五話
館に来てから、もう一ヶ月が経とうとしていた。花の盛りは過ぎ、辺りには鮮やかな緑が増え始めていた。生き生きとした自然は幸せを表現するように、その勢いを頭上の太陽へ向けている。
当初はシシリーも、そんな生活を想像していた。おしゃべりをしたり、笑い合ったり、互いの気持ちを共有する――夫婦ならごく当たり前のことで、決して高望みはしていない。相手を思い遣り、助け合えれば、それで幸せであり、よかったはずだった。
しかし、現実はごく当たり前の生活すらできていなかった。ジェロームは相変わらず忙しそうで、朝から晩まで外出することが多く、時には帰らない日もあった。どこに行っていたのと聞いても関係ないの一言で済ませ、あとは自室にこもるばかりの毎日だった。一方のシシリーは留守を任され続けるが、訪問客などはまったくなく、家事をこなす日々を送るしかなかった。
シシリーとの食事を無駄な時間と拒むジェロームだが、気持ちを前向きに留めるシシリーは、それでも毎日の朝食を二人分作り続けていた。だが当然食べてくれたことはない。作ったと一声かけても、ジェロームはわずらわしそうに無視していく。こうも反応がないと、シシリーも正直へこたれそうだったが、そこは家事をしながら気分を紛らわせていた。
炊事も洗濯も、二人分ならすぐに終わり、大半は館内の掃除に時間を費やした。それを一ヶ月も続ければ、果てしないと思われた掃除の行程も、ようやく区切りが付けられる状態まで綺麗にすることができた。これで人に見せても恥ずかしくない家となり、これからは定期的に掃除をすれば問題はない。だが綺麗にするべき場所はまだ残っている。館を囲む庭だ。伸び切った雑草や落ち葉を取り除くには、これも相当な時間がかかることだろう。だが今のシシリーにはそんなことしかできることがないのだ。ジェロームが館に戻っても気分よく快適に過ごせるように……。そんな気遣いはいらないとおそらく言われるだろうが、それでもシシリーは自分にできることを続けるつもりだった。それが、シシリーなりの寄り添い方だった。
だが、ジェロームは妻の気持ちに応える様子は見せてくれない。口を開いても必要最低限のことしか伝えず、その心は未だに見えない。何を考え、どう思っているのか……そんなことすら教えてくれない。一体ジェロームにどう接すればいいのか。いつになったら心を開き、普通に話してくれるのか――シシリーの悩みは深まる一方だった。ジェロームも自分自身も疑いそうになってしまう。このままでいいのかと。
そんなふうに当初の覚悟が揺らぎそうになると、シシリーは決まって礼拝室にやって来る。神が浮かぶレリーフはもちろん、床、壁、窓の埃まですべて払われ、見違えるほど綺麗になった中で、シシリーは祭壇の前にひざまずき、手を組み合わせて祈りを捧げる。そうすることで自分の見失いそうな心と向き合い、落ち着かせることができたのだ。
「大丈夫、きっと、大丈夫……」
そして今日もシシリーは礼拝室で心を落ち着けていた。家事をしていても不安が紛れず、夕食作りの前にやって来たのだ。何も疑ってはいけない。自分の信念ならなおさらだ。いつかジェロームも心を開いてくれるはず。だから大丈夫――気休めに近いものではあるが、それでも神に祈ることでその教えを思い出し、膨れそうな不安を抑えることができた。
祈りを終え、目を開けたシシリーはゆっくりと立ち上がる。だがその瞬間、背後に冷たい気配を感じ、頭を振り向かせた。
「こんにちは……いや、こんばんはかな」
礼拝室の入り口に見知らぬ男性が立っていた。見た目はまるで紳士のような出で立ちで、身に着けているものはどれも品があり、上等そうに見える。深々とかぶった帽子の影で目元ははっきりと見えないが、微笑んだ表情は四、五十代と、シシリーよりも年上のようだった。
「どなたですか……?」
驚きを隠しながら聞くと、男性は口角を上げた。
「何度も会っているのだが……まあ、仕方がない」
そう言うと男性はおもむろに近付き、帽子の下からわずかにのぞく目でシシリーを見つめた。
「どうにもあなたの様子が気になってね。声をかけさせてもらった。最近、表情が暗いようだ」
「え……?」
シシリーは怪訝な目で男性を見る。その微笑んだ顔に見覚えはなく、そもそもこの一ヶ月間で顔を合わせた男性はジェロームだけで、館に誰かが訪れたこともない。最近表情が暗いと言われても、一体どこで見ていたというのか。
「あの、私と、会ったことが?」
