六話
二人揃っての朝食の時間は、今も変わらず続けられていた。そこで味の感想を言ったり、一日の予定を聞いたり、短い会話ならできるようになっていた。だが変わったのはそれだけだった。ジェロームはそれ以上の話をしようとはせず、またシシリーが聞いても答えることはなかった。相変わらず素っ気ない言動は妻を近付けさせず、やはり避けているようでもあった。朝食を食べてくれたことは心を開いてくれたことには違いない。しかしそれは打ち解けたと言えるほどのものではないのだとシシリーは改めて自分に教えなければならなかった。
朝食作りもジェロームのためにはなっているのだろう。その証拠に、出された料理は毎朝残さず綺麗に食べ切ってくれていた。それを見るたびにシシリーは役に立てていると喜んだ。だが同時に、自分にはまだできることがあるのではとも思っていた。その理由は帽子の男性の言葉だ。ジェロームは身を削りながら努力をしている。そこに協力できることがあるかもしれない――それを信じれば、シシリーはまだジェロームのために力になることができるのだろう。どういった形でかはわからないが、少なくとも朝食作りではないはずだ。もっと直接的な、ジェロームが行っていることへの協力。シシリーはそれを望んでいた。しかし何をしているかすら教えてくれない現状では、どんなに言っても必要ないの一言で終わってしまうだろう。それを乗り越えるには、まだまだジェロームの心を開かせなければいけないのだろう。シシリーの悩みは続く……。
穏やかだった日差しは日に日に肌を突き刺すような強いものに変わり、そのせいで熱のこもった館は窓を開けている時間が多くなった。鳥よりも虫の声がうるさく響き、あらゆる命が盛大に輝く時節となっていた。
外の景色は移り変わっても、シシリーのすることは変わらない。洗濯をし、掃除をし、庭の手入れをする。基本その三つを繰り返す毎日だった。そして今日もシシリーは玄関前で草むしりをしていた。
飴色の髪を結い上げ、袖のないワンピース姿は、いかにも涼しげな格好ではあるが、それでも照り付ける日差しは容赦なく体力を奪っていく。なのでシシリーは無理をせず、こまめに日陰で休みつつ続けていた。その脇には抜いた雑草の山がこんもりと出来上がっていた。今日の分だけでもかなりの量がある。こう暑い日が続くと、雑草の成長も著しい。少しでも目を離せば、すっきりし始めた庭も再び草むら状態に戻ってしまうだろう。額に滲む汗を拭い、シシリーは美しい庭を目指して黙々と草をむしっていく。
「……シシリー?」
うるさい虫の声に混じって自分の名を呼ばれた気がして、シシリーは背後に振り向く。と、そこにはよく見知った二人の姿があった。
「……ハルに、キャス!」
驚きながら立ち上がったシシリーは手に付いた土を払い、二人に駆け寄った。
「久しぶりね。一体どうしたの?」
「シシリーの様子を見に来たに決まってるでしょう。……思ったより元気そうでよかった」
ハリエットは安心したように笑う。
「思ったよりってどういうこと? 私が落ち込んでるとでも思ってたの?」
「だってお相手が……まあ、ここで言うことでもないわね」
「ずっと心配してくれてたの? ふふっ、大丈夫よ。どうにか上手くやってるわ」
悩みがあるとは言えないシシリーは、笑顔を作り笑って見せた。
「中に入って。暑かったでしょう?」
シシリーは二人を玄関へ促す。
「じゃあ、ちょっとだけ。……そうだ。キャス、それ渡さないと」
ハリエットに言われ、キャスバートは慌てて持っていた包み紙を差し出す。
「ああ、これ、うちで作ったチーズ……お土産だ」
「わあ、ありがとう! このチーズ、すごく美味しいのよね。料理に使わせてもらうわ」
「ところで、シシリーはこんな暑い中で、何してたの?」
「え? 草むしりよ」
これに二人は怪訝な顔になる。
「草むしり? 領主様の奥様が、自ら?」
「まさか、やらされてるの?」
不審な目の二人に、シシリーは笑う。
「そんなんじゃないわ。これは私がやりたくてやってるだけ。見ての通り、綺麗な庭とは言えないから、少しずつ手入れをしようかと思って。……さあ、話は中でしましょう」
二人の背中を押し、シシリーは館内に入った。
「……やっぱり、領主様の住むところは立派ね」
