第6話 王子様とお姫様


 調理室に漂う香りが隙間をすり抜け、甲板にいた者たちへと届き始める。あともう一息。いっぱいになった匂いは今度は船室の細い隙間をすり抜け漂っていく。眠りについていた者は御馳走の夢を見る。大量の書類に埋もれていたカインは顔を上げた。そして鼻をつまみ、げんなりとした顔をすると、再びペンを走らせた。

 私は何度も何度も食器を持って外に運んでいく。よっせよっせと二人で大きな鍋を抱えて運ばれていく。その後から、次々とお盆に乗った焼き魚と芋が運ばれてきた。

 鍋を置いて戻ろうとしたコックが気付いて声をかけた。

「ラーナちゃん。次はカイン殿下にお食事を持って行ってくれないかな」

 私は頷いて急いで調理室に戻っていった。するとキーラがワゴンに食事を乗せているところだった。二人分だ。

「あら、ラーナ。カインの部屋はここ真っ直ぐ。一番奥の部屋よ。最初にノックして、お魚が食べられないので一緒に同じもの食べますって――ああ、長いわね。私がメモを書いて......これを渡せば大丈夫よ」

「う、うん。キーラお姉ちゃん......」

「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。怖い人ではないわ」

「あれ。おじさんは怖い人って言っていたよ」

「女の子には優しいの、さあ、行った、行った。私は給仕の手伝いに行かなくっちゃ」

「キーラお姉ちゃんはお姫様なのに......」

 キーラはタタンっと軽やかな足取りでいなくなってしまった。湯気の上がる温かい料理。給仕の手伝いをした時には、冷めないうちに素早く出せと怒れた。ふわりと鼻をかすめた香りは気持ちが悪くならなかった。とても美味しそうでよだれがたれる。慌てて袖口で拭い、そうっとワゴンを押した時だった。

「そこで何をしているのだ。ラーナと言ったか」

 すぐ後ろで声がして飛び上がった。紙の束を片手に私を無表情に見下ろしていた。

「えっと、えっと。これをどうぞっ」

 私はキーラのメモをカインに渡した。素早く目を通したカインはワゴンを押した。

「こ、これは私の仕事ですっ」

「気にするな。君は一応客人という立場なのだ」

 カインは器用にキーラのメモを胸ポケットにしまった。私はふと気になって尋ねた。

「キーラお姉ちゃんは婚約者だって聞きました」

「うん? ああ、その通りだが」

「とっても素敵なお姉ちゃんですっ」

「まあ、昔から貴族の娘らしくなく気のいいやつだった」

 スタスタと長い脚で歩くカイン。追いつくので精一杯で顔を見ることが出来なかった。

「む、むむむ......」

「しかし、お前は魚が食べられないらしいな。今まで一度も食したことなかったのか」

「私のとこはみんなお肉ばかりでした」

「そうか内陸の人間だったのか......」

「はいっ」それから会話もなく目的地へと着いた。

 地図やら、本やら、紙があちらこちらに散らばり雑多な執務室だった。私のブーツが何かを踏んづけた。どうやら望遠鏡で、その隣にはコンパスらしきものがあった。私は思わず言ってしまった。

「カイン王子様はお掃除が出来ないのですか」

 カインが書類の山を雑にどけて、テーブルを開けている時だった。

「――ここは私以外入ってこない。船長室はまた別にあるからな」

 辺りをよく見渡せば、机の椅子だと思ったものはベットだった。

「つまり寝室ってことですかっ」

「執務室兼寝室だ。そこまで重要な書類があるわけじゃない。そう怯えなくていい。踏んづけたっていいんだぞ、君はこの椅子に座りなさい」

 本の山の一部になっていた椅子。カインは山を少しづつ崩し、ようやく取り出して書類机の傍に置くと、ポンポンと叩いた。私はワゴンから皿をそっと運ぶ。とても狭いスペース、本ばかりで一苦労。私が一つ置いたころにはカインは三つも先に置いていた。淡々とした顔で手慣れた様子で全てを乗っけた。ゴブレットに並々とお酒を注いで、動きが止まった。