「ええ。一昨日も少し……あまり思い詰めてはいけないよ。寂しい気持ちは私もよくわかる」
男性の同情する目と合った瞬間、シシリーは寒さに似た感覚を覚え、体を強張らせた。そしてすぐにこれが初めての感覚ではないのを思い出した。喪服の女性――あの時と同じだった。頭ではよくわからない気味の悪さ。これ以上は近付きたくない本能的な何か……。
『すべて無視するんだ。ここでは私以外と話すな――』
はっとしたシシリーは無意識に後ずさっていた。ジェロームの言葉に従うなら、この男性も話してはいけない相手なのだ。そしておそらく、喪服の女性と同じ、得体の知れない存在なのだろう。そんなものが二人もいるとは……。
「……おや? まだ話の途中なのだが」
強張った顔を伏せたシシリーは何も言わず、男性の横をすり抜け、足早に礼拝室を出た。廊下を進み、階段まで来てから恐る恐る振り返ってみる。だがそこに男性の姿はなかった。追って来る気はないらしい。ほっと胸を撫で下ろし、シシリーは静かに階段を下りて行く。それにしても、彼らは一体何なのだろうか。喪服の女性は一度会ったきりで、あれ以来見ておらず、どこかで安心していたところもある。それなのに今度は初老の紳士……増えては安心するどころではない。危害を加えてくる素振りは見せていないが、だからと言って無害な存在とはまだ言えない。どうせ現れるなら黒猫のような可愛らしい動物のほうがまだましだ。その黒猫は頻繁にシシリーの前に現れ、何をするでもなく、ただ歩いていたり座っていたりするだけなのだが、遠くから眺めるだけでもシシリーの気持ちを和ませてくれる存在となっていた。しかしそんな微笑ましい黒猫も、気味の悪い二人と同様、正体は謎なのだ。猫だからと気を許してはいけない。この館には、確実に得体の知れないものがいる――
「急いでどこへ行くのだ」
声に視線を向ければ、階段の下、玄関広間に、二階にいたはずの男性がにこやかに立っている姿があった。シシリーは面食らい、足を止めかけたが、顔を伏せ、そのまま階段を下りて行った。
「話をする時間くらいはあるだろう」
すれ違いざま、男性は話しかけるが、シシリーは構わず先へ進む。
「私が見るに、あなたは悩んでいるのではないかな」
無視をするシシリーの後ろを、男性は付いてくる。
「話してくれれば、多少なりとも力になれると思うのだが」
自分が悩んでいることを知っている男性に、内心動揺しそうなシシリーだったが、それを顔には出さず、真っすぐ廊下を進み、台所に入る。
「たとえば、領主について教えることもできるぞ」
灯りを付けようとしたシシリーだったが、男性の言葉に思わず動きを止めた。
「……ジェロームの?」
ゆるりと振り向いたシシリーに男性は微笑む。
「ここで領主と呼ばれるのは、彼だけだと思うが?」
男性と目が合い、シシリーは慌てて顔をそらし、灯りに意識を向けた。話してはいけない相手だ。無視しなければ――そう思っても、興味の引かれる言葉に耳だけは傾いてしまう。
「悩みを長く抱えるのは体によくない。人生は意外に短いものだ。残された時間は明るく健やかに過ごすべきだ。そう思わないか?」
シシリーは黙ったまま、台所の燭台に火を灯していく。
「私はあなたの悩みを解決したいと言っているのだよ。彼について教えられることはあると思うのだが」
かまどに火を起こしたところで、気持ちを抑えられなくなったシシリーは男性と向き合った。
「ジェロームのことを、よく知ってるんですか?」
「それなりには」
少しためらいがちに、だが意を決してシシリーは聞いた。
「領主のお仕事というのは、毎日出かけなきゃいけないほど忙しいものなんでしょうか。私と話す時間もないくらいに……」
すると男性は静かに笑った。
「ふっふっ……彼が出かけるのは、領主の仕事のためだと思うのですか?」
「私は、そういうことはよくわからなくて……違うんですか?」
「忙しい領主はいるでしょうが、それでも毎日のように出かける者は、相当な遊び好きか、家庭を顧みない浮気者でしょう」
「浮気者……? それじゃあジェロームは――」
「早とちりはいけない。私はそういう意味で言ったわけではないよ。幸い、彼は例外だ」
シシリーは胸の中で、ほっと安堵した。
「例外ということは、あなたはジェロームがどこへ行ってるのか、知ってるんですね」
「ええ。知っています」
男性は帽子の下で薄い笑みを浮かべた。
「教えてくれませんか? 毎日のように、一体どこへ行って何をしてるんでしょうか」
真剣に聞くシシリーを見つめながら、男性はおもむろに聞いた。
