四話

 翌朝、少しぼーっとした頭で、まだ眠り足りない顔のままシシリーは階段を下りていた。それでも身支度はしっかりと整え、一日の始まりの準備はできている。新しい部屋に時計がないため、正確な時間はわからないが、村では毎日七時に起きていた体は窓からの光を受け、自然と同じ時間帯に目を覚まさせてくれていた。


 これまでの習慣なら、まず教会の掃除をし、綺麗になったところで祈りを捧げ、そして父と朝食を取ってから家事を行うのだが、ここにはもちろん教会はない。礼拝室が代わりにもなるが、昨日のようにハンカチだけで掃除をするのは困難だ。まだ勝手のわからない館内から掃除道具を見つける必要がある。


 しかし、シシリーの生活環境は変わったのだ。村の教会ではなく、領主の館となった。支えるのは父ではなく、夫だ。まずは夫の習慣を知り、勝手を知っていこうと、シシリーはとりあえず一階へと下りた。


「……あ、ジェローム」


 階段を下りきると、玄関広間をちょうど横切るジェロームと会い、シシリーは声をかけた。


「おはようございます。思ったより早起きなんですね」


「ああ……」


 シシリーを見ると、ジェロームは気のない声を返した。


「どこか、出かけるんですか?」


 ジェロームの格好は寝起き姿ではなく、細い体にシャツと上着、外套を着込み、手にはかばんも提げている。明らかに外出をする格好だった。


「遅くなると思うが、気にするな」


「お仕事? こんな早い時間になんて、忙しいんですね。何か食べましたか? 知ってれば私が朝食を作ったのに……」


「自分で食べるものくらい、自分で作れる。私には構うな」


「遠慮は要りません。私、料理は得意なんですよ。よければ明日からは私が朝食を作って、一緒に食べま――」


「聞こえなかったのか。私には構うな。それにこっちは忙しい。食事は一人でしてくれ」


 冷めた目に見られ、シシリーは一瞬たじろぐ。


「でも、一度くらいは食べてほし――」


「要らない。間に合っている。そっちで好きなものを作って食べてくれ」


 ジェロームは玄関に向かおうとしたが、ふと足を止め、顔を向けた。


「……そうだ。言っておかなければな。料理の食材は買いに行く必要はない。長年付き合いのある商人が裏口に毎日適当な食材を置いておいてくれる。それで好きなものを作れ。足りない日用品は町で買ってもらうが、その生活費は月に一度渡すから心配するな。それと――」


 灰色の瞳がじろりと見やる。


「台所が見違えるほど綺麗になっていたが……」


「ええ。私が昨日、掃除したんです。衛生的によくないと思って」


 シシリーが眠り足りない顔をしていたのは、まさにこれが理由だった。毎日料理をする場所が埃に覆われていては、美味しいものも不味くなりそうだし、何より体にもよくない。そんな不潔さをすぐに取り除こうと、シシリーは自室を決めた後、早速台所掃除に取り掛かったのだ。水がめの水を使い、目に付いた布巾を雑巾にし、床から壁、流しから調理道具まですべてをぴかぴかに磨き終えた頃には、もうすでに太陽は沈んでいた。シシリーの体力は残り少なかったが、それでも自室の掃除もしなければと家具やソファーの埃を払い、ベッドのシーツを取り替えたところで、ついに力尽き、そのまま眠りに落ちたのだった。そんな頑張りで台所は気持ちよく使える場所となり、シシリーは寝不足状態となったのだ。


「鍋やフライパンも磨いたので、いろいろな料理が作れますよ。ジェロームはどんな料理が好きですか?」


 質問をすると、ジェロームはしばらく見つめ、そしておもむろに口を開いた。


「……止めはしないが、掃除は無理にしなくていい。多少汚れていても問題はないからな。では私は行く」


 質問を無視し、言いたいことだけを言うと、ジェロームは足早に玄関を出て行ってしまった。これほど堂々と無視されたシシリーは何の言葉も出ず、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。ジェロームという夫の心が、やはりわからなかった。聞いても無視され、近付けば突き放される。彼はなぜ結婚を決めたのか。なぜ自分を妻に選んだのか……シシリーの疑問は結局、そこへ戻ってしまう。不幸に見舞われたジェロームに寄り添いたいと決意して来たというのに、彼はそんな気持ちがまるで迷惑かのように拒み、距離を取る。もっと話して、その見えない心を知りたいが、忙しそうな今はそんな機会も与えてくれない。シシリーの胸には、むなしさだけが積もっていくようだった。


