第3話 海の魔女


 王様は私の髪色に覚えがあるといって執務室とやらに引きこもってしまった。退屈しのぎにと私は王子様と共に城の中を泳ぎ回る。泳ぎ方を教えてもらうがちっとも良くならない。人の足はどうしても上手く、くねくねと動かないのだ。王子様は不思議そうに私の足を見ていた。友達のゴルディーも一緒だ。三人で頭を捻ってもどうやったって泳げなかった。

 結局、王子様に手を引かれるながら城中をのんびりとお散歩する。その間もだれ一人として人魚がいなくて私は悲しくなった。

「ねえ、そこまで地上がいいところかしら」

 私は人魚の文字を教えてあげると息まいている王子に尋ねた。

「ここではね、歌ぐらいしか娯楽がないんだ。海をイルカたちと巡ったり、それもすぐに飽きてしまう。僕たちのもっと古い先祖たちは退屈しのぎに海面に出て船の人間たちを狂わせて転覆させたり、地上に出ては海に男たちを誘惑したりしていたんだって。それで悪くない人魚達まで人間に殺されちゃって地上は眺めるだけになっちゃった。さらに僕の叔母さんが亡くなったことでもっと楽しみがなくなっちゃったの」

 石板を次々と運んできては床に置いた。地上では持ち上げられそうにない重たそうな石板だった。

「勉強たって海中で出来るのは限られているし、紙の方が便利だもんね」

「よしっ」と息を吐いた王子の手元を覗き込んだ。

「これが人魚の文字なのね」

「そうだよ、じゃあ早速だけどこれが......」

「人魚」

 しーんと静まり返る。

「その隣が、王様。魚、重要、危険......」

「えぇっどうして知っているの」

 なんでかって、私に読み聞かせしていた『泡沫の人魚たちの夢』は全てこの文字で書かれていたからだ。

「お母さんが読み聞かせてくれた本はこの字だったわ」

「そ、そっか。君のお母さんは勉強が好きだったのかな、ははっ。人魚でも滅多に文字の勉強なんてしないのに。僕、得意げにすごく恥ずかしいや。もしや貴族の娘だったのかな」

「私のお母さんが......?」

「うん、すっごく綺麗な髪だし、もちろん前から可愛かったけどね――えっと、じゃあどうしようかな」

 やること無くなったと笑う王子。すぐにしょんぼりと肩を落として尾ひれを摘まんだ。

「このあと、ね。きっとお母さんの親戚に預けられると思う。その人たちも地上にいて地上で暮らすことになると思う」

 がりがりと指で鱗をひっかいている。私はとても痛そうで手を掴んだ。

「寂しいの?」

「それはもちろん、折角同世代の女の子に会えたのに。それも海の中がいいって言ってくれる女の子にね」

「――両方、気軽に行き来が出来ればいいのにね」

「そうだね、でもねどうしても時の流れが地上の方が早く感じるんだ。それに魔法を何度もかけ直したりって大変で行きっぱなしになっちゃうんだ」

「不思議だったのだけど、地上にいる人魚たちは皆、悪い魔女に何かを捧げているの。耳が片方ないのも、声が出ないのも私だったら嫌だわ」

「あぁっそっか物語での人魚の国しか知らないんだねっ」

 ぱあっと顔を明るくした王子はくるりと機嫌よさそうに宙返りしてみせた。

「あれはね、十年前の出来事なんだ。それから魔女の秘術を真似して、研究して薬を作り上げたんだ。そうだせっかくだからあの本の終わりから人魚の国が変わっていった話をするよ」

 人魚の国の王様は再び一人の若い人魚の娘が魔女によって泡となって消えたことを知り、激怒した。それが今から一八年程前。偶然か三〇年前に亡くなった末娘姫と同じく十五歳の女の子。舌を失った女の子。そう、舌をとられてしまえば末娘姫と同じに声が出なかったのです。まるで同じような状況に陥った彼女。彼女はたどり着いた村で嫌われ、追い出され、ついに王子様に出会えることなく期限の日を迎えたのです。娘よりも悲しい結果だったのです。

 王は軍を率いて魔女の元へと行きました。魔女は暗く深い海を根城にずる賢い魚達をしもべに勢力を築いていたのです。結局魔女はやられると、しもべ達をおとりに更に深い深い海へと消えていきました。

 王は城を破壊しようと雷を呼び出していました。それを止めた人魚がいました。

「王よ。この城には魔女が残した秘術があるはずです」

「押さえつけるばかりではもう無理なのです」

「そうです王よ。我々も地上を目指しましょう。代償なしで地上に行ければこれ以上、悲しい結果にはなりますまい」

 家臣たちの必死の説得によって城の捜索が始まった。

 魔女が何百年と研究していた魔法や魔法薬の数々。そこには人間にするものもあった。それらを全て回収すると雷を落とした。欲深な魔女の城は粉々に砕かれたのでした。

 そうして得たレシピを元に改良した「人間変身薬」を完成させました。

 ただ魔女のように永久性はなく、定期的にのむ必要がありました。今も研究を続けられているのです。

「人間変身薬」が安定して作り出せるようになると人魚たちは次々と陸へ上がりました。ただ人と恋することは禁じました。永遠ではない薬でもし人魚だとバレてはいけないからです。