ハリエットは壁や天井の造り、置かれた調度品などを見回しながら感心したように言う。
「でも、少し殺風景な気もするけど」
同じように見回しながらキャスバートが言った。
「ジェロームはそんなに美術品とかには興味ないみたいで、部屋にはいっぱいしまわれてるんだけど、飾る気はないみたい」
「ふーん、廊下に絵の一つでもあれば、ちょっとは華やかになりそうなのに」
「たくさん飾っても、私だけじゃ手入れが行き届かないし」
これにハリエットが首をかしげた。
「そういうことって使用人がするものじゃないの?」
聞かれたシシリーは苦笑いを浮かべる。
「使用人は、いないの。前に起きたことで、募っても誰も来たがらないから……」
「じゃあ、ここにはシシリーと領主様しか住んでないの?」
うん、とシシリーは頷く。厳密に言えば人以外のものもいるが、それを二人に教える理由はなかった。
「だから、庭の草むしりを……」
キャスバートが心配そうにシシリーを見た。
「だからそれは、私がやりたくてやってるだけよ。ジェロームに何かやれなんて言われたことないんだから」
廊下を進み、シシリーは応接間に入った。
「座ってて。冷たいお茶を持ってくるわ」
「私も手伝う」
「平気よ。歩いて来て疲れてるでしょう? 待ってて」
ハリエットを制し、シシリーは一人台所へ向かった。
「……本当に、上手くやってるのかな」
キャスバートはソファーに腰かけながら言った。
「何で? 強がってるとでも言うの?」
ハリエットもその隣に座った。
「だって、領主様と二人きりってことは、ここの家事仕事はシシリーに任されてるってことだろう? 本来なら使用人がやることをシシリーがやらされてる」
「仕方ないじゃない。二人しかいないんだから。それに本人は自らの意思でやってるって言ったわ」
「本当にそう思うの?」
「シシリーを疑いたいの?」
じっと見るハリエットを、キャスバートは真剣な目で見返す。
「疑うのはシシリーじゃない。領主様だよ。使用人が集まらないから、妻にしたシシリーをその代わりにしてるんじゃないかって思うんだ」
「代わりって……シシリーは妻としてやるべきことをやってるだけじゃない」
「広い庭の草むしりが、領主の妻のやることか? ふつうなら庭師がやることだろう」
「皆、過去の事件を怖がって来てくれないんでしょう? それを見兼ねてシシリーは手入れをしようとしてるだけよ。……ねえキャス、心配する気持ちはわかるけど、私はシシリーの言葉に嘘や強がりは感じなかったわ。本当に上手くやってるのよ」
「どうだろう……もっと話を聞けば、わかるかもしれない」
キャスバートは膝に腕を付き、険しい表情でうつむく。その様子を見てハリエットは小さな溜息を吐くのだった。
「お待たせ」
しばらくすると、盆にティーセットを載せてシシリーが戻って来た。それを机に置き、二人のティーカップに紅色の茶を注ぐ。
「うわ、すごい色のお茶ね。どんな味がするの?」
ハリエットは物珍しそうに注がれた茶をのぞき込む。
「苦味の中にちょっと甘味が混じった感じ。見た目はこんなだけど美味しいのよ。飲んでみて」
二人はティーカップを持ち、口を付ける。ごくりと飲んだ冷たい茶が喉へ流れ込んでいく。
「……うん、本当ね。最後に甘味が残って美味しい」
「こんなお茶、初めて飲んだよ。町で買ったの?」
「さあ……もともとあったものだから、私もよく知らなくて」
笑みを見せ、シシリーは二人の向かいのソファーに座る。
「村のほうはどう? 何も変わりはない? お父さんも教会で元気にしてる?」
「ディクソンさんは至って元気で変わりないわ。他もいつも通り、平和そのものよ。それがヨーヌ村の特徴みたいなものだからね」
「それって褒めてるの?」
そう聞いたキャスバートをハリエットは横目で見やる。
「半分はね。もう半分は退屈って言ってる」
「平和ならいいじゃない」
シシリーはにこにこと笑う。
「村を出て環境が変わったシシリーはいいけど、ヨーヌ村にずっといたって、何もやることないんだから。平和過ぎるのも問題なのよ」
「じゃあ町へ行ったら? メートンならそこまで退屈しないでしょう?」
ハリエットはすかさず首を横に振る。
「村から遠過ぎる。行って帰ってくるだけで半日以上だもん。しょっちゅう行ける場所じゃないわ」
