十一話

 ジェロームを捜し、各部屋を見て回っていたシシリーだが、その姿はまもなく見つかった。


「……あっ」


 掃除以外では入ることのない美術品の収蔵室をのぞくと、白い布をかけられた数々の作品に混じるように、低い棚に腰かけ、うなだれるジェロームがいた。窓にはカーテンが引かれているため薄暗いが、美術品のためにこの部屋は常時こうされている。シシリーは静かに入ると、座るジェロームの前まで近付いた。


「……話を、してくれますか?」


 聞いてみるが、ジェロームは黙ったままでいる。構わずシシリーはさらに聞く。


「私は、身代わりなんですね」


 そう言うと、ジェロームの体はわずかに動き、そしてうなだれていた顔がゆっくりとシシリーを見上げた。


「……ああ……」


 その表情は見ているこちらが辛く感じられるほど、ジェロームの心の苦悩が表れていた。


「そんな顔、しないでください。呪いを回避するために、やむを得なかったんですから」


 シシリーは優しく微笑んだ。


「無理に笑わなくてもいい。私に失望しただろう。最低な男だと……」


「どこが最低なんですか? ジェロームはこの領地が呪われないように精一杯頑張ってるじゃないですか。それを果たすために身代わりを立てた……そういうことですよね」


 これにジェロームは表情を歪めた。


「なぜ素直に怒りを見せず、私なんかを理解しようとするんだ。身代わりを目的に結婚させられたんだぞ。本来なら無関係なことで、死ぬかもしれないんだぞ」


「でも今は無関係じゃありません。私はあなたの妻なんです」


 強く言い切ったシシリーを、ジェロームは弱々しく見つめた。


「なぜ優しくしようとする……逃げ出したっていいんだ。私に止める権利はないのだから」


「苦しんでるジェロームを見捨てて逃げるなんてこと、私にはできません。理由はどうあれ、私達は夫婦なんです。すべてを分かち合い、問題があるなら一緒に解決したいんです。だから教えてください。こうなってしまったことや、ジェロームの気持ちを、私に……」


 しばらくうつむいていたジェロームだったが、おもむろに座っている棚の端に体をずらすと、そこにもう一人分座れる空間を作った。


「……わかった。すべて教える」


 寄り添おうとするシシリーの眼差しは、頑なだったジェロームの心をようやくほぐすことができたようだ。シシリーはそれとなく示された隣に腰を下ろし、ジェロームを見る。そこにはやつれて悩む横顔がある。これほど近い距離で話すのは初めてのことで、少しは心を開いてくれたのかもしれないと思うと、わずかに嬉しい気持ちも湧いた。


 隣に座ったのをちらりと確認すると、ジェロームは話を始めた。


「こんなことになった始まりは、あいつが言っていた通り、私の父が原因だ。魔術などに傾倒したせいで……」


「禁忌を犯してしまったと……でも、前領主様はどうしてそんなことをしたんでしょうか?」


「悲しみだ。最愛の妻を失ったせいで、父は少しずつおかしくなっていったんだ」


「ジェロームのお母様は、いつ亡くなったんですか……?」


「私がまだ十歳の頃だ。病死だった。その時の悲しみは今も忘れられないが、それ以上に忘れられないのは父の憔悴し切った姿だ。動かない母を抱き、泣きわめき、朝まで離れなかった。葬儀の時の顔なんて人前で見せられるようなものではなかった。子供ながら父のことが心配になったのを覚えている」


「深く愛していたんですね」


 これにジェロームは緩く首を横に振った。


「深くなんてものではない。父の母に対する愛は異常とも思えた。仕事以外の時間は常に母と一緒にいたし、一週間に一度は何かしらプレゼントを渡していた。あげ過ぎて母は置き場所がないと困るほどだった。旅行にも頻繁に連れて行った。と言っても領主の身では遠出は難しいから、ほとんど領内を巡っていたが。私も母の腕に抱かれていた頃から各地を巡っていたらしい。そんなことが、母が病に伏せるまで行われていたんだ」