「……くじけるには、早過ぎるわね」


 二日目にして頭を抱えそうな自分を励ますように、シシリーは無理に笑顔になると、一度大きく息を吐いてから前向きな気持ちを作り、台所へと向かった。


 朝食を取るため、綺麗になった台所に入ると、調理道具が置かれている棚に見知らぬ木箱があるのに気付き、シシリーは近付いた。


「ああ、これが食材ね」


 ふたを開けてのぞくと、中には数種類の野菜や加工された肉、パンなどが入っていた。そのパンにはちぎられた跡があり、これはおそらくジェロームが食べたのだと思われる。他に何を食べたのかはわからないが、台所を見る限り料理をした様子はない。ただ食材をつまんだだけの朝食で、果たして忙しい身が持つのだろうか。やはり自分がまともな料理を作るべきだとシシリーは改めて思った。


 食材の内容を確認し、シシリーは献立を考える。昼食、夕食のことも考え、まずはこれくらいを使おうとパンとハム、レタスを取り出す。それらを同じ大きさに切り、調味料棚にあった粒胡椒とバターをまぶし、パンで具材を挟む。忙しかったり時間がない時によく作るのが、このサンドウィッチだ。館の留守を預かっているシシリーには知ること、やることが山ほどあるのだ。簡単に朝食を済ませて片付けると間を置かず、すぐに最初の家事へ向かう。


 まずは洗濯だが、どこで行っているのかわからない。だが干すなら裏口から出た外だろうと、とりあえず裏口を探して歩いていると、それは視界に入った。


「何日分、溜まってるのかな……」


 廊下の先には扉が半分開いた部屋があったが、そこからは衣類などが山積みになった光景が見えていた。そこが間違いなく洗濯室だろう。恐る恐る入ると、狭い部屋には大きなたらいがいくつも重ねられ、棚には折り畳まれたシーツやタオルが整然と収められている。横を見れば外へ出られる裏口もある。


 どんな様子かと裏口を開け、出てみる。朝の太陽が照らすここも、以前は裏庭として美しく手入れをされていたのだろうが、正面の庭同様、雑草が伸び、草むらと化している。その中に一応洗濯紐が通されていたが、枯れ草が絡み付き、あまり使われた様子はない。山積みの衣類を見れば当然ではあるが。その奥には井戸があり、ここから水を汲むのだと知ったシシリーは洗濯室へと戻った。


「……よし!」


 気合いを入れ、腕まくりをすると、シシリーは早速洗濯を開始する。


 たらいを抱えて外へ出て、そこに井戸の水を入れる。そして大量の洗濯物を持ってきて、一枚ずつごしごしと洗っていった。その途中、洗濯室で見つけた洗剤を使いながら、井戸水の冷たさをこらえ、シシリーは黙々と続けた。手元の洗濯物は次第に減り、庭には汚れの落ちた衣類がどんどん干されていく。そして――


「これで、最後!」


 シーツをしわなく干すと、シシリーは自分で洗った物を見ながら一息吐いた。衣類の量と比べ、干せる幅が足りなかったため、かなり詰まって干されているが、それでもどうにかすべての洗濯物を風に泳がせることはできた。今日は天気がよく、暖かな陽気だ。夕方には乾いていることだろう――出来に満足しながらたらいを片付けたシシリーは、休むことなく次の家事に向かう。


 衣、食はひとまず終わり、あとは住の掃除だ。昨日見て回った通り、この館はどこもかしこも埃だらけだ。ジェロームは多少汚れていても問題はないと言うが、シシリーにはこれは多少の汚れとは思えなかった。領主という権力のある人の家がこんなに汚いなど、きっと誰も想像していないだろう。来客があった時、埃を踏んで足跡が付くような恥ずかしい目に遭わせるわけにはいかない。


 掃除をするにはまず掃除用具を持たねばと、シシリーは周囲をさまよい、それらしき部屋を探していく。と、物置部屋と思われる中にほうきやモップなどの掃除用具を見つけ、シシリーは手に取った。


「見つけたけど、どこから掃除しよう……」


 この館を一人で掃除するにはあまりに広い。当然一日で終わるはずもなく、日に分けて行うしかない。自分の部屋の掃除がまだ途中だったが、それは寝る前の時間でもできる。優先順位を付けるなら、まずは一階からだろう。玄関広間に応接間……人目に付きやすく、よく使われそうな部屋からだ。廊下も忘れてはいけない。今日はそれらの場所を掃除しよう――考えの決まったシシリーは、ほうきと塵取りを持って向かった。


