三話

 シシリーは驚き、瞬きを繰り返した。ジェロームからは他に誰もいないと聞いていたので、まさか人と会うとは思っていなかったのだ。しかし館内におり、自分に話しかけてきたということは、この女性はきっとジェロームの親族なのだろうと、シシリーは笑みを作った。


「初めまして。私は――」


「かわいそうに」


 女性はシシリーの言葉を無視し、憐れみの眼差しを向けてくる。シシリーは戸惑いつつも続けた。


「あ、あの、あなたは……?」


 聞くが、女性は暗い表情を変えることなく見つめ続ける。何だか様子がおかしい――不安を覚えたシシリーだが、それを払拭しようと別の質問をした。


「その服装……どなたか亡くなったんですか?」


 すると女性はゆらりと風に流されるように足を動かすと、シシリーに触れそうな距離まで近付き、答えた。


「何を言っているの? まだ亡くなっていないじゃない」


 意味がわからず、困惑して黙ったシシリーに、女性は微笑を浮かべた。


「亡くなるのは、あなたなのだから」


「え……」


 途端、シシリーは全身に寒いものを感じ、体を硬直させた。その様子を楽しむかのように、女性は口角を上げる。


「こんなに清らかな魂は、いつ以来かしら……」


 怪しげな笑みを浮かべながら、女性は白く細い手をシシリーへ伸ばした。その指先が頬に触れそうになった瞬間、シシリーは無意識に顔をそむけ、後ずさっていた。本能とでも言うべきか、この女性に対して、これ以上近付いてはいけないとシシリーの中で強く何かが警告をしていた。


「ふふっ、私が怖いの?」


「ご、ごめんなさい……」


 自分でもよくわからない感覚に、シシリーは視線を泳がせ、謝った。しかし女性の異様な雰囲気を恐れ、なかなか顔を見ることができない。


「怖がることはないわ。来たばかりなのだから……でも本当に、かわいそう」


 恐る恐る視線を向けると、そこにはもう笑みはなく、最初に見た憐れむ眼差しだけがあった。この人は一体何者で、なぜ脅かすようなことを言うのか――どうしていいのかわからず、立ち尽くしていた時だった。


「何をしている」


 女性の後ろから低い声が響いた。目をやれば、そこには険しい表情のジェロームがいた。


「あの、私は――」


「お初にお目にかかるんですもの。挨拶くらいはしないとと思って」


 ゆっくりとジェロームに振り返りながら、女性はシシリーの声をさえぎって言った。


「声が聞こえたと思ったら……そんなことをする必要はない。消えろ」


「私がどうしようと、そちらに指図されるいわれはないわ」


「いわれはなくとも、まだその時ではないんだ。彼女に近付くな」


 ジェロームに睨まれた女性は喉の奥で笑った。


「わかっているわ。少し見に来ただけのことよ。何もする気はないわ。今わね……」


 そう言って女性はシシリーに不敵な笑みを見せた。その視線にシシリーは思わず息を呑む。


「この清らかな魂を救えるよう、せいぜい励むことね」


「言われなくてもそうしている」


 女性はふふっと笑いを残すと、ジェロームの脇を通り、部屋を出る。だがその直後、女性の後ろ姿は一瞬にしてその場から消えていた。目で追っていなければ見逃したに違いないほど、それは瞬間的な出来事だった。


