 額縁に収まっているというのに、下に転がる絵具や色のついた筆の数々はまるでその絵が未完成とでも言うかのようだった。

 私は聞き返すこともせず、その妙な一体に目を奪われていた。


「今度こそもう時間が無いらしい。――ボクがこれから言う事を忘れないで」


 イトリは私の手を一層力強く握った。

 ただならぬ剣幕だ。私はそれに押されるように力強くうなずいた。


「夢はね、全体がヴェールで隠されているからこそ美しい。 その隙間から覗くことができる欠片を恋しく思うから、僕たちは見ていたいと願うんだ。」


 彼女はずっと繋ぎ続けていた手を、ゆっくり、ゆっくりと離した。


「これはある悲劇の一節だがね」


 刹那、足場がパズルのピースのように崩れだした。


「――何だって永遠なんぞに迷い込む」


 一遍の濁りもなかった大地の緑が、その上に無造作に倒れていた柱像が。まるで粒子のように、手から溢した麦の種のように、底なしの奈落に向けて落ちていく。

 小石みたいに吸い込まれるのは私だけじゃない。そしてこの建物だけでもない、世界が、崩れ落ちていた。

 世界が終わりだす中、私は彼女に対して必死に何かを訴えようとした。しかしそれは上手く言葉にならない。


「……!」


 だめだ、口に出せない。

 意識が微睡んで、クラクラとする。曇ったレンズ越しに見ているようだ、視界が霞んでいる。きっと、もうすぐ夢から覚めてしまうのだ。


「この言葉を、忘れないでくれ」


 何もできずに、私は暗闇の中へと落ちていく。底が見えない、黒の奈落へ。そして私と館長の距離は段々と離れていく。

 なぜ私はこんなにも恐れている。これは夢だ、フィクションだ。

 だというのに彼女と離れていくこの瞬間が、妙に現実味を帯びていて。伸ばした指先が、冬の海のようにこんなにも冷たいのはどうしてだろうか。


「――大丈夫、また会える。 まだ会える。 夢で会おう、アニマ」


 夢の始まりと同様に、夢の終わりも突然やってくる。


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