第2話 人魚の王様

 不思議な事に私は死んでいなかった。ふわりふわりと浮かんだ髪の毛。ぷうっと強く息をはくと泡が飛び出して驚いた。大きな貝殻のベット。芯だけを残し透明になった葉っぱの毛布。

「変なの。地上じゃないみたい」

 母がまだ「まとも」だったとき。父という存在が傍にいて母が美しい洋服に身を包んで微笑んでいた時。よく聞かせてくれた物語があった。

『人魚たちの泡沫の夢』

 そこに書かれていた人魚たちの世界について。岩を掘り進めて作られた家。サンゴや漂流してきた木材でツギハギに作られた家具。海藻を加工してつくったシルクのように美しい毛布。アコヤガイで作られたベットは若い女の子の人魚が必ず憧れるもの。

 クラゲがぷかりぷかりと気まぐれに部屋を照らす。

 彼らとの意思疎通は難しく、眠たくても明かりを消してくれないこともしばしば。また逆にすんっと機嫌が悪い日もある。

「クスクス、今日のクラゲさんは機嫌がいいのね」

 私の目の前をすいーっと通り過ぎたクラゲが二回ほど点滅をした。

「よかった」

 

泡沫の人魚たちは私が面白いと思っている海の世界に嫌気をさしていた。


『泡沫の人魚たちの夢』若い娘達がどんなに地上に恋焦がれ、どんな決意を持って外に出たのかという物語であった。きっかけは人魚の姫の末娘。彼女は人に恋をし、人になったが魔女との約束を守れず、姉たちからもらった最後のチャンスを捨て泡となって消えた。

 悲惨な末娘の最後もあって人魚の王は海上へと出ることを一切禁じた。海の海面近くには王の手下であるクジラや、サメやとにかく人魚達が海面へと顔を出さないように見張りをつけた。若い娘達は余計に憧れた。身を投げうってでも恋する人間とは何だろうか。魔女に魂を売ってでも行きたい地上とはなんなのか。抑圧すればするほど娘達の憧れは強く、強くなっていく。

 次第に地上というものを知らない若者が増えていく。彼女らの中で特に六人が強く望んだ。外の世界を見てみたい、と。

 六人は海の魔女の元へと行った。すると魔女は言った。「馬鹿な人魚姫と同じ条件なら行かせてやろう、ここで薬を飲むといい。人ならクジラどもも簡単に通してくれるに違いない」

 一人が声を上げた。

「魔女様、どうかお願いです。声までは奪わないで欲しいのです。貴女はもう既に一番美しい声を手に入れているではありませんか」

「確かにその通りだ。あれを超えるものはここにはいない。若い娘の魂が一気に手に入るチャンスがあるならそうだな。ただお礼というものはいただかなくては。お前には片耳を、お前は片目を、お前は舌を、お前は美しい髪を、お前は内蔵の一つ、お前はどちらかの手を寄越してくれればいいだろう」

