十三話
緑の景色を眺めながら残暑の道を歩き進み、シシリーは数ヶ月ぶりにヨーヌ村へと帰って来た。結婚をしてからまだ一年も経っておらず、村の様子は何も変わってはいないが、それでも見慣れた故郷を目の辺りにすると、シシリーの胸には大きな安心感と共に、懐かしさも湧いてきた。
「……あら? シシリーじゃない」
すれ違おうとした女性がシシリーに気付き、驚いたように声をかけてきた。
「あ、お久しぶりです。お元気でしたか?」
「見ての通りよ。それよりシシリーのほうはどうなの? 何もおかしなことは起きてない?」
領主への疑惑は未だ残っている。村の住人の中にも、こうして不信感を持ち続けている者は少なくない。真実を知るシシリーは、ただ苦笑いを浮かべるしかなかった。
「ええ、何も心配するようなことは……」
「シシリーじゃないか。戻って来てたのか」
「おや、シシリー。無事でいたか」
シシリーの姿を見つけた顔見知りの住人達が次々に声をかけ、笑顔を見せる。だがその大半はシシリーの身を案じる声だった。ひどいことはされていないか、まともな生活はできているのか、領主に怪しいところはないか――疑惑から悪い印象を持ってしまうのもわかるが、ここまで不信感に満ちた言葉を聞かされると、シシリーもさすがにやるせない気持ちになってきて、早く話を切り上げたかった。
「皆、シシリーのことが心配でね。寂しがるやつも――」
「あの、私、用事があって、そろそろ……」
「おお、すまなかったね。引き止めてしまって」
「用事って、お父さんかい?」
「ええ。今日はそのために来たんです」
「司祭様なら、さっき教会にいるのを見かけたよ」
「うちで作ったお菓子でも食べてってもらいたかったのに……明日はいるの?」
「いえ、用事が済み次第、帰らないといけなくて」
「残念ね。ゆっくりできないなんて」
「仕方がないさ。無理は言えない。……じゃあ、またなシシリー」
住人達は名残惜しそうに別れを言い、立ち去っていく。それを笑顔で見送り、シシリーは実家のほうへと足を向けた。
ほどなくして、道の先には石造りの小さな教会が見えてきた。その前にはかつて自分が水をあげていた花が、今は葉と茎を立派に伸ばして成長した姿を見せている。父のディクソンは娘の代わりにちゃんと水やりをしていてくれたようだ。これなら家事のほうもしっかりできていることだろう――家を出て以来、少し気がかりだったことが頭をよぎったが、シシリーはすぐに本来の目的に思考を切り替える。これは里帰りではないのだ。命の懸かった役目なのだ。今頃ジェロームも二箇所の隠し場所へ向かっているはずだ。久しぶりの実家に和んでいる暇はない。早く見つけて、呪いの恐怖から解放しなければ――教会の前に立ったシシリーは気を引き締めると、扉の取っ手を握って静かに押し開いた。
「……シシリー?」
開けた途端、その目の前には振り向いて驚くディクソンがいた。
「お父さん、ちょうどよか――」
「シシリー、どうしたの?」
発した声に重なるように、もう一人の驚く声がした。
「……ハリエット! キャスバートも、何でここに?」
ディクソンの陰から顔をのぞかせて現れたのは二人の友人だった。
「それはこっちが聞きたいこと。急に帰って来るなんて、館で何かあったの?」
心配するハリエットの目がシシリーを見つめる。
「そんなんじゃないわ。私はお父さんに聞きたいことがあって……二人もお父さんに何か用事が?」
すると二人は硬い表情で互いの顔を見合わせる。
「……何? 私には言いづらいこと? それなら聞かないでおいたほうが――」
「シシリー、そうじゃない。二人はお前に関する話をしに来たんだ」
真剣に言う父を、シシリーは丸い目で見た。
「私に関する話……? 一体どんな話なの?」
首をかしげるシシリーに、ディクソンはゆっくりと近付いた。
「館で、何かよからぬことが起きてはないか……?」
これにシシリーは眉根を寄せる。
「どういうこと? 何を、言いたいの?」
「実は、私とキャスが見たの……領主様の館に、鳥の怪物がいるのを……」
「え……」
ハリエットの言葉に、シシリーの頭は一瞬で真っ白になった。鳥の怪物――それに当てはまるものは一つしか考えられなかった。昨日の死神の姿……それを二人の友人はなぜ目撃していたのか、シシリーにはまるでわからなかった。
「な、何を言ってるの? 怪物だなんて……」