 床を掃いていると、ごみはすぐに大きな塊となって集まった。そのたびに塵取りに入れるが、その塵取りにも入り切らなくなると、裏庭のごみ捨て場に行って捨てなければならない。そんなことを何度も繰り返し、玄関広間の掃除を終えると、次は廊下の掃き掃除に移る。すべての廊下ではなく、とりあえず応接間へつながる廊下だけにし、隅に溜まった埃を掃き集めていく。それを終えてからシシリーは部屋の掃除に入った。


 領主なら使う頻度は多いと思った応接間だが、埃をかぶった家具からは最近使われた様子はうかがえない。他の部屋も同じような状況だが、そもそもジェローム一人が住む家としては部屋数が多過ぎるし、全部屋をまんべんなく使うこともできないだろう。広く立派な部屋だというのに何とももったいないことだ。この様子ではほとんど来客もないのだろう。忙しく、家にいる時間も少ないのかもしれない。使われる可能性は低そうだが、それでも汚れたままにはできないと、シシリーはほうきで掃除を始める。


 黙々と続け、部屋の大半の埃を掃き終え、ふうと疲れた息を吐きながらふと視線を窓へ向けると、暖かな陽光は大分傾き、部屋の中に長い影を作り出していた。あまりに集中し過ぎたのか、食べるつもりだった昼食を忘れ、気付けば外は夕方に変わっていた。どうりで疲れるわけだと自覚したシシリーは、今日の掃除はここまでにしておこうと、集めたごみを裏庭へ捨てに行った。


「……あの子は……」


 館内に戻ると、シシリーの目はすぐにそれを見つけた。しなやかな黒い体が長い尻尾をくねらせながら、ちょうど目の前の廊下を横切って行くところだった。それを見た瞬間、シシリーの頭にはジェロームの言葉がよみがえった。すべて無視しろ――あの黒猫も、近付いてはいけない存在だというのだろうか。しかし見た目は可愛らしい猫にしか見えない。


「ちょっとだけ……」


 ほうきと塵取りを片付けたシシリーは、廊下の先へ行った黒猫を追ってみることにした。喪服の女性のように、あの猫も消えてしまうのだろうか。それとも――気になったシシリーは少しどきどきしながら静かに廊下を進んで行った。


 黒猫の行方を探していると、その姿は玄関広間にあった。そして階段を軽やかに上がり、二階へと消える。それを見失わないよう目で追いながら、シシリーも二階へ向かった。


 気付かれないよう距離をおいて後を追う。前を行く黒猫は尻尾を揺らし、優雅な足取りで進んでいる。と、廊下の角に差しかかり、黒い姿は左へ曲がって見えなくなった。特に慌てることもなく、シシリーは角の壁に体を寄せ、先の廊下をのぞき見る。


「……あれ?」


 当然見失うはずはないと思って見たものの、黒猫の姿はもう廊下にはなかった。一直線に伸びる廊下には他へ行く道はなく、いくつもある部屋の扉もしっかりと閉まっている。隠れるにしても、そんな場所はどこにも見当たらない。忽然と消えてしまった――そうとしか言いようがなかった。やはり普通の黒猫ではないのかもしれない。ジェロームが無視しろと言うのも、それを知っているからなのか。


 そんなことを思うと、少し気味の悪さを覚えたシシリーは、黒猫探しをやめて一階へ下りることにした。そろそろ夕食の準備をしなければと、来た廊下を戻る。だがその途中、視線はある扉に留まった。館を見て回った際、唯一開けられず、中を見られなかったジェロームの部屋だ。その時は中にいる彼の邪魔をしないよう素通りしたのだが、今は外出中で誰もいない。夫とは言え、勝手に入ることはシシリーを躊躇させたが、どんな部屋の様子なのかは気になる。


「……見るだけなら」


 入らず、のぞくだけと決め、シシリーは扉の取っ手に手をかけた。


「……?」


 つかみ、押してみるが、扉はガタガタと音を鳴らすだけでびくともしなかった。どうやら鍵がかけられているようだ。部屋にいる時ならまだしも、外出中にも鍵をかけるなど、ジェロームはよほど部屋に人を入れたくないのか、あるいはシシリーを信用していないのか……。気持ちがやや暗くなりかけたが、シシリーはすぐに切り替えると扉から離れ、階段へと向かった。信用などこれから作っていくもので、今は妻としてできることをするべきだと前向きを心がけた。


