第7話 大嵐


(※「あ」、もしくは「ア」に濁点がついたセリフが出てきます。縦読みだとうまく表示されないようなのでご容赦ください......)







 部屋の隅にあった樽が倒れた。ゴロゴロと大きな物音を立てながら反対側まで転がっていった。そしてすぐにゴロゴロと転がって、半分まで行くと戻っていってしまった。それが頭に響いて、お腹の中に響いた。酷い、大きな船の揺れ。ラーナは一番揺れが少ないからと案内された船底の倉庫にいた。天井に吊るされたハンモック。一番揺れが少ないはずのところで樽が転がっているのだから、天井はもっと酷かった。

 私はサメに揺さぶられた時の恐怖を思い出して――また吐いた。

 これで五度目。一番最初のゲロは乾いて口の周りに張り付いていた。もう食べ物はなく、黄色っぽい液体とねばねばしたものばかりがでてくる。私はバケツを抱えて横になった。楽な体勢など見つかりそうになかった。ただ上から聞こえるバタバタと激しい足音になぜか安心するのだ。時々、天井から粉の様なものが降ってくる。人の気配だけで気持ちは落ち着くのだ。

「船は大丈夫かな。王様たちも大丈夫かな......」

 天井をぼうっと眺めていると、鋭いのどの痛みに涙が出てきた。鼻水まで出てきてラーナの顔はぐじょぐじょだった。

「熱にかかったときみたい......」

 もう半日もここにいた。誰も私を気にかけるほどの余裕はない。そう思うと独りぼっちになってしまったようで泣きそうになった。

「喉、痛いよう......」

 いっそ海に入ってしまえば楽なんじゃないかとさえ思ってしまった。私は尾ひれがないせいで泳げないだけで水の中は守られているように安心感がある。

 めそめそと泣いていると、慰めるように温かな風がふいた。

「うっ?」

 風が私の周りをグルグルと動いていた。それがびゅーんと海を飛んでいたときのような感覚を思い出した。とにかく楽しくて気持ちのいい海の探検。

「わだじが、あのどきどめどげばぁーー、うわぁぁーんっ」

 頭は幸せな思い出でいっぱいなのにどうして涙が出るのかわからなかった。優しく微笑んでくれる母。顔も分からない綺麗な服を着た男の人。食堂のおじさんに、海の王子様に王様。タコの門番さんに......

「うわぁぁーん、うわぁぁーん......あいだいよう、お母さん......」

 幸せな思い出をどんなに思い出しても涙が止まらなかった。ずっと、ずっと泣いているといつの間にか吐き気が止まっていた。

「......」

 天井から降ってくる粉がなくなった。ぎいぎいっと音を立てる靴音もなくなった。ひりひりと痛む目元を拭くと、耳をすませた。

 ガタン、バタンとバッサバッサと激しい風の音。船全体がキイーッと甲高い悲鳴をあげているような音。下を覗けば樽はどこかに引っ掛かって静かだった。

「......」

 まるで人だけがいなくなってしまったような雰囲気。変わらず船は揺れ動いていて、雨の音も聞こえる。キイ、キイと音を立てる船。カタタンと天井にぶら下がったランプが小刻みに揺れて音を立てた。

「みんな、どこに行ったんだろう」

 よろよろと起き上がると、慎重に床に降りた。扉を開けると手すりに掴まりながら一歩とゆっくりと上がっていく。

 よろめいた。その時、頭を強く手すりに打ち付ける。

「痛い。また、一番最初からになっちゃった......」

 階段を滑り落ち、膝も擦りむいた。ふうっと母から教えてもらったおまじないをかける。これをすると痛みがすぐになくなるのだという。

 よろよろとよろめきながらも、ついに甲板への扉までたどり着いた。その間、人っ子一人いなかった。不審に思いながら、甲板の扉へ近づく。

 初めて着た時の様な、それよりも大きな怒号が扉までまだ二メートルとあるのに聞こえてきた。私はどきりとした。突然、開いていない扉から強風が吹いた。弱った体では踏ん張れないほどの強い風。

「一体、なにがっ......」

 手すりに捕まって、進もうとすると体がふわりと浮き上がった。何とか、手すりにしがみつく。

「あの先に何があるのっ!!」

 その時、バァン! と扉が開いて、大柄の船員が私に気付かずに下へと消えていった。凄まじい剣幕で、私は息を吸うことも出来なかった。

「風が止んだわっ」

 私はまた風に邪魔されないうちにと走った。


 轟々と屈強な男たちでさえ掴まる強風。


 帆柱が今にも折れそうなほどにミシミシと音を立てる。


 波が甲板にゴッと何度も何度も振りかぶる。


 カン、カン、カンと金属が擦れ、布がはためく音。


 遠くで雷が落ち、目を眩ませた。


 暴れるキーラを押さえつけるママと船員たち。


 皆、同じ方向を見て、海に向かって何かを投げ込んでした。


 嵐の中でもつんざくようなキーラの悲鳴が聞こえた。


 この世の終わりの様な光景に私はただ呆然と立ちすくんだ。ぐわん、ぐわんと大きく揺れる船。前にも横にも後ろにも。

 泣け叫ぶキーラ。手を合わせ天を仰ぐ船員。海の底に向かって叫ぶ男達。


「キ、キーラお姉ちゃん? これはどうした、の......」


 ゆっくりと、ゆっくりと近づいていく。キーラは完全に乱心し、周りの者たちに押さえつけられている。彼らの声が聞こえていないようだった。ふと、後ろに人の気配がして振り返った。さっき、船内ですれ違った男の人。身のすくむような目で見下ろすと呟いた。

