十二話

「一応見てもらうが……やはりシシリーは力になれないかもしれない」


 二階の自室へ向かいながら、ジェロームは難しい表情でそう言った。


「わかってます。でも隠し場所はわからなくても、ジェロームのためにできることは他にもありますから。とりあえず見るだけ見させてください」


 やる気を見せるシシリーと共に、ジェロームは自室へと入った。相変わらず書類などが散乱する机に近付くと、その傍らに置かれたいつも持ち歩くかばんを開け、中から一冊の手帳を出した。


「これを父は日記帳にしていたんだ」


 そう言ってジェロームはシシリーに見せながら、ぱらぱらとページをめくっていく。どこを見ても黒いインクの細かい文字がびっしりと書かれている。この一つ一つが資料の隠し場所を示唆しているのだ。


「すでに見つけたページには印を付けている」


 言う通り、多くのページの上部にはバツ印が描かれていた。


「残りの資料はあといくつなんですか?」


「三枚だ」


 全部で三十五枚で、残りはあと三枚――資料探しに苦労している印象を持っていたシシリーは、そこまで見つけ終えていたことに少々驚いた。


「あと三枚なら、希望が大きく持てますね」


「三枚中、二枚についてはすでに目星が付いている。先日の嵐の日は、その二枚を探しに行くところだった。だが途中、倒木で道が塞がれていた上、体調を崩し、やむなく引き返すしかなかったんだが、今ならその道も通れるようになっているだろう」


 ジェロームが熱に浮かされ言ったうわ言「もう少しで」というのは、本当にもう少しだったのだ。二枚の隠し場所がわかっているのなら、残りは実質一枚ということになる。


「私はもっと時間がかかるものだと思ってましたけど、これならすぐにでも――」


「時間はすでにかかり過ぎている。目星の付いた二枚も、予想した無数の候補地をしらみつぶしに回った結果なんだ。簡単に見つけられたのは最初の頃だけだ」


「ご、ごめんなさい。そうですよね。ジェロームはずっと苦労して探し回ってたんですよね。だからやっとここまで……」


「いや、怒っているわけではないんだ。気は抜けないと言いたかっただけで……問題なのは最後の一枚なんだ」


 そう言うとジェロームは手帳のページをめくり出す。


「……この日記の内容だけ、まったくわからないんだ。だからずっと後回しにしていたんだが、結局最後まで残ってしまった」


 バツ印のないページを開き、ジェロームは手帳をシシリーに渡す。そこに書かれた細かい文字をシシリーは読んでいった。




  三月二十五日


  とてもいい天気だった。春を歓迎するには最適の日だった。


  妻は素朴な料理に舌鼓を打ち、優しい人柄の住人達を気に入っていた。


  また連れて来たら、きっと喜んだに違いない。


  太鼓や笛の音に合わせ、住人達に混じって踊ろうと言ったら、妻は踊っただろうか。


  花弁が舞う下で、私と手を取り踊る姿は、春を告げる女神を想像させる。


  あの楽しく、美しい光景の中に、もう一度妻と共に入りたかった。


  叶わない今は、大事な記憶を神の下に預けておくことにする。


  再び訪れた時、あの時の記憶がよみがえるように。




 文章からは亡き妻への愛がひしひしと伝わってくる。前領主は愛妻を失っても、なお愛し続けていたのだろう。


「何かの、お祭りのような雰囲気を感じますね」


「私もそう思って、各地の祭りについて調べたが、春と楽器、その二つが共通するものはあまりに多過ぎて絞れなかった」


 春の訪れを祝う祭りは、領内の至るところで行われている、言わば定番の祭りだ。集落などの小規模なものから、城下や町での大規模なものまで、その数は多い。祭りの内容も似たり寄ったりで、日記に書かれているものから絞るのは確かに難しそうだった。


「ジェロームは一緒に行ってないんですか?」


「こういった祭りに行った記憶はない。おそらく、私が生まれる以前の思い出なんだろう」


 うーんと首をひねりながら、シシリーは手帳をじっと見つめる。


「この日付は、書かれた時の日付なんですか?」


「ああ。だが思い出の日と近い場合もあるようだ。同じ時期になって当時の記憶がよみがえるんだろう」


「じゃあ、日付に近い日に行われるお祭りかもしれませんね……」


「春祭りは大体がこの時期に行われるものだ。日付は手掛かりにはならないと思う」


「聞いたことがあるんですけど、ある地域では五月に行われたり、気が早いところでは二月に行うところもあるらしいです。それを調べれば少しは数も減りませんか?」


 これにジェロームは緩く首を横に振った。


「行われる時期も調べ済みだ。領内の春祭りはすべて三月か四月に行われている。二月や五月というのはおそらく領外の話だろう」


「そう、なんですか……」


 間違っていた知識に、シシリーは残念そうに息を吐く。やっぱり自分なんかでは力になれないのだろうかと、弱気な言葉が頭をよぎる。


「ジェロームはどんな場所を予想してるんですか?」


 聞かれたジェロームはシシリーの持つ手帳を横からのぞき込んだ。


「ここの、素朴な料理という文章から、大きな町ではなく、村や集落ではないかと思っているが、自信はない。町でもそういった料理を出す店はあるだろうし、どんなものを素朴かと感じるかは個人の感性だ。そればかりは父に聞いてみるしかない」