動揺を隠しながら、とりあえず否定することしかできないシシリーは、ぎこちない笑みを浮かべつつ言った。
「私も最初は子供の作り話のように思ったが、二人は至って真面目に話してくれた。作り話をするにしても、こんな現実離れしたものにはしないだろうし、そもそも私にこういった話をする理由も二人にはないはずだ。だから本当に怪物なのかはまだわからないが、何かしらを見たことは本当なんだと私は思ってる」
「お父さん、そんなもの、いるわけないでしょう? 二人も、何かと見間違えたんじゃない?」
「シシリーは見たことないんだね……でも僕達はこの目で見たんだよ。黒くて見上げるほど大きい、鳥の怪物を……。それだけじゃない。あそこには幽霊みたいに消える女もいるんだ。その女と領主様は普通に話してた。僕はそれも見たんだ」
消える女……それも死神の姿だとシシリーはすぐに察した。もはや否定の言葉がすんなりと出てきてくれなかった。
「ねえシシリー、領主様はやっぱり何か変よ。普通じゃない。あの館で人が死んだのも、きっと怪物のせいなのよ。あんなものを飼ってるなんて、領主様は怪しい呪術でも使えるんじゃ――」
「ハリエット、誤解よ。過去の事件の犯人はジェロームじゃないし、呪術なんてあの人は使えないわ」
「シシリーには黙ってるだけかもしれない。このまま一緒に暮らしてたら、あの怪物に食べられるかも……そうなる前にどうにかしないと」
「そんなこと起こらないわ。館での暮らしに危険なことなんてない。私は幸せに――」
困惑する娘の肩に、ディクソンは優しく手を置いた。
「今はそうかもしれないが、この先はわからない。何せセーヤーズ様はすでに二人の奥方を亡くされてるんだ。それもたった二年間で……」
シシリーは父の手を払うと、その顔を悲しげに見た。
「だから、同じように私も、死ぬって言うの?」
「そうは言わないが、話を聞く限り、疑いも捨てられない」
「そうよシシリー、万が一何かあったら取り返しがつかないのよ? 私達もすぐに助けに行けないし」
「違うの。皆違うのよ。怪物なんていないし、ジェロームもそんな人じゃないの」
「シシリーは優しいから、領主様を悪く言いたくないのはわかるよ。でも――」
「そうじゃないのキャス。本当に、誤解なのよ……」
ジェロームへ向けられる疑いを消すことができず、シシリーは歯がゆげにうつむく。
「誤解かどうかは、私達がセーヤーズ様に直接確かめてこようと思う」
父の言葉にシシリーはすぐに顔を上げた。
「直接? 会いに行くつもりなの?」
「ああ。二人とはそれを話してたんだ。行くなら急いだほうがいいと、今から館へ向かおうと思ってた」
「今から? そんな、急に……」
「だからシシリーはしばらくここで待ってなさい。セーヤーズ様が理路整然と話してくれた上で、私達が疑いなしと判断できるまで、悪いが館へ帰らせることはできない」
「こ、困るわ。私にはやらなきゃいけないことが――」
「そんなに長居はしないよ。まあ、領主様次第だけど」
「これはシシリーのためよ。領主様の本性、しっかり見極めてきてあげるから」
意気込む二人の友人に、シシリーは戸惑いながらも発すべき言葉を考えた。
「……そ、そうだった。ジェロームは今出かけてて、行っても話はできないわ。また日を改めたほうが……」
「なら戻るまで待つよ。シシリーの身が危ないかもしれないのに、予定を延ばすなんてできない」
「心配いらないわ。シシリーは私達が戻るまでゆっくり待ってて。領主様も、さすがに来客を怪物に襲わせるなんてこと、しないと思うし」
「だから、怪物なんて……」
そこまで言ってシシリーは言葉を途切れさせた。友人達の表情は真面目にシシリーの身を案じている。いくら否定したところで、死神を目撃してしまったことは、心や考えに揺るぎない自信を生んでしまったようだ。これ以上否定を続けても、二人の耳に届くとは思えなかった。
「そんな顔をするな。話を聞きに行くだけのことだ。何も問題がなければすぐに戻れる。久しぶりの我が家でくつろいでいればいい」
「……わかったわ……」
シシリーはうなだれ、そう返すしかなかった。ジェロームを辛い目に遭わせたくないのに――こんなことも止められない自分をシシリーは情けなく思い、唇を噛み締めた。資料探しさえ終われば、死神は去り、ジェロームも普通の暮らしを取り戻せるはずだ。そのためには一刻も早く隠された資料を見つけなければならない。くつろぐ時間など、今はないのだ。