 先に陸に上がった人魚のある一族が人の世界で立派になりみんなは彼らを頼って、彼らを中心に過ごしました。

「それが二〇年もしないぐらいでね。ということでね、旅をしているような人じゃなければ大抵そこにいるんだよ。結構大きな島でいいとこなんだ。人魚族の二番目に偉い人でねー」

 王子は話を出来ることがたまらないと言わんばかりに語っていた。それはまるで美しい調べのようで、滑らかに次から次へと飛び出す人魚の国の物語。私は頬に手を当ててうっとりと聞き惚れていた。

「とっても素敵な場所なのね。私も行ってみたいわ......」

 陸に飛び出した人魚たちの物語はまだまだ続く。

 部屋の外。

 美しい歌声に惹かれるように赤い実がこつんと窓にぶつかった。それは跳ね返り揺蕩いながらもゆっくりと落ちていく。ゆっくりと、ゆっくりと、しかし途中で立派なヒゲの魚が通った。リンゴは軌道を変え、暗い海の方へと落ちていく。しかしリンゴは簡単には降りられなかった。ウミガメの背中にこつんと乗ると、さらに暗い暗い海の方へと運ばれていく......。



 ゆらり、ゆらり。深海の底の底。生物の気配はすんっと消えた。さらに大きな割れ目へと落ちていく。ゆら、ゆらり。リンゴを邪魔するものはもういない。しかしそれは早計だったようだ。ゴオォーと変哲もない岩から泡が噴き出した。熱水噴出孔だ。リンゴは不思議と形を保ったまま上へと吹き飛ばされた。上へ上へと飛んでいく。途中でぽいっと谷の上へと放り出された。

 真っ暗で何も見えない海の底。そのときぽうっと光が現れた。あちこちからぽうっ、ぽうっと光が現れる。うぞうぞと地を這うように動く魚。アンコウだ。一匹がリンゴに気付いた。器用に背に乗っけるとくねりながらどこかに進んでいく。くねり、くねり。アンコウはクジラの骨で出来た城に入っていく。不気味なお城。

 リンゴは五本の指にからめとられた。

 ただ一口だけかじられたところを指でなぞった。そして指を口に運ぶとチュッと音を鳴らした。

『あらんっ、私を逃れた愚かな娘の一人......ああ、たまらない不幸な味』

 彼女は追放された海の魔女であった。深海で怪しく光る赤い目。深海のように真っ黒なドレス。様々骨でできた王冠を被っている。青白く枯れ木のように細い指。先には鋭く尖った爪。ぐりゅんと身を捩ると、恍惚とした顔を浮かべた。

『魔女様、魔女様。お気に召したでしょうか』

『最高にね、でもまだ不幸が足りない......』

 魔女はリンゴを鍋に放り込んだ。ぐつぐつと音を立てる鍋。そのうち白い煙が上がってきて一人の女の子の形になった。

『足りない理由は、娘がいるのね。これが死ねば魂は完全に絶望に染まる』

 魔女は優秀なハンターであるサメたちを呼び出した。一番凶悪なサメと恐れられる存在。

『お前たち、娘は今。海中にいる。殺してしまいなさい』

 サメ達は煙を吸うと、凄い速さで出ていった。魔女は満足げに頷くと、一冊の本を取り出した。パラパラとめくり、止めた。

『力は十分に溜まった......王に魂を回収損ねた小娘どもめ待っていろ』

 魔女は次に鍋に人間の娘の死体を投げ込んだ。ぶくぶくと色が赤色に変わっていく。魔女は瓶に詰め込むとキャビネットを開けた。

 人の着る服を次から次へと取り出してはこれではないと呟いた。

 ――ぼふんッと大きな音が鳴った。

 魔女は振り返ると、鍋を覗き込んだ。サメたちが吸い残した煙が徐々に徐々に、人の形に変わっていく。真っ赤に染まった目を飛び出しそうなほどにむき出しにした。「かぁっ」と奇妙な声を上げるとぐつぐつと煮える鍋を鷲掴みにした。

『なんじゃ、なんじゃこれは』

 魔女はじれったそうに片目を鍋に近づけた。じゅうじゅうと手から煙が出ている。その煙が集まり合流すると、身綺麗な男のシルエットが浮かび上がった。

『くっくっく。面白い、面白い』

 魔女は〈雷雲〉〈嵐〉とかかれたフラスコを掴むと、別の鍋に放り込んだ。モクモク、モクモクと黒雲が渦巻き始める。それは少しずつ上へと昇っていく。

 魔女はついに動き出したのだ。人魚たちへの復讐のために。






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