「それなら、こうしてたまに私とおしゃべりするのは? それも物足りない?」
「そんなことないけど……でもいいの? 領主様のお邪魔になるでしょう?」
「大丈夫よ。ジェロームはそんなことで文句を言ったりしないと思うから」
笑顔で言うシシリーをうかがいながらキャスバートは聞いた。
「ところで、その領主様は今日はどちらに?」
「ジェロームは二階の自分の部屋にいるわ」
これに二人はわずかに驚く。
「え、ご在宅だったの?」
「挨拶とか、したほうがいいのかな……」
そわそわする二人にシシリーは微笑む。
「しなくても平気よ。そんなことしたら逆に怒られると思うし」
「どうして? 挨拶されるのが嫌いなの?」
聞かれたシシリーは、その笑みを曇らせた。
「嫌いというか、人に構われることが好きじゃないみたいで……こうして家に一日いるのも珍しいことなの。いつもは朝から夜まで、どこかに出かけてることがほとんどで……」
「領主様って、そんなに忙しいの?」
シシリーは力なく笑う。
「わからない……どんなお仕事をしてるのか知らないから……」
二人は互いの顔を見合わせる。何か穏やかではない空気を感じていた。
「……領主様と話はしてるんでしょう?」
「ちょっとだけ……あまり話したがらない人だから」
苦笑したシシリーを見て、ハリエットは隣のキャスバートに目をやる。その顔は先ほど見せた険しい表情になっていた。
「シシリーは、本当に領主様の妻なのか?」
「え……?」
丸い目に見つめられ、キャスバートは頭をかきながら言う。
「いや、妻には違いないんだけど、話を聞いてると夫婦だっていうのに、何ていうか、そんな感じがしないっていうか……」
シシリーは悩みを指摘されたようで、内心どきりとしたが、すぐに笑みを作って言った。
「確かにそうかもね。でも結婚してからまだ半年くらいしか経ってないし、お互いが完全にわかり合うにはもう少し時間が――」
「幸せなのか、シシリー」
真面目な顔で突然聞かれ、シシリーはまごつきながら答えた。
「え、ええ……とても、幸せよ」
「本当に? 一人で悩んだり、孤独だったりしない?」
「心配ないわ。私にはジェロームがいるから」
そのジェロームを疑ってるんだ――キャスバートは鋭い視線をシシリーに向けた。
「でも領主様とはそんなに話せないんだろう? シシリーといる時間も少ないみたいだし」
「それは仕方ないわ。お仕事があるから」
「部屋にいる今日も? 領主様に休日ってあるの?」
「さあ、それは……」
シシリーは戸惑いを見せる。
「そんなことも教えてくれないって……やっぱり何か変だよ。領主様はシシリーを体よく使ってるだけなんじゃないのか? 妻に迎えておきながら、使用人の役目を押し付けて――」
「違うわ。家事も庭の手入れも、私が進んでやってることよ。ジェロームはむしろやらなくていいって言うくらいで――」
「シシリーはそそのかされてない? お人好しに付け込まれて、ひどい扱いを受けてることに気付いてないんじゃないの?」
「館内の仕事をすることがひどい扱いだって言うなら、キャス、それは大きな勘違いだわ。私は領主の妻として楽な暮らしがしたいから結婚したんじゃない。不幸が続いたジェロームの心に寄り添い、力になりたかったから結婚したの。家事も庭の手入れも、私の中ではその一環なの。確かに大変だけど、決して辛いことじゃないわ」
否定され、キャスバートは少し語気を強めて言う。
「やらなくていいなんて言われても、結局やるのがシシリーの性格なんだ。領主様はそれを知ってわざとそんな――」
「キャス、シシリーはやりたいからやってるって言ってるでしょう。それでいいじゃない」
ハリエットに止められ、キャスバートは不満げに見やる。
「ハルも気になるだろう? 領主様はシシリーをないがしろに扱ってる。それを許せるのか?」
「言い過ぎよキャス。……ごめんねシシリー、失礼なこと言っちゃって。キャスはずっとあなたのことが好きだったから、過剰に心配しちゃうのよ」
「なっ、何を、急に……!」
大声を上げてうろたえるキャスバートは、その耳を急激に赤らめた。
「シシリー、ち、違うから。これは、ハリエットの冗談で、真に受けなくて、いいから……」