「では、セーヤーズ様の元へ行こうか」
「待ってお父さん。私にも用事があるの」
教会を出ようとした父をシシリーはすぐさま呼び止めた。
「ああ、そう言えばそうだったな。何か聞きたいことがあるのだったか?」
「ええ。ジェロームのお父様……前の領主様が、ここに来たことはある?」
「先代のセーヤーズ様か……」
ディクソンはしばし宙を睨む。
「……一度……いや、二度ほど来られたか」
「もしかして、一度目は春のお祭りの時だった?」
「その通りだ。随分昔のことなのに、よく知ってたな。まだご結婚されたばかりで、奥方と仲睦まじくされていた。あれは、町村の視察の一環だったか……」
やはりあの日記の内容は、ヨーヌ村の祭りでのことだった――シシリーの考えは見事に当たった。となると、資料はここのどこかに隠されているということになる。
「二度目はいつ?」
「数年前だったか……随分とお疲れのご様子で、突然ふらりといらした時があった」
「その時に、何か持ってたり、不自然な行動はしてなかった?」
これにディクソンは怪訝な表情を浮かべる。
「なぜそんなことを聞く?」
「ここでの前領主様の行動を知りたくて……どんなことでも教えてほしいの」
「お疲れのご様子以外は特に変わったところはなかった。わざわざここに来てくださったのも、数が増えて保管できなくなったという蔵書を寄付するためで、貴重な書物を多くいただいただけだ」
「書物を寄付……」
シシリーはぴんと来ると、父に詰め寄った。
「それはどこに置いてあるの?」
「お前も何冊か読んだはずだ。教会の準備室の本棚にある一部の書物は、セーヤーズ様が寄付してくださったものだ。前にそう言わなかったか?」
「そう言えば……」
当時の記憶を思い起こすと、シシリーは確かに準備室にあった目新しい本を読んでいた。そしてそれをディクソンは寄付されたものだとも言っていたが、それが誰からかまではすっかり忘れてしまっていた。
「あそこの書物は教会に来た方に貸し出してもいるが、今は誰も借りてないはずだから、すべて揃ってるだろう」
前領主は増え過ぎた蔵書を自らの手で寄付しに来た。誰かに頼むこともできたのに、わざわざそうした理由は一つだけだろう。それを口実に資料を自分で隠したかったからだ。その正確な隠し場所を自らの目で確認しておきたかった……だとすると、探すべき場所は絞られる。
「私が憶えてるのはそのくらいだが、他にも聞きたいことはあるか?」
「ううん、これで十分よ。ありがとう」
「そうか……では私達は行って来る。悪いが、戻るまで待っててくれ」
「シシリーはゆっくりしてて」
「話を聞いたら、すぐ戻るから……」
父と友人二人はシシリーに一声かけると、そのまま教会を出て行った。静かに扉を閉められると、静まり返った祈りの場にはシシリーだけが取り残された。
「待ってなんかいられない……」
祭壇のある奥へシシリーは足早に向かうと、その右側の扉を開け、中に入った。そこはディクソンが言っていた準備室と呼ばれる小部屋で、教会で執り行われる各種祭儀のための道具などが置かれている。司祭の控室にもなっており、机や椅子、簡易ベッドも備えられていて、部屋の隅には目的の本棚もある。
そこへすぐに歩み寄ると、シシリーは並ぶ書物を上から下まで眺めた。ほとんどは宗教に関するものだが、子供向けの教本から、歴史や教義の本格的な学問書まで、その内容は多彩だ。シシリーもここの本を読み、神の教えを学んでいった。なので見覚えのあるものは多い。
「寄付されたのは、どれだろう……」
適当に手に取ると、ページを開き、中を見ていく。資料は寄付された書物に隠されているとシシリーは予想していた。だがどれが寄付されたものなのか、記憶を頼りに判明しているものもあったが、すべてはさすがにわからない。仕方なくそれらしいものを片っ端から調べていくことにし、数冊の本を抱えたシシリーはそれを机に運び、椅子に座った。
「絶対に、見つけなきゃ」
死の呪いを回避するため、そして、ジェロームの苦しみを終わらせるために――そう心に強く思いながら、シシリーは資料探しを始めた。
すでに見つけているジェロームの話からすれば、資料は紙一枚に書かれたものが折り畳まれて隠されていることが多く、ばらばらにされていたり、形を変えられている可能性は低いだろう。そうなると本に隠す方法もいくつかに限られてくる。