 一階へ下りると、まずは裏庭に干された洗濯物を取り込んだ。シーツも衣類も汚れが落ち、からっと乾いている。それらを抱え、洗濯室に戻ると、しわにならないよう手早く畳んでいく。大量の衣類を畳み終えた時には、窓の外はすでに夕闇が広がっていた。


 休む間もなく台所に入ったシシリーは、かまどに火を起こし、鍋や材料を並べると夕食作りを始めた。ジェロームは帰りが遅くなると言っていたが、その時はきっと空腹で帰って来るに違いない。すぐに温められるスープと、肉を野菜で巻いてソテーした、腹を満たせそうな料理を作ることにし、調理を始める。妻としてやれることは、今はこれくらいしかない。あの痩せた体を健康的に戻せるなら、それはシシリーの作った料理を食べてもらうことなのだろう。ジェロームに好き嫌いがないことを願いながら、丁寧に、心を込めて調理は進む。


「これで、出来上がりね」


 まだ不慣れな台所で、三十分ほどかけて作った料理を、シシリーは皿に盛り付けていく。スープ、野菜巻き肉のソテー、そして余った野菜でサラダを作り、三品の料理が完成した。これなら喜んで食べてくれるはずと、シシリーはとりあえず調理の片付けをする。帰りが遅いと言っても、どのくらい遅いのかわからないが、それでもできれば一緒に食事をしたいシシリーは、日が暮れて真っ暗になった台所や廊下に灯りを付けて回った。燭台に積もった埃を一つ一つ払い、ろうそくに火を灯す。朝食以降食べていないシシリーはすでに空腹状態だったが、もうすぐ帰って来るかもしれないと思うと、まだ一人で食べ始めることはできなかった。


 だが一時間が経っても、二時間が経っても、玄関の扉は音一つ立てることはなかった。台所ではシシリーの腹の虫だけが鳴り響き、夜はどんどん更けていくばかりだった。椅子に座り、じっと待ち続けていたシシリーも、さすがに疲れ始めていた。大量の洗濯と、廊下と部屋の掃除で体力的にも疲弊しており、ジェロームを待ちたい気持ちとは裏腹に、瞼は徐々に下がり始める。そして意識は眠りへと引きずられ、うつらうつらと頭が揺れ動き――


「おい」


 強い口調の声に、シシリーの意識は瞬時に覚めた。それと同時に自分が半分眠っていたことに気付き、慌てて居住まいを正す。


「は……ジェローム」


 顔を上げると、すぐ目の前には外套姿でかばんを持ったジェロームが怪訝な表情で立っていた。


「今、帰ったんですか?」


「ああ。……こんなところで何をしている」


「何って、見ての通り、夕食を作ってジェロームを――」


「帰りは遅くなると言ったはずだが?」


「ええ、でも、きっとお腹を空かせてるんじゃないかと思って作ったんです。よければ一緒に――」


「腹は空いていない」


「あ、どこかで食べて来たんですか?」


「そうだ」


 これにシシリーは残念そうに笑う。


「そう、ですよね。普通に考えれば、食べてますよね……。捨てるのももったいないので、スープは明日の朝にでも温め直せば、まだ食べられるので……」


 シシリーは立ち上がり、盛られた料理の皿に手を伸ばす。


「じゃあこれは、私が食べちゃいますね。味付けは大丈夫かな」


 野菜巻き肉のソテーにフォークを刺すと、シシリーは端をかじった。完全に冷めてしまってはいるが、塩加減やバターの量はちょうどよく、満足のいく出来だった。


「……もしかして、食事もせずに私を待っていたのか?」


「できたら、ジェロームと一緒に食べたいと思ったんですけど……私の考えが足りなかったですね」


 苦笑するシシリーを不思議そうに見つめるジェロームだったが、次には呆れた眼差しに変わっていた。


「私は食事の用意をしろなどと言った覚えはないぞ」


「それは、わかってます。だけど――」


「自分のことは自分でできる。わざわざ帰りを待つ必要はないし、私に構おうとしなくていい。そっちはそっちで好きな時にしたいことをすればいい。私の都合に縛られることはない」