 彼女らは迷いなく頷いた。人魚姫のような美しい声はなくとも美しい容姿はあった。例え王子様はいなくともきっと誰かが見初めてくれると信じて疑わなかったのだ。

 そうして彼女らは地上へと上がった。感動で打ち震える彼女らは思うように動かない足にすぐに涙が引っ込んだ。

「さあ、時間がないわよ。はやく結婚相手を見つけましょう」

 それから一人を除いてタイムリミットまでにそれぞれの王子様を見つけたのだった。一人は海の泡となって消えたが五人は王子様と幸せに暮らしました――と終わる。


 私は本当に人魚なんてものが存在するとは思わなかった。

 意識を失う直前に見たものは確かに人魚で、部屋はとても地上とは思えない。

「人魚は人を嫌うってあったわ。どうしてここにいるのかしら」

 私は周囲を見渡した。本の通りにクラゲとは意思疎通が出来ないようだった。ぴかぴかと点滅するばかりでただ「うれしい」という感情をあらわすばかりであった。

「感情はわかるのに、言葉は通じないのね」

 私はがっかりした。その時、部屋のドアが開いた音がした。思わず目を瞑ってベットに潜った。

 するとスンスンと私の顔の近くで何かがくすぐった。あまりに我慢できなくてぷはっと目を開けた。目の前には驚いた少年の顔がすぐ近くにあった。

「わっ、起きたんだね。ごめんよ。僕のゴルディーが......ちょっといたずら好きで」

 私の目の前を優雅に泳ぐオレンジ色の小さな魚がいた。近くにくると去り際に尾ひれで鼻の辺りをくすぐってきた。

「こんにちはゴルディー」

『あぁ、不思議だね。人間なのにどうして言葉がわかるんだろう』

 口をぱくぱくと動かしたゴルディーから声が聞こえた。私は驚いてゴルディーを凝視した。

「今、お魚が喋ったの?」

「うーん、人が話すっていうのとはちょっと違うけど、似たようなものだよ」

「へぇ、え......不思議ねぇ」

 私は手の平をクルクルとまわるゴルディーをじっと観察した。細かく波打つ尾ひれ達。滑らかなまた独特な魚の動きをいつまでも見ていたい気がした。

「ねえ起きたなら王様に挨拶に行こうよ。この国に居たかったら王様のところに行かないと」少年は私の手を引っ張りながら言った。

「待って、王様は人間が嫌いなんでしょう」

 娘が死んだ原因は人にあり地上へ行かせないぐらいだ。相当に嫌いなのだろうと私は激しく首を振って抵抗した。

「平気だよ」

「それに私、外では息ができないわ」

 少年は腕を引っ張るのをやめた。

「何言っているんだよ」

 不思議そうに首を傾げた。

「君は今、水中で何も問題なく呼吸しているよ?」

「えっ」

 驚きの声を上げた時、ぷくぷくと泡が口から飛び出した。普通に呼吸が出来るから水中だとは思わなかった。

「どうして」

「君はきっと半分だけ人魚なんだろう。今時珍しくないよ。さあ、起きて」

 少年にぐいっと手を引かれた。その瞬間、びゅーんと鳥になったかのようにものすごいスピードで進んでいく。周りの景色が見えないほどに早く。次第にゆっくりになっていき、目をよく凝らした。貝殻で出来た大きなお城があって私たちはそこに向かっていた。

 他に人魚はいなくてカニやヒトデ、イルカ何かがのんびりと泳いでいた。

「人魚はいないのね」

「みんな外に出ていったよ。いるのは王様と家来たちぐらい。寂しくてちょっと偏屈になっているけどおじいちゃんのこと許してあげてね」

「王様がお爺さんなの」

「うん、僕がこの国の王子の一人。上に五人の兄上がいるけどみんな地上に行っちゃった」

「へえ、貴方は地上に行きたいって思わないの」

「行きたいけど、おじいちゃんが寂しそうで。一番上の兄上が帰ってくるまではここにいるつもりなんだ」

「いい子なんだね」

「そんなことないよ。おじいちゃんは僕が外に行きたいの知っていて素っ気ないし」

 身長の何十倍とある大きな扉の前に来た。少年は門の隅で眠っていたタコの頭を叩いた。ぶわっと辺りに黒い霧が充満した。

「わわっ、何にも見えないっ」私が慌てていると激しい水の流れが霧を吹き飛ばした。

 少年の周りに細かい泡が渦になって巻いていた。

『こ、これは王子様――も、申し訳ございませんでした......』

 タコは、ぺったりと床に張り付いていた。人間が額を地面につけているような格好だった。

「守衛なのに寝ていてどうするんだよ」

『こ、これは――この国は退屈なほどに平和ですから』

「言い訳するなっ、お爺様にお客様だ門を開けろ」

『お客様......? 一体、どんな遠くの海からやってきた変わりものですか』

 タコは私を見て、足元を見て扉にひっついた。

『ひ、ひい。人間じゃありませんかっ。ほとんどの人間は私を悪魔呼ばわりし恐れる。しかし貴女のように濃い毛色の民族。東洋の海では鉄板に焼かれ食われるというのにっ、ああ。恐ろしい、人間は恐ろしいよう』