「それを知らないことが、あなたの悩みなのか?」
「私は、ジェロームのことを何も知らないんです。話で聞いたこと以外は……。結婚をして妻になったけど、夫の考えも気持ちも、まったくわかってません。向こうはそれでもいいみたいですけど……でも私は、距離が開いたままにはしたくないんです。ジェロームのために何かしてあげたいんです。そう決めて私はここに来たのに……」
まるで必要とされていない――その言葉をシシリーは言えなかった。たとえ自分が発した言葉でも、ひどく胸に迫るものだった。
「そうですか……」
男性は一人納得したように頷く。
「表情が暗かったのは、やはり寂しさを抱えていたからか……思い詰めさせる態度は取るなと注意したはずなのだがな」
「ジェロームに、そんなことを言ったんですか?」
「いやこれは、あなたが来る以前の話だ。それはいいとして、彼が出かけて何をしているかだが――」
シシリーはじっと男性を見た。
「残念ながらそれを私の口から言うことはできない」
「どうしてですか? 言えないようなことをしてるわけじゃないんでしょう?」
「もちろん。彼は今もがき、努力している最中だ。だが何をしているかは私から言うべきではない。それを知るなら彼自身の口から聞かせてもらうべきだろう。ただわかってほしいのは、言ったように彼は日々身を削りながら努力をしていることだ。それははっきりと言おう。そこにあなたが協力できることもあるかもしれない」
「私の力が役に立つなら、ぜひそうしたいけど……ジェロームは構われることを嫌ってます。協力を申し出ても、きっと聞いてもくれません」
「何度も言ってみればいい」
「駄目だと思います。無視をされるだけだと……」
「無視をされるから諦めるというのか? 構うなと言われたからそれに従うのか? あなたは夫の努力する姿を、ただ傍観し続けたいのか?」
これにシシリーは恨めしい目を向けた。
「そんなわけありません。私はジェロームの力になりたいとずっと思ってます。でもこっちを見てくれない相手に、どうやってそれを受け入れてもらえばいいんですか。わからないんです。何もわからないんです……」
調理台に寄りかかると、シシリーは力なくうなだれた。
「どうして私を妻に選んだのか……愛されてるのか……そんなことすら……」
不安と悲嘆がシシリーの胸に渦巻く。本心を吐露したことで、気持ちがまたくじけそうだった。
そんなシシリーに歩み寄った男性は、顔を近付けると不敵な笑みを見せた。
「寂しさと悲しみに耐えられないのなら、私の元へ来るか?」
え? と顔を上げたシシリーに、男性は笑みを崩さずに言う。
「妻や恋人になれという意味ではないぞ。私にそんなものはいらないからな。このまま悩み続け、自ら辛い最後を選ぶよりは、私の手の中で安らかに眠ったほうがまだ幸せというものだろう」
男性の近い顔を凝視しながら、シシリーは本能的に後ずさりする体を調理台に押し付けていた。
「眠るって……どういう、意味ですか?」
「思っている通りの意味だが? 人間は死ぬことを眠るとも言うだろう。なかなかいい表現だ」
「私を、殺す、ということ……?」
シシリーの引きつった表情に、男性は優しく笑いかける。
「怖がる必要はない。今はそんなことはしないよ。だが、あなたがそれを望むなら、私は喜んで案内をしよう。まあ、望まずとも、いずれその時が来るかもしれないがね」
男性はにやりと笑った。
「何で、そんな、怖がらせるようなことを……」
「怖がらせるためではない。私は現実を言っているだけだ」
「現実……?」
怯えながらも、シシリーの頭には思い出されることがあった。喪服の女性の言葉だ。
『亡くなるのは、あなたなのだから』
それはただ単に脅かしてからかっているだけのものと思っていた。しかし似た存在である男性もシシリーの死をほのめかしている――調理台に触れている手に、嫌な汗が滲んでいた。
「前にここで会った、喪服を着た女性も、私が死ぬようなことを言ってました。どうして私が死ぬと、思うんですか……?」
男性は微笑んだまま口を開こうとした――がその瞬間だった。
「おい、勝手に何を話している」
張り詰めた空気を切り裂くように、ジェロームの語気の強い声が響いた。
「……おや、今日は珍しく帰りが早かったのだな」
男性はゆっくり振り向き、台所の入口に立つジェロームを見た。そんな相手をいちべつし、ジェロームは次にシシリーを見やる。
「誰とも話すなと言ったはずだ」