「私は、これでもしたいことをしたつもりなんですよ? 作った料理を食べてもらいたかったし、それをジェロームと一緒に食べたかったから……」


 シシリーの言葉に、ジェロームの表情がわずかに困惑を見せた。


「私と食事をすることに、一体何の意味がある」


 シシリーは首をかしげて見つめた。


「意味? おかしなことを言いますね。夫婦で食事をすることに何か意味がなくちゃいけないんでしょうか。美味しそうに食べるお互いの顔を見合うだけじゃ、ジェロームは駄目なんですか?」


「……私には無駄な時間だ」


「私にはそうじゃありません。お互いを知る、大事な夫婦の時間です」


 ジェロームは小さな溜息を吐くと、鋭い目で見やった。


「互いを知る必要はない。もう私に構うな」


 踵を返しかけたジェロームにシシリーはすかさず言った。


「じゃあ何で私達は夫婦なんですか? 知る必要がないなら、他人のままでもよかったはずです」


「私はそんなことを求めてはいない」


「それが私にはわからないんです。ジェロームは私に、何を求めてるんですか?」


 難しい顔でジェロームは黙り込んだ。


「……何も、求めてないんですか?」


「知らなくてもいいことだ」


「答える気はないんですね」


 返事がないのが答えだった。これにシシリーは一度うつむくも、再び顔を上げるとジェロームを見据えた。


「わかりました……それじゃあせめて、私の気持ちだけでも知っておいてください。何か辛いことや困難なことがあるなら、私に打ち明けてほしいんです。それが些細な雑用だったり愚痴でも構いません。ジェロームが求めてくれるなら、私はできるだけ応えたいんです。あなたの力にならせてください。それだけです」


 望むすべてを声に出し切ると、シシリーは椅子に座り、食事の続きを始める。そんな姿を見つめていたジェロームは、一歩二歩と近付くと、再び怪訝な表情を浮かべた。


「私達は互いを知らない。それなのに、なぜ私の力になりたいなどと思う。お前は私を嫌に思わないのか? 親切にする義理もないだろう」


「嫌だなんて思いません。どんな理由であれ、ジェロームは私を求めて妻に迎えてくれたんですから。だから私はあなたの側で、あなたの力になりたい……そう思うのは、おかしなことですか?」


 真っすぐな目が見つめる。その眼差しに耐えられなくなったようにジェロームは視線をそらした。


「ああ、おかしいよ。こんな私に構うなど……妻であり続けようとするなど……」


「私があなたの妻でいちゃいけないみたいな言い方ですね」


 冗談めかしてにこりと笑いかけたシシリーだが、ジェロームはそれを見ても表情を変えることはなかった。


「お前が何を望み、求めようが勝手だが、とにかく私には構うな。相手をする暇などないんだ」


「相手をしたくないならそれでもいいです。でも食事くらいはしっかり食べてください。そんなに痩せた体じゃ心配――」


「言ったばかりのことをもう忘れたのか。私には構うな……簡単なことだろう」


「心配すらしちゃいけな――」


「私の時間を、乱すな」


 刺すような視線と声にシシリーの言葉は止められた。ジェロームはそんな妻をいちべつし、足早に台所を出て行った。ろうそくの灯りだけの薄暗い中に取り残されたシシリーは、自分で作った料理を見下ろしながら、胸の底に湧くむなしさを感じていた。


「くじけちゃ、駄目よ……」


 そう呟き、自分を励ますが、湧いたむなしさは止まることなく気持ちを重くしていく。ジェロームはなぜ心を開いてくれないのか。質問をしても、知る必要はないと返され、まともな会話もできない。考えれば考えるほど、自分がここにいる理由を見失いそうだった。力になれればと承諾した結婚。しかしジェロームは距離を置き、忙しい、暇はないと言うばかりだ。誰かに相談したくても、ここには誰もいない。いるのは得体の知れない気味の悪い存在だけ……。この結婚はハリエット達の言う通り、すべきではなかったのだろうか――シシリーの中にはそんな後悔もよぎったが、すぐに頭を振って消す。


「まだ始まったばかり……」


 焦ることはない――そう言い聞かせ、湧いたむなしさを拭い、前向きな気持ちを取り戻そうとするが、広がったむなしさは不甲斐ない悲しみとなり、シシリーの群青の瞳を潤ませていた。それでも涙だけはこらえ、残された料理を黙って静かに食べ続けるのだった。

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