 一般的に、栄えた場所より人の少ない田舎のほうが素朴な印象はあるが、あくまで印象だ。確実なことではないが、それでもジェロームの予想はシシリーも頷ける気がした。


「他にもありますか?」


「これは予想ではなく、疑問なんだが……この、花弁が舞うとある文章がどうも腑に落ちない」


「どうしてですか? 春なんですから、別におかしなことじゃ……」


「よく考えてみてくれ。春祭りは春が訪れたことを祝う祭りだ。花は咲き乱れていても、まだ散る時ではないはずだ」


 言われてシシリーはもう一度日記に目を落とす。花弁が舞う下で――花が咲く下ではなく、舞っている下、つまり、花は散り始めているとも読める。


「本当……少し、おかしいですね」


「私は花に詳しいわけではないが、この時期に多くの花を咲かす木は限られる。それらの花が散るのは五月が迫った頃だ。春祭りの時期からは過ぎている」


「じゃあこのお祭りは、別のお祭りなんでしょうか」


「いや、春という言葉が出ている以上、どこかの春祭りには違いないはずだ」


「行う時期が、ずれてしまったとか……?」


「その可能性もあるだろうが……そうだとしても、手掛かりがない状況では、結局手詰まりだ」


 ふうと息を吐くと、ジェロームは机に寄りかかり、腕を組んで考え込んでしまった。後回しにしていただけあって、場所を推測するのも一筋縄ではいかないようだ。このままではすべての町村を回る手段しか取れなくなってしまう。そうなればかかる時間は膨大だ。期限までに終わらせることはまず不可能だろう……。


 沈んだ空気が漂うのを感じて、シシリーは努めて明るい表情を作った。


「私の住んでたヨーヌ村でも、四月の始めにお祭りをしてるんです。ごちそうを作って、皆で音楽に合わせて踊って……でも昔、村の広場には春に花を咲かせる木がなくて、見た目は全然春らしくなくて、すごく地味だったそうなんです。だからわざわざ木を植えて、お祭りを盛り上げようとして……。そのおかげで十年後には、満開の白い花が咲くようになって、もっとにぎやかなお祭りにすることができたんです。前領主様も、そんな華やかな雰囲気が好きだったんでしょうか」


「父の行動はすべて母のための行動だった。祭りへ行ったのも、母を喜ばせるためだったんだろう。華やかなことが好きなのは母のほうだったから」


「そうですか……だったら一度見てもらいたかったです」


「村の祭りを?」


「はい。でも今のお祭りじゃないんです。木を植えて花が咲くまでの十年間だけやってたことなんですけど、私、幼い頃に一度だけ見た光景が忘れられなくて」


「ほお、どんなことをしていたんだ」


「春の華やかさを出すために、女性達がそれまでに育てた花の……花弁……」


 シシリーは自分で話す内容にふと気付き、言葉を止めた。


「……どうした?」


 怪訝な顔のジェロームに見られながら、シシリーは祭りの記憶を呼び起こし、その胸の鼓動を高鳴らせた。


「ご両親は、お祭りを見てるかもしれません……」


「え? いきなり何を――」


「花弁が、舞うんです」


 真剣な表情のシシリーに、ジェロームは組んだ腕を下ろすと、その顔を見つめた。


「……説明を」


 強く頷き、シシリーは話した。


「今から十七年前、私が三歳の頃まで、十年間やってたことで、お祭りを盛り上げるために、女性達が育てた花の花弁を集めて、それを広場に振りまくんです。赤とか黄、白、紫とか、色鮮やかな花弁が入り混じって広場の地面を覆い尽くすんです。風が吹くと、それが一斉に舞い上がって、花弁が空中で踊り始めて……その光景は本当に綺麗で、終わってしまったことが惜しいくらい、はっきり憶えてるんです」