うつむきながら言うキャスバートにシシリーは笑いかけた。
「何が違うの? 私だってキャスとハルのこと、今までもこれからも大好きよ」
好きという言葉を、また別の意味にとらえたらしいシシリーに、キャスバートは呆気にとられた。
「ふふっ……そうよキャス、一体何を恥ずかしがることがあるの?」
にやついたハリエットはからかうように言った。それにキャスバートは感情を込めてねめつける。シシリーの反応を予想して言ったのか、はたまた好意に気付かなかっただけなのか。どちらにせよ、恥ずかしい思いをしなくて済んだとキャスバートは安堵した。
「……その、僕はただ、シシリーが結婚して、本当に幸せにやってるのかどうか、心配で……それをわかってほしいんだ……」
「もちろんわかってる。キャスの気持ちはとっても嬉しいわ。でもそこまで心配しなくても大丈夫よ。過去のことでジェロームによくない印象を持ってるかもしれないけど、何も怖い人じゃないから。ちょっと素っ気ないけど、仕事に真面目な人ってだけよ」
「結婚前はかなり心配したけど、今は本人がそう言うんだから、信じましょうよ、キャス」
ハリエットに言われ、キャスバートは渋々な顔で小さく頷いた。
「まったく、あなたはシシリーのことになると、本当に心配性ね。もっと明るい話題に変えるわよ」
「何か面白い話でもあるの?」
期待するシシリーにハリエットは笑顔を向けた。
「そうなのよ。ついこの間ね、村で――」
話し始めた時だった。
「おい、そいつとは話すなと……」
突然聞こえた低い声に三人は入り口へ振り向く。と、そこにはコップを持って立つジェロームの姿があった。
「あ、ジェローム」
呼んだシシリーと目が合い、ジェロームは少しばつが悪そうに表情を歪めた。
「……すまない、やつと話しているのかと……。客か?」
「ええ。ハリエットとキャスバート。私の幼馴染みなんです。わざわざ会いに来てくれて」
紹介された二人は慌てて立ち上がると、軽く会釈をした。
「は、初めまして……」
緊張気味にハリエットは挨拶をする。それをジェロームは無表情で見やる。
「お邪魔させてもらってます」
「来たのならゆっくりしていけばいい。だがそっちの都合でいきなり来られても困る」
「え、そ、それはごめんなさい。じゃあ次からは約束して――」
ジェロームはハリエットの言葉を聞き終えないうちにシシリーへ目を向けた。
「私は館に、あまり客を入れたくない。必要のないことはするな」
これにシシリーは困惑を見せる。
「二人の前で、そういう言い方は……」
「とにかく、それは言っておく」
いちべつしたジェロームは廊下へ歩き出そうとする。
「あ、待って。お茶を飲みたいならここに――」
ジェロームが握るコップを見て、シシリーは咄嗟に言った。
「もう水を入れてきた。……私に構うな」
言い捨て、ジェロームは立ち去って行った。困惑顔で見送るシシリーにすれば、これはいつものことで、ひどく落ち込むようなことではなかったが、初めて二人の日常を垣間見た友人達からすれば、ジェロームの態度は何の愛情も気遣いもない、自己中心的なものとしか感じられず、二人は呆然とするばかりだった。
「……領主様って、普段もあんななの?」
驚きを隠せないまま、ハリエットは聞いた。
「うん……だけど、いつもはあんな注文してこないのよ? 今日は二人がいたから――」
その時、キャスバートが黙ってソファーを離れたかと思うと、そのままジェロームを追うように廊下へ出て行った。
「ちょっと、どうしたの? キャス」
呼んでも止まらないキャスバートを不審に思い、ハリエットとシシリーはその後を追った。
「待ってください」
廊下に出ると、キャスバートは先を歩いていたジェロームを呼び止めていた。
「……何だ」
わずらわしそうな目を向けられ、キャスバートは怯みかけた気持ちを強く持ち、言った。
「僕達が、その、勝手に来たことは悪かったと思いますけど、ここに客を呼ぶなっていうのは、言い過ぎじゃないですか……?」
「呼ぶなとは言っていない。館に入れたくないと言ったんだ」
「ほとんど同じ意味です。それに、僕達とシシリーが会うのは必要ないことって……それはあなたの価値観であって、シシリーに押し付けることじゃないと思います」