「まだ子供だったな」

 もう一本の瓶をとるとやはり並々と注いで私のところに置いた。

 どさりとベットに座ると、両眉をあげるた。くいっと首を捻る。何かの合図だったのか、私は持っていたフォークをテーブルに戻した。

「どうした、食べるといい」

「その、偉い人から食べるんだって思い出しました」

 カインは変わらず感情の浮かばない顔でナイフを差し出した。

「気にするな、さあ食そうではないか」

「は、はい。いただきます......」

 干し肉とジャガイモの炒め物と豆をドライトマトと煮たもの。私は久しぶりのナイフに苦戦しながら口に運んだ。

「うわぁっ、すっごく味が濃い?」

 無言で私を見つめるカイン。はしゃいでしまったことを恥て顔を伏せた。

「周りは海だ。煮物なんかは海水を汲んでつかっている。自然と味が濃くなってしまうんだ。真水は貴重だからな」

「そっかぁ」

 再び口に運んだ。やっぱり、塩辛いがそのうち慣れていった。

「君に聞きたいことがあったんだ」

 ほとんど食べ終わったころにカインはぼそりと呟いた。まるで寝起きのように気怠そうな声だった。するとふぁっと大きな欠伸をした。

「すまない、食後はどうしても眠くなるんだ」

 カインはゴブレットを一気に飲み干すと、不思議な香りをするポットを手に取った。私はずっと気になっていたものだった。中は黒い水で、苦い香りがするのだ。

 とぽぽっと注いで――溢れた。

「あっ」私は急いでタオルを渡した。

「間に合わなかったです。紙がいくつか吸ってしまいました」

「ふぁ、構わない。そこらにあるシミを見てみるといい」

 本に飛び出した紙、まるで何年も前のものみたいに古びていると思ったら違うのだ。全て黒い水で染まった跡。近づいて鼻を近づけると同じ匂いがした。

「君も飲むかね?」

 そう言って、空だったゴブレットに重たそうな目のまま注ぎ始めた。

「そ、それだけで大丈夫ですっ」

 私は慌ててカインを止めた。「そうか」と短く言うと、ぐびぐびと飲み始めた。私も真似をして一気に飲んで――ショックに襲われた。舌が痺れるほどに苦い。熱出した時に飲まされた薬草汁に迫る苦さ。

「苦ーいっ」

「――くすっ、まだ子供には早かったようだな」

 カインの水色の片耳飾りがキラリと輝いた。それ以上に美しく輝く控えめな笑み。どこか儚く尊さのある光景だった。触れてしまえばなくなってしまいそうな。私は思わず手を伸ばした。カインは目を見開いた。その顔がどこかで見たことある気がした。

「......」

「どうした?」

「あっごめんなさい。何だか急に怖くなっちゃって」

「怖くなった?」

「なんでもないの、キーラお姉ちゃんみたいに船が心配になっちゃっただけ」

 私は今になってわかった。キーラの目が不安げに揺れていた理由。カインの纏う空気が時々、薄くなってしまうのだ。

「船は心配ない。私が居れば一度も事故が起きたことないのだから」

「そうだよねっ、すっごく大きな船だもん」

「その通りだ。さて、眠気も覚めたところだから椅子に座りなさい」

 言われた通りに椅子に座る。カインは引き出しから何かを取り出した。それは丸められた布だった。クルクルとそれはハンカチ程度の長方形。王冠とクジラのような模様が刺繍されていた。