「それじゃあ、ひどく悲しまれるのも当然ですね……そのせいで、どんなふうに変わってしまったんですか?」


「父の祖先には魔術師がいたらしくて、それを知ってから父は魔術に関する古い本や資料を集めることを趣味にしていたんだ。書庫に行けば、その収集品が大量に残っている」


 書庫と聞いてシシリーは思い出した。本棚に多くあった魔術に関する本はジェロームのものではなく、前領主が買い集めたものだったのだ。


「母が亡くなるまでは、それは単なる趣味でしかなかった。だが次第に収集する勢いが増していき、それを真剣に読み込む時間も増えていった」


 本の余白にあった大量の書き込み……あれを見れば、どれほどの真剣さだったかはシシリーにもよくわかる気がした。


「その頃の私は、まだ勉学に励んでいる時で、周りより自分のことに集中していた。母が亡くなって以来、父とはあまり口をきかなくなっていたし、正直、気にかけることもなかった。だからそんな様子も一時のことだと思い、傍観していたんだ」


「異変は、いつ知ったんですか?」


「学業を修了した後だ。父の側近の一人が私に助けを求めに来た。領主様に仕事をするよう言ってくれないかと。私はそこで初めて父の状態を知ったんだ。部屋にこもって魔術の本を読みふけるばかりで、領主としての仕事が滞っていた。このままでは王宮から職務放棄と見なされかねない状況だった。私は何度も父の部屋へ行き、真面目に仕事をするよう注意をしたが、まるで聞く耳を持ってくれなかった。困り果てた側近は領主代行を立てるしかないと、それを私に頼んできた。将来領地を引き継ぐ者として、当然の成り行きではあったが、その経験も知識もない私にはなかなか困難なことだった。だが周囲の者達の助けで、どうにかこなしていくことができた……」


 ジェロームは小さな溜息を吐く。


「……そんな日々を送っていた時だった。ある日父が部屋から飛び出して来て、子供のように歓喜し始めたんだ。駆け回り、両手を振り上げながら、愛する彼女が戻ったと母の名を叫んでいた。何事かと話を聞いても、さっぱり要領を得ない。だから私を含めた全員が心の病を疑った。すぐに専門医に診せたが、結果は正常だった。その診断通り、父はそれから仕事を真面目にやるようになり、以前よりも生き生きした表情を見せるようになった。その様子に皆一安心した。昔の領主様に戻ってくれたと。私もこれでお役御免だと思った。だが……」


 ジェロームの膝に置いた手は、ゆっくりと拳を握った。


「また、異変が……?」


 やつれた横顔は静かに頷く。


「笑顔を見せていた父が、ある日から急に何かに怯え始めたんだ。毎日そわそわして落ち着きがなく、話しかけても心ここにあらずの状態だった。それで仕事ができるはずもなく、状況は再び悪いほうへ戻ってしまった。父はまた自室にこもるようになったが、たびたび出かけるようにもなった。誰にも言わず、一人でどこかへ……。最初こそ心配したが、毎回ちゃんと帰って来てくれるとわかると、引き止めることはなかった。父のことより私は、領主代行としての仕事で頭がいっぱいだった。無事に戻るなら何も問題はないと考えていたんだ。だがそれは間違いだった。父は、すでに深刻な問題を起こしていたんだ……」


「禁忌、ですね……」


 ジェロームは目を伏せ、続ける。


「朝起きて一階へ下りようとしたら、目の前に使用人が倒れていたんだ。そこだけではない。廊下、部屋、裏庭……至る所に何人もの見知った人間が倒れ、息絶えていた。まったく状況がわからなかったよ。賊の仕業かと思い、私は慌てて父の部屋へ向かった。中では案の定、父も息絶えていた。だがその死に顔は使用人達とは違い、恐怖や苦痛にまみれ、今にも叫び声が聞こえてきそうなほど歪んだものだった」