「疫病神だ――お前が来たからこうなったんだ......」

 男は背中から斧を取り出し、振りかぶった。誰も気付かない。風の音が、豪雨が視界を遮り誰も私に気付かない。世界には男と私だけ。

 船が揺れた。振り下ろされた斧は私の腕をかすめた。

「っち」舌打ちをすると再び斧を振りかぶった。次も運よく船が揺れて避けた。しかし私は気付いていなかった。人のいる方からどんどん、どんどんと離れていく......。


 男はにやりと悪寒のする笑みを浮かべた。


 じりじりと確実に追いつめられ、ドンっと背中を打ち付けた。


「もうおしまいだッ」


 振りかぶった斧、私は横によけきれずに足にぐさりと刺さった。


「~~~~ッ!!」


 想像も絶する痛み。びくんっと体が反り、頭をぶつけて辛うじて意識を保った。まなくらだったのが幸いか、骨までは断つことが出来なかったのだ。男が斧を引き抜いた。

「あ゛ッ......」

 私の血がべっとりとついた斧。もったいぶるように振りかぶった。ぐらり、ぶれる視界。私は死を覚悟して目を瞑った。

 ――ギギィ......ッ!

 船が前につんのめるように傾いた。男は大きく体勢を崩し、ガチャンと大きな音。斧を海に落とした。私はズルズルと足を引きずりながら男と距離をとっていく。キーラに、どうしても言いたいがあった。手を限界まで伸ばし、足を引き寄せる。

「お兄ちゃんはきっと大丈夫、キーラ......だってッ」

 しかし声は届かない。男は頭を押さえながら起き上がった。ふるふると頭を振ると、ラーナの頭を狙って拳を振り上げた。

 ざぶんッ、黒い海は斧を飲み込んだ。

 その時、不思議な事が起こった。悪魔の上げる断末魔、この世のものとは思えない声。


「『――ギェーーーーッ!!』」


 鼓膜が破れそうな程の音。全員が耳を塞いだ。それは泣き叫んでいたキーラでさえも涙を引っ込め耳を押さえるほどに。まるで海が悲鳴をあげているように底から響いてくる。

 船が大きく傾いた。真横へ、真横にと傾く。帆柱が海面すれすれに傾く。


「ア゛ッ......?」


 斧の男は真っ先に落っこちた。


 黒いうねる海がまるで人の舌のように動き、男をべろんと飲み込んだ。


「キーラッ!!」

 ズルズルと海へとすべっていく体。キーラは間一髪、柱に掴まって無事であった。ママも、金髪のオジサンも――どんどんと大好きな人達と遠ざかっていく。ずりずりっと体がすべっていく。こんな事態になってもカインは出てこない。私は首を動かした。きっともっと前に海の底に落ちたのだ。


「「ラーナぁぁぁッー!!」」


 キーラの声が聞こえて顔を上げた。


 キーラが私に向かって手を伸ばしていた。


 今にも飛び込んできそうなキーラに向かって私は首を振った。


 どうしてキーラの声はあんなにも通るのだろう。羨ましいなと思いながら思いっきり叫んだ。


「「キーラッ、お兄様は大丈夫ーッきっとッ、きっと大丈夫だよッ!!」」


 ――届いただろうか。

 私は落ちまいと必死に張り付き、真っ赤になっていたその手を離した。そして突き放すように押し出した。ふわりと宙に浮く体。自分の赤い血が泡状になって上へ上へと流れていく。海へ海へと真っ逆さまに落ちていく。不思議と怖くはなかった。

「あの時もそうだったじゃない」


 リンゴを追って飛び込んだ池。今度はカインに変わっただけでなにも変わらないのだと。


 ドボーンっという波しぶき。


 それはすぐに荒々しい波に搔き消えた。


 船は悲鳴を上げた。


 ゆっくりとゆっくりと元へと戻っていく船。

 ざぶんっと左右に小刻みに揺れて波に合わせて揺れ始めた。それも次第に小さくなっていく。雲が切れ、日差しが船を照らした。嘘のように嵐は消え――生き残った人々は一瞬夢を疑った。しかし、ボロボロの甲板の様子が現実であったことを物語っていた。キーラはその場にへたり込むと二人の名前を叫んた。その慟哭は海を漂うラーナの耳にも確かに届いていた。






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