睨まれ、シシリーは目を伏せる。
「ごめんなさい。わかってたけど、つい……」
「責めてやるな。お前の妻は、お前に愛されているのかと思い詰めていたのだぞ」
「あっ……そ、それは……あの……」
いきなり悩みを明かされ、シシリーは口ごもりながら視線を泳がせる。
「二度も同じことを繰り返したくないのなら、妻のことも気にかけるのだな」
これにジェロームは男性をじろりと見る。
「貴様に助言されなくてもわかっている」
「わかっているだけでは駄目だぞ。言葉や行動で見せなければ――」
「黙れ」
睨まれた男性は肩を軽くすくめると、台所の隅へ下がって行った。
「ジェローム……」
シシリーが気後れしながら呼ぶと、その側までジェロームは歩み寄って来た。
「……何だ」
「私は、あなたに構いたいんです。でも邪魔はしたくありません。おはようとか、行ってらっしゃいとか、今日庭でツバメの巣を見つけたとか、そんな些細な会話だけでも、してくれないでしょうか……」
うつむき加減に言うシシリーをジェロームは見つめる。
「何のために」
「何のって……結婚をして、同じ家に住んでるのに、他人のようにはいたくないからです」
「顔は合わせるんだ。会話など必要は――」
「必要です。いつも私が一方的に話しかけるだけで、ジェロームは返事もしてくれない……。それだとあなたの気持ちがわからないんです。私に、ジェロームのことを教えてください」
「だから、必要ない」
「毎日のように出かけるのは、日々身を削りながら努力してるからだと聞きました。私にも協力できることがあるかもしれないって……」
これにジェロームの鋭い視線が傍観する男性に向いた。男性は平然と笑みを返すだけだった。
「できることは手伝わせてくれませんか? ジェロームのために何かしたいんです」
困惑したようにジェロームは溜息を吐く。
「それは以前に話したはずだ。できることはない」
「本当か? お前のしていることは、人手があったほうがいいように思えるが」
「貴様は口を出すな」
低い声で凄まれ、男性は仕方なさそうに口を閉じた。
「どうして、私に何も求めてくれないんですか?」
「ここにいてくれるだけで十分だからだ。それ以上、こっちが求めることはない」
「何もしないで、ここにいるだけでいいなんて……私は人形じゃないんです。あなたの妻なんです」
「辛いことを強いているわけではない。好きなようにしろと言っているのに、なぜそれじゃ駄目なんだ」
シシリーは眉をひそめ、ジェロームを見据えた。
「それが、私にとっては辛いんです。会話もなく、一人で放って置かれるなんて……私達は夫婦のはずです。夫婦は、苦楽を共にするものです。楽しいことも、苦しいことも、私に教えてくれませんか? ジェロームの心の、ほんの片隅にでも、寄り添わせてもらえませんか?」
「ふっふっ、今回は随分と健気な妻を迎えたものだな」
楽しげに笑う男性の声も気付かないのか、ジェロームは呆然とシシリーを見つめていた。
「私とお前は、夫婦である以外には何のつながりもない。それなのに、なぜ割り切ろうとしない? こういう相手なのだと諦めれば楽になれるというのに」
「ジェロームは、私に諦めてほしいんですか?」
「………」
そうだと言うつもりが、その口からは何も出て来なかった。シシリーの真っすぐな群青の瞳が、ジェロームの言葉を躊躇させていた。
「悪いですけど、それはまだできません。だってジェロームは、私に心を開いてくれてませんから。何も理解してないうちに諦めるなんて、できません」
「理解などしてもらわなくていい」
「私が理解したいんです。……迷惑ですか?」
ジェロームは口ごもった。
「そういう、問題では……」
「妻の思いはこれでわかっただろう。……ジェロームよ、これほどの強い思いはさすがに無視できないのではないか?」
男性はジェロームの横に並び、笑みを浮かべる。
「強かろうと何だろうと、何も変えることは――」
「先ほどの助言まで無視するのか? お前が構うなと言い続ければ言い続けるほど、妻の悩みは深くなるのだ。そうなれば以前を繰り返すことになるとわかっているだろう」
「……くっ……」
奥歯を噛み締めたジェロームは、額に手を置き、長い前髪を握りながら考え込む。しかめた表情は苦悩しているようにも見えた。だがしばらくすると手を下ろしたジェロームは、シシリーを見据えて言った。
「……私にはやることがあるんだ。無駄にできる時間はない」
いつも通りの言葉に、シシリーは胸の中で落胆する。