 シシリーは想像し、背中にぞくりとしたものを感じた。


「それが、呪いによる死……」


「あまりに異常な状況だった。だがそれ以上に異常な者が現れた。喪服を着た一見人間の女にしか見えないそいつは、自分のことを冥王の使いで来た死神だと名乗った。そしてこの状況の説明を始めたんだ。父や使用人達が死ぬことになった理由、それは、父が魔術を使い、冥界から母の魂を盗み出したからだと……。いきなりそんな話をされても、当然信じられるわけがなかった。だが私には信じられる心当たりもあった。母に対する父の溢れんばかりの愛、魔術の本を読みふける姿、愛する彼女が戻ったと歓喜していた様……母の魂を盗んだというが、父ならそんなことも執念でやり遂げそうな気がした」


「その説明を信じられたんですか?」


「半信半疑だった。死神に禁忌の魔術に関するすべての資料を集め、燃やせと言われた時、私は断ったらどうなると聞いた。その直後、死神は姿を変え、あの鳥の化け物になってこっちを見下ろし、お前とこの領内に呪いが降りかかると脅してきた。おそらく、私が疑っているのを感じたのだろう。おかげであいつが本物の死神だと認めざるを得なかった」


「そうして資料探しが始まったんですね」


「言われた当初は簡単なことだと思っていた。書庫と父の部屋を探せばすぐに終わることだと。だが父の部屋からは断片的な資料しか見つからなかった。まだ他にあるはずなのに、館内中を探しても、どこにもなかった。すでに破棄されたとも考えたが、その答えは父の手記に書かれていた」


「どんな内容が……?」


「殴り書きで、こう書かれていた――悪魔の声がする。魂を返せとうるさい。魔術を使えば身を滅ぼすと言ってくる。彼女を奪われるかもしれない。だがそうなったらまた奪い返せばいい。やっと見つけた方法まで奪われるわけにはいかない。早めに隠したほうがいいだろう――ここから父は資料をどこかに隠したのだとわかった」


「悪魔の声って、一体何のことでしょうか」


「父は冥界からの警告を悪魔の仕業だと思っていたようだ。死神は再三魂を返せと呼びかけたらしいが、すべて無視されたことで冥界のさらなる怒りを買ってしまったわけだ」


「怯えてたのは、その警告のせいだったんですね」


 ジェロームは小さく頷く。


「資料が隠されたとわかって、場所はどうやって推測したんですか?」


「手掛かりを求めて父が書いたものを片っ端から読んでいる中で、日記にその場所が示されていることに気付いたんだ」


「日記に書き残してたんですか?」


「隠し場所そのものは書かれていなかったが、示唆する内容だった。日記はその日に起きたことなどを書くものだが、父のそれは過去の思い出ばかりが書かれていて違和感を覚えたんだ。それでよく見れば、ページの隅に意味のわからない数字が記されていた。一から三十五まで、その数字があるページの内容は、決まって母と出かけた思い出が書かれていた。その中には私も共に行ったものもあり、もしやと思い、内容に書かれた場所へ行ってみたんだ」


「それはどこだったんですか?」


「メートンだ。父が昔、母のために借りていた部屋があって、幼かった私も何度か行った記憶があった。空き部屋になっていたその部屋を隅々まで探すと、予想通り資料の一枚を見つけた。そこで私は気付いたんだ。父が一人で出かけていた理由を……。それは資料を隠すために、わざわざ思い出のある各地におもむいていたんだ。そしてページに記された数字、これは隠した資料の枚数ではないかと」


「つまり、全部で三十五枚の資料が、どこかに隠されてるってことですね?」


「おそらくは。すべて集めてみるまでは断言できないが、私はそう予想して日記から隠し場所を推測しながら各地を歩き回った。だが、父の思い出には私が生まれる以前のものもあって、内容だけでは場所を特定できないこともあった。勘で行ってみても空振りを繰り返すだけで、一年という期限までにはとてもではないが終わりそうになかった。だから、私は……」