シシリーはまず全ページの間をくまなく探した。一番単純な方法として、ただ挟むという隠し方は真っ先に頭に浮かぶものだが、前領主がそんな易しい方法で隠すわけもなく、ページの間には何も挟まってはいなかった。そもそも挟んだだけでは、その本を読んだ者に簡単に見つけられてしまうし、隠したとは言えない方法かもしれない。
次に考えたのはページに貼り付ける方法だ。分厚い紙ならそれを二枚に裂き、その間に隠したり、本自体を分解して、一ページとして紛れ込ませることもできるだろう。その場合は本の作りや紙の手触りに必ず違和感が残る。それらを注意深く見ながらシシリーは探していくが、どの本の、どのページにもそういったものは見つけられなかった。
数十冊の本を黙々と調べているうちに、窓の外はもう夕暮れを迎えていた。空腹や喉の渇きも忘れ、ひたすら資料を見つけることだけに集中していた。しかし一向に進展しない状況に、本当に書物に隠されているのかという疑いも湧きそうになってくる。もしかして予想は外れているのでは――そんな不安も感じながら、それでもシシリーは自分を信じて、しつこく本を調べ続けていく。
本の中に何もないのなら、あとは外側にしか隠せる場所はない。つまり装丁の下や裏側だ。不自然なところはないかと、シシリーは一冊ずつ目を凝らして見ていくが、さすが前領主の蔵書だっただけあり、その多くは見事な装飾で、本の内容に合わせた調和美を見せており、高価と言わんばかりの雰囲気を漂わせている。美しい装丁はどれも完璧で、怪しいところはどこにもないように見える。だが細工を施すなら一番やりやすい場所でもあるだろう。わずかでも違和感はないだろうか――シシリーは目と指先で慎重に本を探っていった。
表紙には紙、布、革など様々な材料が使われており、それぞれで手触りも違う。硬かったり柔らかかったり、なめらかだったりざらざらだったり……。そんな違いはあるが、作りは基本同じだ。それ以外に変わったところは見当たらない。だが本に隠すとしたら、もうここしかないのだ。一冊ずつ装丁を剥がして調べてみてもいいが、せっかく寄付してくれた貴重なものを台無しにしてしまうのには抵抗がある。できれば一冊を特定したいところだ。だが命が懸かっている時にそんなことを言っている場合でもない。急ぐのならやはり装丁を剥がしていくべきか――そんな判断に迷っていた時だった。
「……ん?」
一冊の本の裏表紙に触れたシシリーは、その瞬間、指先にわずかな違和感を覚えた。何だろうともう一度裏表紙に触れてみる。縁から中央へと指でなぞり、伝わる感覚に意識を注ぐ。
「……真ん中に、少し厚みがある……」
平らであるはずの面に、わずかな凹凸が感じられた。裏表紙の下に何かが重ねられている。これはもしかすると――シシリーは机の上を見回す。しかし役に立ちそうなものは何も置かれていない。引き出しはどうかとのぞいてみると、中には筆記用具に混じってはさみがあった。それをすぐに取ったシシリーは、刃部分を直に持つと、その先端を裏表紙の縁に強く押し当て、ゆっくりと引き裂いていく。張り付けられた紙に細い線が刻まれ、シシリーはそこを爪で剥がしてみる。のり付けはされていたが、力を入れると裏表紙はあっさりと剥がれてくれた。そしてその下を指で探ると――
「見つけた……やっと……」
二つ折りにされた紙を取り出し、シシリーはそれを開いてみる。小さな文字が一面に書かれており、読んでみてもやはり理解はできない内容だが、これこそが隠された資料に間違いなかった。
「最後の資料……早く、ジェロームに渡してあげないと……」
本の片付けもそこそこに、シシリーは真っ暗な教会から外へ出た。夕暮れの空は本に集中している間に星空へと変わり、村の中も昼間とは打って変わり、密やかな空気に包まれていた。何時かはわからないが、日が落ちれば夕食を取って、あとは寝るだけの時間だ。出歩いている者もいないだろう。待っていろと言われたが、誰にも見られないうちにシシリーは構わず村の外へ小走りに向かう。
「そういえば、お父さん達、どうしたんだろう……」
こんなに暗くなっても帰って来ないのは、まだジェロームに会えていないのか、話が長引いているのか、それとも――嫌な想像がよぎる前に頭を振ったシシリーは、とにかく今は急いで館に戻ろうと暗闇の道を懸命に走って行くのだった。
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