 自分は今、何を見たのだろうかと、口を開けて呆然とするシシリーに、ジェロームはやはり素っ気なく言った。


「ここは礼拝室だ。部屋としては使えない。別の部屋にしろ」


 それだけ言うとジェロームは出て行こうとする。シシリーはそんなことを聞きたいのではないと、すぐに呼び止めた。


「あの女性は、一体、誰なんですか……?」


 ジェロームの顔が振り向く。


「気にしなくていい」


「でも、姿が消えたように見えました……あの人は、人、なんでしょうか」


 これにジェロームの目がわずかに鋭くなった。


「またあれと会っても、これからは無視しろ」


「ここによく来る方なんですか? 住んでるわけでは――」


「私しか住んでいないと言ったはずだ」


 そう聞かされたからこそ、シシリーは女性の正体が気になった。


「あの人は私に、何だか不気味なことを言ってきたんです。それってどういう――」


「すべて無視するんだ。ここでは私以外と話すな。誰かに声をかけられても無視していればいい」


「誰なのかくらい教えてください。私は、あの人に嫌なものを感じるんです」


「同じことを何度も言わせるな」


「じゃあせめて、人なのかどうか、はっきりと言ってください。このままじゃ気になって……」


 しつこく聞くシシリーをジェロームはわずらわしそうに見やる。


「知ったところでどうする。人であろうとなかろうと、お前には関係のないことだ」


 廊下へ出て行こうとするジェロームを追い、シシリーはその腕を後ろからつかんだ。


「おい――」


「関係なくはありません。私は、あなたの妻になったんですから」


 強い口調でそう言ったシシリーは、ジェロームの灰色の瞳をじっと見据えた。意志を感じさせるその真っすぐな目に、ジェロームの顔にはわずかに戸惑いが浮かんだ。


「会ったばかりの私には、教えたくないんですか?」


「そうだ……と言ったら、もう黙ってくれるのか?」


 シシリーはつかんだ手をゆっくり放すと、眉根を寄せ、悲しげに見つめた。


「それは、私とは話したくない、ということですか……?」


「教える必要がないからだ。……確かにお前は私の妻になったが、無理にそれを意識しなくていい。私には構わず、自分のことだけを考えていろ」


「それじゃあまるで他人です。私達は結婚したのに」


「互いの時間に縛られることが結婚ではない。自由でいろということの何が不満なんだ」


 ジェロームは険しい表情で聞いてくる。自由な時間を持つことも大事だが、それが一番大事なこととはシシリーには思えなかった。ましてジェロームとは今日初めて顔を合わせ、何も知らない状態なのだ。日常の習慣、趣味、好物……そんなことすら知らないなど、友人以下の仲と言える。それなのに自分には構うなというのは、果たしてそれは夫婦と言えるのか。無の状態で互いに知ろうともせず、ただ同じ屋根の下で暮らしているだけでは他人も同然だろう。ジェロームは妻にした自分に一体何を求めているのか。突き放すような言動からは、理解や愛情を求めているとは到底思えない。妻を迎えたこと、それだけが目的のようにさえ感じられる。ジェロームの気持ちがわからない――それが率直な思いだった。しかし妻になると決意した以上、シシリーは自分の心に従いたかった。


「私はあなたのことをまだ知りません。だから、もっと知りたいんです。そう思うのはおかしなことじゃないでしょう?」


 これにジェロームは小さな溜息を吐いた。


「知る必要はないし、そんな暇もない。私は忙しいんだ」


「必要があるかどうかは私が決めることです。……どうして会話を避けようとするんですか? 私はいっぱい聞きたいことがあるのに……」


「会話など、無駄な時間だ」


 暗い眼差しでシシリーをいちべつすると、ジェロームは静かに立ち去って行く。


「待って、まだ終わって……」


 呼んでもジェロームは止まってくれない。その背中にシシリーはさらに声をかけた。


「せめて、飼ってる黒猫の名前くらい教えてくだ――」


 するとジェロームの足はぴたりと止まり、その顔が振り向いた。


「……動物など飼っていない」


「だけど、さっき礼拝室に黒猫が――」


「言っただろう。すべて無視しろと。ここでは私以外の存在には近付くな」


 そう言い、ジェロームは廊下の先へ消えて行った。


 シシリーは首をかしげつつ礼拝室に戻った。少し埃の払われた神のレリーフを見つめ、そして視線をその下へ移す。確かに黒猫はここを歩いていたのだが、何も動物は飼っていないという。野良猫が入り込んだとも考えられるが、しかしジェロームの言い方はどこか違うように感じた。私以外の存在には近付くな――別の言い方をすれば、ここには領主以外の存在がいるということだろうか。真っ先に思い浮かぶのは、あの喪服の女性だ。異様な雰囲気のまま、姿を消してしまったが……。あれがやはり人ではないのだとしたら、黒猫も同じ存在なのだろうか。近付いてはいけない存在……だが、それは一体何なのか。不気味で嫌な感じは確かに受けたが……。


 考えてもわからないシシリーは、とりあえず目の前のレリーフを綺麗にすることにした。ハンカチで丁寧に埃を払っていくと、細かな模様と共に、神の姿が美しく現れた。ろうそくはないものの、燭台も拭って置き、ひとまずは見られる祭壇に戻った。そこに短い祈りを捧げ、シシリーはかばんを手に部屋選びへと向かう。


 望んだ部屋はどこにもなく、あったとしても窓やベッドがなかったりして、結局シシリーは広い部屋を選ぶ他なかった。三十人は優に入れる部屋には大きな窓があり、今は汚れて曇っているが、それでも太陽の光がさんさんと差し込んで来る明るい部屋だ。壁際には飾り棚や大きな壺、石像などが飾られているが、どれも埃と蜘蛛の巣に覆われてしまっている。色あせたソファー、ベッドの上にも、うっすらと埃が積もっている。それらを部屋の真ん中に立ち、見渡したシシリーは、大変な作業になると感じつつ、やる気をみなぎらせた。


「ちょっと不安だけど……できることをやるしかない」


 心を強く持ち、シシリーは呟く。素っ気ないジェロームの態度に、姿を消した不気味な女性の存在――それは想像もしていなかったことで、さすがにシシリーも不安を覚えたが、死神と呼ばれるような相手との結婚を承諾したのだ。ある程度の覚悟はシシリーもしている。ジェロームの力になれれば――それがシシリーの思いだ。そのために夫婦として互いを知り、寄り添えればいいのだが、掃除と同じく、そちらにも時間がかかることは目に見えている。新たな生活は始まったばかりだ。

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