 言葉に詰まるジェロームだったが、静かに深呼吸をすると、再び落ち着いた口調で言う。


「……身代わりを、立てた。そうするしかないと思ったんだ」


「わかってます。ジェロームの考えも、気持ちも……」


 シシリーは穏やかな眼差しで隣のジェロームを見つめた。父親の日記の内容から資料の隠し場所を探るのは、家族であり、思い出を共有するジェロームにしかできないことかもしれない。だからこそ果たす前に死ぬわけにはいかなかったのだ。期限が来れば自分が死ぬと同時に、領内全土にまで呪いは広がる。そうなれば死後も悪夢は続くだろう。これ以上父親の過ちの影響を広げないために、ジェロームは犠牲を生んででも、独りで解決するしかないと考えたに違いない。


「死神に、身代わりは家族に限定すると言われ、私はすぐに相手を探し、婚姻の手続きをした。私への疑惑も気にせず、結婚を喜ぶ相手には、罪悪感しか見い出せなかった。確実に死んでしまうと、わかっていたから……大したこともしてやれず、数ヶ月後に死なせてしまった」


 うなだれたジェロームはしばらく額を押さえるようにしていたが、ゆっくり姿勢を戻すと続けた。


「……自分がしたこととは言え、精神的に参りそうだった。だが進むしかなかった。再び相手探しをして、身代わりを立てようと思ったが、私への疑惑がさらに深まって難航した。そっちに手間が取られ、資料探しの予定がどんどん遅れ始めた。それでもどうにか見つけられ、結婚まで至ることができた。前回の反省を踏まえ、私は相手と極力係わらないようにした。そうすることで無関係のままでいられ、罪悪感が軽くなるように思えたんだ……」


 シシリーは胸の中ではっとする。


「私への態度は、そういうことだったんですね……」


 これにジェロームは自嘲した。


「ひどい男だろう。自ら身代わりを立てながら、その罪悪感から逃れようとするなど……。何も知らない相手は当然困惑していた。私に突き放され続けたことで疲れてしまい、自室にこもるようになった。だがこっちにとっては好都合だった。遅れていた予定を挽回する時間を得て、私は資料探しに励んだ。しかしある日、久しぶりに現れた彼女は、無言で台所へ行ったかと思うと、ナイフを握って自分の喉を突き刺そうとしたんだ」


「死のうと、したんですか……?」


 驚いて聞くシシリーに、ジェロームは暗い表情を浮かべる。


「私のせいで、うつ状態に陥っていたんだ……。自殺はすぐに止めたが、彼女から目を離すことができなくなった。自ら死なれては身代わりの意味はない。だがずっと側にいては資料探しは進まず、彼女もいずれ死なせてしまう。進退両難……どちらを選んでも、いい結果にはたどり着けそうになかった」


「ジェロームはどうしたんですか?」


「結局私は、彼女に身代わりの役目を果たしてもらうことを選んだ。うつからの回復を手伝いながら、自分を手にかけないよう見張り、その合間に資料の隠し場所を予測して探す準備を整えた。しかし彼女の状態がよくなった頃には、もう期限が目前だった。やっと資料探しを再開出来た直後に、彼女は部屋で、独り死んだ……」


 ジェロームは唇を噛み、うつむく。その姿を見ながらシシリーはある会話を思い出していた。朝食を食べてくれるきっかけになった時の会話で、素っ気ない態度のジェロームに死神はこう言っていた。以前を繰り返すことになる――それは、うつになってしまった前妻のことだったのだろう。このままではシシリーも同じ状態に陥ると心配し、話しかけてくれたのかもしれない。だがそれもすべては、資料集めを果たしてもらうための行動に過ぎない……。二人の間にはしばし沈黙が流れた。


「……わかっただろう。私はこんな男なんだ。騙して、身代わりにして、死なせる……卑劣なやつなんだ。無理に理解などしなくていい。互いのために、別れるべきだ……」


「お互いのため? 私が身代わりをやめたら、一体誰のためになるっていうんですか?」


「死の呪いにはかからないんだ。別の相手を見つけて、幸せに暮らすことも――」


「それは本気で言ってるんですか?」


 感情のこもった口調に、ジェロームは怪訝な視線を向けた。


「……このままでは、死んでしまうかもしれないんだぞ」


「私が助かれば、今度はジェロームが死んでしまいます。もしくは、新たな身代わりの方が……それを知りながら、幸せに暮らせると思いますか? お互いのためだなんて、本当に言えますか?」