「これは我が国の紋章だ。そして君のネックレスの後ろを見てほしい」

 震える手でネックレスを掴んだ。まさかもらったものが。裏には見にくいが確かに同じ紋章が刻まれていた。

「ご、ごめんなさい。私、返しますっ」

 紋章があるものはその家に返さないといけない。いつか、村の男が売るために持っていて殺されたという話を聞いた。急いでネックレスを外すとカインに差し出した。

 しかし、カインは頬杖をついてジッと見つめるだけだった。

「君は、人魚だろう」

「!?」

 私は驚いてネックレスを落とした。一歩後退る。カインはまだ見ている。ゆっくりとした動作でネックレスを拾い上げた。その隙に、ドアへと走った。

「私も、人魚だ。そうすれば話を聞いてくれるか」

 静かに言い放ったカイン。ぎいっと木を踏み鳴らす音がすぐ後ろで音がした。私を見下ろすカイン。

「その髪色は珍しい、しかし薬の匂いはしない」

「ひやぁっ」

 カインはしゃがむと耳の上あたりに鼻を押し付けた。くすぐったくて声をあげると、すぐに離れていった。

「魔女に関わった娘の一人、ということになるな。しかし、子供がいるのはたった二人だけなのを知っているか」

 物書き机に戻っていったカインの背中に問いかけた。

「知らない、本当に人魚なの」

「正確には半分だけ人魚なのだ。一人は息子がいたが死んだ」

「えっ!?」

 私はカインの元に駆け寄った。

「さらに私の母と妹は行方不明だ」

「つ、つまりどういうこと?」

「もしかして君は私の妹ではないかと思ってな。髪色は母のものと全く同じだ」

 カインは私の髪をひと房持ち上げると、懐かしそうに目を細めた。

「私が、カイン王子様の妹?」

「そうとしか思えない......」カインは何かを言おうとして口を閉じた。しばらく悩ましげに睫毛を伏せていたが「君の母は健在か」と呟いた。

 私は声が出なかった。つい三日前までは普通に伝えられたのに、だ。代わりに首を振った。カインはそれだけで察したようだった。

「そうか――やはり、魔女から逃れられないのか......」

「魔女って、悪い海の魔女?」

「その通りだ。彼女はかなり執念深いらしい――ラーナを襲っていたサメはこの辺りではあまり見ないからな。そうじゃないかと思っていたんだ」

「サメは魔女の手下?」

「ラーナ、なるべく甲板には出ないようにしなさい。魔女は海を通して居場所を探って来るんだ」

「――もしかして、すぐに船室にいっちゃうのはそのせい?」

「ああ、お爺さんから忠告を受けていてね。しかし、私がいた方が船が安全だから乗っているんだ」

「カイン王子様は海の祝福を受けているって聞いた」

「半分、人魚だからだよ」

 その時、不思議なことに湿ったような風が部屋に入ってきた。扉も窓も開いていない。ロウソクの火が揺らめいていたから気のせいではない。私は怖くてカインにしがみついた。

 カインは耳元で優しく囁いた。

「君は王様の末娘が最後どうなったか聞いたかな」

「ううん、知らない」

 首を振ると、カインはポツンとポツンと語り始めた。

「身を投げて泡なったのだけど、直後に体がすごく軽くなった。風の精になったんだ。立派な風の精になるために彼女は三百年修行することになったんだ。風の精になった姫様は結婚式で私のおばあ様に祝福してくださった。その子供である父に受け継がれ、父が人魚である母と結婚し、私に受け継がれた。そして母の水に愛される人魚の血をひいている、ラーナも船に乗った時に涼しい風が吹かなかったかい?」

「う、ん。船室に入る前に風がふいたよ」

「なら心配することない、この風は私たちを見守ってくれているんだ」

 結ばれなかった人魚姫の最後。やっぱり私は悲しくて言った。

「――私、悲しい......なんか、胸が苦しい......風さんにとって私たちはっ」

「まだ子供だからわからないかな」

 見守るように目を細めたカイン。私は首を振った。

「子供じゃないもんっ、姫様が地上に上がった一五歳まであとたった二つだもん」

 カインは諭すように言った。

「子供の二年はとても大きいものだよ」そして続けて、

「ラーナ、きっと父上は君が地上へ来るのを望んでいる。来てくれるかな」

 カインが私に手を差し出してきた。

「私がカイン王子様の妹じゃないかもしれないわ」

「そんなことないよ、髪色がそっくりだ。ネックレスも持っているだろう」

「これはたまたま、海でもらったの」

「もし違っても人魚たちの元へ送り届けるよ」

「私の親戚がいるかもしれないところ?」

「ああ、海の真ん中に浮かんだ丸い島があるんだよ」

 カインは大きな地図を取り出した。さっきまでの眠たそうな目が嘘のように小さな子供のように無邪気な色に輝いていた。

 私はいつの間にか、カインの膝の上に乗っていた。彼もまた半分が人魚であるからか、歌うように海の話をしてくれた。話は昼頃まで続いて、心配したコックがやってくるまで気付かなかったのだ。そのまま、一緒にサンドイッチを食べた。まるで本当の兄妹のように仲良く肩をくっつけあっていた。あっという間の幸せの時間。

 冷たい風がふっと頬をかすめ、私は一気に目が覚めたように辺りを見渡した。まるで最期の母の体のような、ゾッとするような冷たさにぶるるっと身を震わせた。何か良くない前触れな気がしてならなかった。






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