「だが、そんなに何かしたいと言うのなら、朝……朝食時に少し、時間を作る」
「……え?」
耳を疑ったシシリーはジェロームを見た。その顔はどこか苦しげで、困っているような様子でもあった。
「何の味付けもないパンや肉ばかりでは、さすがに飽きてきたからな。明日から……私の分も用意してくれるか」
「え、ええ! 朝食はいつも二人分を用意してるんです。任せてください」
わずかにだが、ジェロームが自分に近付いてくれたことに、シシリーは満面の笑みを浮かべた。くじけそうだった心には、じわじわと嬉しさが湧き始める。
「それなら朝だけと言わず、これから作る夕食も――」
「必要ない。朝食だけでいい……頼んだぞ」
そう言うとジェロームは背を向け、台所を出て行った。それを残念そうに見つめるシシリーだったが、焦ることはないと言い聞かせ、小さな変化にひとまず喜んだ。
「……あの、ありがとうございます」
男性に向き直り、シシリーは礼を述べた。気味の悪い相手だが、相談していなければ、おそらくジェロームがここまで言ってくれることはなかっただろう。シシリーは素直に感謝をした。
「私に礼を言うことはない」
「あなたのおかげで朝食を食べてくれることになったんです。お礼くらい言わせてください」
これに男性は口角を上げ、言った。
「ふっ……そんなことを言うと、後悔するだけかもしれないぞ」
不敵な笑みを残し、男性は廊下へと出て行くと、その姿を一瞬のうちに消してしまった。それは喪服の女性の時とまったく同じ光景だった。シシリーは寒いものを覚えたが、それはほんのわずかな間で、喜ぶ気持ちはすぐに明日の朝へと向けられた。
「……ともかく、明日が楽しみだわ」
待ちきれない気持ちを笑顔に浮かべ、シシリーは夕食作りに取り掛かるのだった。
そして夜は明け、待っていた朝がやってきた。
普段よりも少し早く起きてしまったシシリーは、献立をきっちりと考えると、時間を持て余すことなく、丁寧に二人分の料理を作った。いつもは台所で食事を済ませてしまうが、今日からは二人での食事ということで、料理を食堂へ運び、机の上を綺麗に整える。これで準備は済んだ。あとはジェロームが来るのを待つだけだ。シシリーが椅子に座り、外から聞こえる鳥の声を聞きながら静かに待ち続けること数分――
「……わざわざここに運んだのか。台所でもいいというのに」
少し戸惑う様子でジェロームが現れ、シシリーは安堵と喜びの表情で迎えた。
「おはようございます。お口に合うといいんですけど……。さあ、座ってください」
自分の正面の席へ促し、シシリーは二つのコップに水を入れ、一つを差し出す。
「苦手なものがあったら言ってください。味のほうもできれば……」
何せジェロームの好き嫌いは何もわからないのだ。言ってもらわなければ好みの料理を出すこともできない。朝から嫌いなものを出されては気分もよくないだろう。席に着き、フォークを手にしたジェロームを、シシリーはどきどきしながら見つめていた。
今日の朝食は、潰したじゃがいもと煎り卵にベーコンを添えたものと、燻製の魚と野菜を合わせた二品の料理だ。ジェロームはまずじゃがいもを口に運んだ。次に煎り卵、ベーコンと食べていく。声にも表情にも出さない様子に、シシリーはたまらず聞いた。
「どうですか……?」
握り合わせた手に力を入れ、不安そうに見るシシリーに、ジェロームは口の中のものを飲み込んでから答えた。
「いい味だ」
その瞬間、シシリーは嬉しさに目を見開いた。
「美味しいってこと、ですか?」
「ああ。まともな料理を食べたのは久しぶりだ」
今までどれほど食に無関心だったかは知らないが、シシリーは胸を撫で下ろす。
「よかった……あの、私はこういう質素な味が好みなんですけど、ジェロームもそうですか?」
「そうだな……濃い味付けよりはいい」
「そうですよね。やっぱり食材の味がわかったほうが美味しいですよね。でも私は昔から内臓を使った料理が苦手で……。ジェロームはそういうものありますか?」
「特にない。あれば何でも食べる。腐ったもの以外はな。……話してばかりいないで、お前も食べたらどうだ」
「ええ。そうします」
笑顔で答え、シシリーもフォークを握る。その正面で自分の作った料理を食べ続けるジェロームを見ながら、最初の一口を噛み締めた。これが当たり前の光景なのだ。だがシシリーにとってはようやく得た小さな幸せだった。
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