「もういいんだ。私は、自分のしていることが恐ろしいんだ。これ以上、誰かが死ぬ姿を見るのは耐えられない……だから、いいんだ……」


 消え入りそうな声のジェロームにシシリーは手を伸ばすと、その肩をつかみ、こちらへ向かせた。


「あなたが諦めたら、呪いを回避する希望はなくなってしまうんですよ? 私達領民はそうなった時、成す術がないんです」


「では自ら犠牲になりたいとでも言うのか」


「はい。他の誰かが死ぬくらいなら、私はそう望みます」


 シシリーの真っすぐな群青の瞳を見つめ、ジェロームは言葉を失った。


「頭がおかしい、とでも言いたそうな顔ですね。でも事情を知ってしまったからには、今さら別れて逃げ出すことはできません」


「何を言っているんだ。逃げていいんだ。変に責任を感じる必要なんてない」


「そんなんじゃありません。私はジェロームを助けたいだけです。そのために身代わりが要るなら、遠慮なくこの命を使ってください。……本人がこう認めれば、罪悪感も少しは軽くなりますか?」


 そう言ってシシリーはうっすらと笑みを見せた。


「……私なんだ……」


 ジェロームはゆっくりとシシリーの両肩をつかみ、向き合う。


「悪いのは私で、死ぬべきなのも私だ。お前では絶対にない」


「それは違います。悪いのは前領主様の過ちで、死ぬべき人は誰もいません。ジェロームはただ重い荷物を背負わされてしまっただけ。それを放り出さずに、身を削りながら今も抱えてます。たった独りで……。孤独でいるのは、とても辛いことです。我慢しないで助けを求めてください。私に、できることをさせてください」


 シシリーの肩をつかむジェロームの手に、ぐっと力が入った。


「お前を、死なせたくないんだ……」


「私も、ジェロームを死なせたくありません」


 微笑んだシシリーを見て、ジェロームは華奢な体を強く抱き寄せた。


「こんなつもりではなかったのに……身代わりとして迎えたはずだったのに……」


「私は、あなたの妻じゃないんでしょうか?」


「こんな男の妻で、まだいたいのか?」


「もちろんです。やっと開いてくれた心に触れることができたんですよ?」


 ジェロームは身を離すと、微笑むシシリーを暗く見つめた。


「だが、妻でいれば死ぬかもしれない」


「そうですね。でも決まったことじゃありません。資料を集め終えれば、もう誰も死ぬことはなくなります。だから探しましょう。諦めず、最後まで」


 シシリーはジェロームの骨張った手を取り、優しく握った。それに応えるように、ジェロームの手も静かに握り返した。


「シシリー……」


「初めてちゃんと呼んでくれましたね」


 笑顔で言われ、ジェロームは少し決まりが悪そうに聞いた。


「どうしてそこまで、私の側にいようとするんだ」


「力になりたいから……こうして、あなたを助けて愛することが、きっと私の運命なんです。だから、ジェロームをもう孤独にはさせません。私が一緒にいます……」


 ジェロームはシシリーの穏やかな笑みを見つめる。冷たく接してきたというのに、彼女は離れるどころか、理解しようと努力し、ジェロームの隠した心情まで明かした。孤独に奔走してきたジェロームにとっては、まるで天から使わされてきたような貴重な存在に思えた。これほど他人のために身を投げ出せる者がいるだろうか。時間や金は出せても、自分の命を懸けられるなど、おそらくどこにもいないだろう。だからこそ死なせるわけにはいかなかった。もはやシシリーの命は、自分の命と同等か、それ以上のものだった。身代わりではあるが、守るべき存在でもあった。もう誰も死なせてはいけない。彼女を悲しい目に合わせてはいけない――ジェロームは心にそう誓うと、ぎこちなく微笑み、握っているシシリーの手をさらに強く握り締めた。

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