ジェロームはキャスバートをじっと見据える。
「友人で幼馴染みだから、その気持ちはすべて理解していると言いたいのか」
「シシリーを使用人扱いしてるあなたよりは、そうだと、思ってます」
ジェロームは眉をひそめ、その視線を廊下の奥に立つシシリーに向けた。
「キャスバート、やめて。私はそんなふうには思ってない」
シシリーの声にキャスバートは振り向く。
「だって、そうとしか思えないよ。シシリーは大事にされてない。結婚だって形だけにしか見えないよ。シシリーが幸せそうには全然見えない……」
「友人というのは、幸せに暮らしているかどうか、そこまで口出しできるものなのか?」
鋭い視線を受け止めながらキャスバートは言う。
「ひどい扱いを受けてれば、助けるのが友人だ……!」
力のこもった言葉に、ジェロームは暗い眼差しを返す。
「そうか。助けるか……」
独り言のように呟くと、その表情は苛立たしげに変わった。
「だがそんなことは頼まれていないようだが? 思い込みで判断されてはいい迷惑だ。たとえ君の言うようなことがあったとしても、それは私達の問題だ。他人が夫婦の関係に無闇に入り込むな」
「他人だけど、ゆ、友人なんだ。言えないことを代わりに言って何が――」
「キャスバート、もういいわ。もう、いいから……」
シシリーは駆け寄ると、キャスバートの肩を引いて止めた。
「……ジェロームも行ってください。その、何も気にせずに……」
気まずさを隠すように笑うシシリーをジェロームはいちべつすると、何も言わず廊下の先へ消えて行った。静けさが広がった中で、ハリエットの溜息の声が響く。
「……キャス、あなた本当にどうしちゃったの? 領主様に食ってかかるなんて」
呆れ顔のハリエットに、キャスバートは複雑な表情を浮かべる。
「自分でも、よくわからない……だけど、シシリーのために、言わないとって思って……」
その胸の鼓動は早鐘を打つように、未だにドクドクと大きな音を鳴らしていた。ジェロームと対峙した緊張がキャスバートの中でまだ続いていた。
「シシリー、ごめんね。こんなことを話しに来たわけじゃないのに……」
申し訳なさそうなハリエットに、シシリーは笑顔を見せた。
「こっちこそ、ジェロームがもう少し愛想がよければよかったんだけど、嫌な思いをさせちゃったわね」
「違う違う、嫌な思いをさせたのはキャスバートのほうよ。……ほらキャス、シシリーに謝りなさい」
ハリエットはうつむくキャスバートの背中を押し出す。
「ご、ごめん。出過ぎたことして……」
「気にしないで。キャスの気持ちはとっても嬉しかったわ。でも心配しなくても大丈夫だから。ジェロームはキャスが思ってるような人じゃないのよ」
「だと、いいけど……」
疑う口振りのキャスバートを、ハリエットは小突いた。
「まだ領主様に言い足りないの? これ以上言って、シシリーが離婚されるようなことがあったら、全部キャスのせいだからね。シシリーを悲しませることをしたら許さないわよ」
「わ、わかったから。睨まないでよ……」
「ハル、お説教はその辺にして、さっきの話の続きを聞かせて」
「え? でも、領主様に失礼なことを言っちゃったし、私達、帰ったほうが……」
「まだ来たばかりじゃない。すぐに帰らせるなんてできないわ。時間は平気でしょう?」
「それは大丈夫だけど……領主様、怒らない?」
「顔を合わせなければ、きっと何も言わないわ」
いたずらっぽく笑ったシシリーを見て、ハリエットも笑みを見せた。
「それなら、もう少しだけお邪魔しようかな」
「ええ、そうして。キャスも、行きましょう」
「う、うん……」
促され、キャスバートは笑顔の二人の後を付いて行く。幼馴染みらしく、楽しそうに話すシシリーの横顔は、村にいた時の様子を思い出させた。同年代の友達と一緒に話し、駆け回って遊んでいた頃の表情と変わらない。だがキャスバートの目には、その笑顔がやけに明るく見えていた。どこか無理をしているような、何かから意識をそらすために笑っているかのように。シシリーは本音を打ち明けてくれているのだろうか――ジェロームに対する疑いは、キャスバートの中でまだくすぶっていた。
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