 タコはぽっぽと墨を吐きながら喋り続ける。

『引き上げられたら身が柔らかくなるまで痛みつけられ煮られて、酢につけられ、時に干されて――考えただけでもっ』

「タコって食べられるの?」

『ひぎゃぁっ』

「毒のないものはほとんど食べられるのじゃないかな」

『王子様まで、酷いじゃないですか――うん、今、人間の言葉がわかったぞ』

 タコはぺちんと音を立てて床に降りると、私をまじまじと見た。

『もしかして人間じゃーない?』

「もういいかな。門を開けてくれる」

『は、はい。畏まりましたっ』

 タコはちょうど半分の足を額のとことまで持っていくと、どこかにどんでいった。

 扉の端にある二本の柱。その中腹にある八本のレバーを一度に引いた。

 そしてゆっくりと開き始めた扉。ひょいっと反対側の柱に絡みつくとタコの大きな声が辺りに響いた。

『「第六王子様、並びに二本足のお客様のおなーりーっ」』

 ぎぎぎっと音を立てて完全に開いた扉。私は眩しくて目を細めた。

 はるか遠くにあるであろう天井は肉眼ではみえない。

 陽の光が燦燦と差し込み、巨大な人魚のシルエットを作り出している。

 やがて扉が閉まると天井の光も弱まっていく。

 水中に浮かんだ大きな王座に座る四メートルはあろうかという王冠をかぶった人魚。

『客とはな、まさか人間なんぞを連れてくるとは思わなんだ』

 びりびりと響く低い音、吹き飛ばされそうなほどに強い水の流れ。私が踏ん張っていると急に楽になって隣をみた。

 私と少年はシャボン玉のようなものの中にいた。

『むう』

 王は気まずそうに咳払いをした。

「お爺様、威圧するのはやめてください。これでただの人間ではないとわかったでしょ」

『あいわかったとも。人間、お前はどこの子だ。私が届けてやろう』

 王は私に向かって手を差し出してきた。私はまだ恐ろしかったがその手をとった。ぐいっと引き寄せられ膝の上にいた。ごつごつと固い膝、正座になって小さく小さく縮こまる。

「わ、わかりません。私の母は今日、死にました」

『なんとっ、父親の方はどうだね』

「わかりません、いつからか小さな村で母と二人暮らしていたのです」

『何ということだ。それではどちらが人魚族であったかわからないのだね』

 王は悲しそうに顔を歪めると大きな手で私の頭を撫でた。そこにひょいっと少年がやってきて呟いた。

「お爺様は小さな女の子にとても親切なんだ。末の娘のように喧嘩してばかりだったのを後悔しているんだよ」

「そうなのね」

『む、むむ......人魚族に茶色に茶色の目はいない。人の血が色濃く出てしまったせいか、どうしたって探しようが......』

「お爺様、よく見てください。この子は魔法にかかっているようなのです」

『ほう、本当だ。人魚の魔法じゃないか。お前さん、最後に母親からもらったものはないかね』

 私は首を傾げた。貧乏な母にもらったものなどない。最後というなら赤いリンゴぐらいなものである。

「私のリンゴ、あなたにとられたやつ」

「これの事かい」

 少年はどこからかひょいっと取り出したリンゴを私に渡した。くるくるとまわしてみるがどこにも食べた跡はない。私のリンゴに間違えなかった。

「これぐらいです、王様」

『そうか、そうか。ならば食べてみなさい。きっと母親は物珍しい人魚の容姿を隠すために魔法をかけたんだと思うよ』

 王様に優しく諭されて私はリンゴを一口かじった。二人に見守られながら食べるリンゴはとても気まずいものがあった。

 食べ終わってふぅっとため息をはいた。特別美味しいわけでもない普通のリンゴ。

「王様、何も起こらないよ」

『いいや、もう既に変わっているんだよ』

 王様は地上のものばかり積み重なったガラクタ山から鏡を拾い上げた。私は鏡を覗き込む。一瞬、跳ね返った天井の光で姿が見えなかったが驚いた。

 銀に桃色かがった髪。光に照らされるとパールのように七色に輝いた。目はきらきらと青空の様な色をしていた。真っ白で血の気のない顔には血が通ったように健康的な色を取り戻していた。頬や唇も桃色に染まっている。

「わあ、それが君の本当の姿なんだね」

『ふむ。非常に美しい娘だ。して名前は何というのだね』

 私は名乗った。母が名づけたという名前。

「ラーナといいます」

『良き名だ。どこかの地上でラナ。海を意味する名からとったのだろう』

 王様は優しく微笑んだ。私はつられて微笑んだ。






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