 シシリーはジェロームの目を真っすぐに見据える。


「日記の場所は、ヨーヌ村かもしれません」


「待ってくれ。もう一度時期を確認したい。それが行われていたのは、シシリーが三歳の時……」


「はい。花弁を振りまくのは、その年で終わってます」


「私は同じ時八歳か……その十年前から、花弁を使った祭りが行われていた……私が生まれる前の、二年間のどこかで行っていた可能性もあり得るか……」


 独り言のように呟いていたジェロームは、ふと視線を上げるとシシリーを見た。


「……もしかしたら、もしかするかもしれない」


「そうだったとして、資料はどこに隠されてるんでしょうか」


「それは簡単だ」


 ジェロームは日記の一文を指し示す。


「大事な記憶を神の下に預けておく――これが隠し場所のことだろう。大事な記憶が資料のことだとすると、神の下というのは、たとえば神聖な場所……礼拝堂や教会だろうか」


「教会……!」


 目を丸くしたシシリーを見て、ジェロームもすぐに気付いた。


「……そうか。シシリーは司祭の娘だったな」


「じゃあ、資料は村の教会……私の家にあるかもしれないんですね」


「そうなる……」


 答えながらジェロームは呆然とシシリーを見つめていた。


「……どうか、しましたか?」


 聞かれ、ジェロームは苦笑いを浮かべた。


「運命というのも、あながちないことではないのかもしれない」


 シシリーは何のことかと首をかしげる。


「私を助け、愛することが自分の運命だと、シシリーはそう言ってくれただろう。まさに今、私はシシリーに助けられ、長いことわからなかった最後の資料の在りかを特定できたかもしれないんだ。しかもそれが実家である教会だなんて……まるで何かに導かれたかのようだ」


「力になれたなら、よかったです」


 シシリーは少し照れながら微笑む。


「こんなことなら死神の言うように、もっと早くから協力を頼めばよかった。癪ではあるが、やつの言葉は資料探しに関しては間違ったことは言っていなかったようだ」


「でも、それももうすぐ終わります。残った三枚の資料の場所はわかってるんですから」


 シシリーは日記を閉じ、ジェロームに手渡す。


「ああ。時間をかけ過ぎた……早いところ終わらせよう」


 するとジェロームは日記をかばんにしまい、それを持って歩き出す。


「ど、どこへ行く気ですか?」


「決まっているだろう。残りの三箇所だ」


 部屋を出ようとするのを、シシリーは慌てて引き止めた。


「無理は駄目です。まだ風邪がちゃんと治ってないのに」


「平気だ。体は動く」


「それでも駄目です。急ぎたい気持ちはわかりますけど、外出はしっかり治してからにしてください」


「だから平気だ。また倒れてシシリーに迷惑をかけることはない。それより急いで――」


 シシリーは、はやるジェロームの腕を強く引いた。


「お願いですから、もう少し休んでください。まだ何も食べてないですし」


「食事はどこかで取れる。心配はいら――」


「心配はします。昨日まで寝込んでたんですから。……じゃあせめて、今日だけは休んでください。一日だけ……いいですか?」


 ジェロームは溜息を吐いた。


「……心配してくれるのはありがたいが、私はそこまで柔ではない」


「風邪で倒れた人の言葉じゃあ、信憑性に欠けます」


 ジェロームは思わず、うっと言葉に詰まった。


「今日は休養日にして、資料探しは明日からです。それと、明日はヨーヌ村へ私が探しに行きます」


「いや、シシリーが行かなくても私が――」


「協力、させてください。三箇所あるなら、手分けしたほうが早いはずです」


「それは、そうだが……」


「それに隠し場所が教会なら、娘の私のほうが話も通って探しやすいと思うんです。だからこっちの資料探しは任せてくれませんか?」


 少し考え込むも、ジェロームは軽く息を吐き出し、シシリーを見た。


「……わかった。では、協力を頼めるか」


 聞かれ、シシリーは満面の笑みを見せた。


「はい。喜んで」


 その笑顔に、ジェロームは諦めの表情を浮かべる。


「自ら休養を取るなんて、いつぶりのことか……」


「ジェロームはゆっくりしててください。長い間、ずっと休まず頑張ってきたんですから」


「だが、休めと言われても、どうすればいいのか……睡眠は十分に取ってしまったし」


「何か食べたいものがあれば作ってきましょうか?」


「そうだな……だがたまには、自分で料理をしてみるのもいいかもしれない」


「それじゃあ休みにならないと思いますけど……」


「いいんだ。気晴らしにはなる。……一緒に、手伝ってくれるか?」


「もちろんです。何を作りましょうか」


「シシリーの好きなものでいい。私はそれで満足だ」


 二人は並んで歩きながら一階の台所へと向かう。その様子にはもう何の隔たりもない。一時の休息は、二人の心の距離を埋め、ようやく夫婦らしい時間を形作ろうとしていた。

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