二話
灰色の目はじっとシシリーを見る。
「中へ入れ」
「はい。あの、今日からはどうぞ、よろしく――」
「そんなのはいい。早く入れ」
礼義として挨拶をしようとしたシシリーをさえぎり、ジェロームは急かすように促した。仕方なくシシリーは言われるまま玄関扉をくぐった。
館内は外観と同様に立派な作りで、広さもありそうだった。今いる玄関広間からして村の教会よりも確実に広い。左右前方へと伸びる廊下の先や、目の前にある階段を上った二階には、一体どれだけの部屋数があるのか、シシリーには予想もできなかった。
物珍しげに館内を見回す後ろでジェロームは扉を閉めると、シシリーの前に立ち言った。
「空いている部屋なら、どこでも好きに使ってくれていい」
それだけ言うと、ジェロームは立ち去ろうとする。
「あ、待って。まだ聞きたいことが……」
呼び止めると、ジェロームは足を止め、じろりと振り向いた。
「……何だ」
「他の方にも挨拶をしないと……どこにいるんでしょうか」
「どこにもいない。ここには私しか住んでいない」
シシリーは思わず目を丸くする。
「どなたもいないんですか? こんなに大きな家なのに、使用人も雇わず、ジェローム様だけ……?」
「ここで働いてくれる者などいるわけがない。お前も知っているはずだ」
ジェロームが何を指しているのか、シシリーにはすぐにわかった。それは最初の事件――前領主と共に、使用人達が全員死んでいたという衝撃的な事件。これによりジェロームは領民から疑われることとなった。そんな疑惑を持つ人間の下で、好き好んで働く者などいないということらしい。
「それじゃあ、料理も掃除も、全部一人で? それは大変そうだわ。領主のお仕事の傍ら、この広い家の隅々までは掃除ができないでしょう。これからは私が頑張りますね」
「無理にやらなくてもいい。……まあ、そうしたいなら勝手にやってくれ」
素っ気なく言い、ジェロームはまた歩き出そうとする。
「待って。もう少しお話を……」
小さな溜息を漏らし、ジェロームは渋々シシリーを見やる。
「……やることがあるんだ」
「すみません。でも、いろいろと聞いておきたくて」
「手短に」
「そうですね。あの、妻として知っておきたいんですけど、ジェローム様のお仕事の予定は、どんな感じなんでしょうか」
「どんな感じとは?」
「朝は何時に起きて、お仕事は何時間やる、とか」
「ああ……特に決まっていない」
「つまり、毎日違う予定なんですか?」
「そうだ。でも大体は朝から晩まで出かけていることが多い。私のことは気にしなくていい」
「そうはいきません。これから一緒に暮らす夫なんですから」
そう言ったシシリーを、ジェロームはどこか暗い眼差しで見た。
「……他に聞きたいことは」
「じゃあ、呼び方なんですけど、ジェローム様でいいんでしょうか。私はもっと親しい呼び方でもいいと思うんですけど……どうでしょう?」
「何だっていい。呼びたいように呼んでくれ」
これにシシリーはにこりと笑った。
「それじゃあ、様は付けずにジェロームと呼びますね。そちらは何と呼んでくれますか?」
「そんなの、どうでもいいだろう」
「違います。呼び方は距離を縮めるために重要なことです。ただでさえ初対面なんですから」
言われたジェロームはわずらわしそうな目を向ける。
「悪いが、お前の名を忘れた」
「え……?」
呆気に取られるシシリーを見ても、ジェロームに悪びれる様子はない。
「姓はガーネットだと知っているが、名は何だ」
「私の名は、シシリーです」
「そうか。ではシシリーと呼ぶ。それでいいか」
面倒そうに、まるで心の入っていない口調に、シシリーは驚きを隠せず、言葉に詰まった。
「あ……あの……」
「何だ。まだ何かあるのか」
早く終わらせたそうにジェロームはシシリーを見る。
「ないならもう行く――」
「どうしてジェロームは、見ず知らずの私を妻にしようと思ったんでしょうか」
思い切って聞いたシシリーは真剣な眼差しでジェロームを見つめる。
「名前を忘れるような相手なのに……どうして、ですか?」
「お前を妻に迎えたかったからだ。それじゃ不服か?」
平然と答えるジェロームにシシリーは質問を続ける。
「私のことをどう思って、そういう考えになったんですか?」
これにジェロームは表情をしかめ、軽く息を吐いた。
「では逆に聞くが、お前はなぜ結婚の申し出を受けたんだ」
「私は、ジェロームが求めてくれるなら、その側で力になりたいと思って……」
「私もお前のことが必要だった。だから妻として迎えた。それだけだ」
「でも、私のことなんて存在すら知らなかったはずなのに、そんな相手を妻にしようと思った経緯が、よく理解できなくて……」
するとジェロームはシシリーに詰め寄った。
「ならば、この結婚はやめるか?」
じっと見つめる灰色の瞳をシシリーは見つめ返す。
「……いいえ。私はあなたの側に、妻としています」
「そうしてもらえると、こちらもありがたい。離婚の手続きをするのも面倒だからな」
「離婚の? じゃあ私達はもう、夫婦として届けられてるんですか?」
「そうだ。手紙で承諾を受けた後、こちらで手続きはしてある。公にはすでに夫婦だ」
「それじゃあ、神の御前で夫婦になると二人で誓わないといけませんね。時間がある時にでも教会へ――」
「必要ない」
ジェロームはきっぱりと言った。
「わかってます。式を挙げるんじゃありません。ただ二人で誓いを――」
「だから必要ない。司祭の娘としてそうしたいのはわかるが、そっちのしきたりに時間を割く余裕も暇もないんだ。もう夫婦と認められているのに、神への誓いなど無意味だ」
「そんな、無意味なんかじゃ――」
「もう話はいいだろう。行くぞ」
ジェロームは踵を返すと、二階へ続く階段を足早に上って行ってしまった。その後ろ姿をシシリーは呆然と見送った。あまりに冷たい態度からは、妻を迎えた喜びや興味は一切見られず、それには困惑と疑問を抱かざるを得なかった。手紙を貰った時点で、なぜ自分なのかという疑問はすでにあったが、それでも顔を合わせれば笑顔で迎えてくれるものとシシリーは思っていた。何せ結婚を望んだのはジェロームなのだ。望みが叶えば喜ぶのが普通だろう。しかしそれは勝手な思い込みだったようだ。妻となったシシリーを迎えても、ジェロームはわずかも笑顔を見せず、それどころか一方的に話を切り上げ、立ち去ってしまう始末。だが何より驚いたのは、妻として望んだ者の名を忘れていたことだ。こんなことはまずあり得ないだろう。初対面だとしても、これから人生を共にしようとする相手の名を忘れるなどあるだろうか。そんなジェロームの言動からは結婚をしたという実感や、シシリーに対する愛情は微塵も感じられなかった。まるで居候を迎えただけの、必要最低限の対応をしたようにしか見えない。そこにシシリーはジェロームの気持ちを見つけることはできなかった。自分は本当に望まれてここにいるのか。喜ばれるべき存在なのか――夫になったばかりのジェロームの心情を、シシリーはまだ察せずにいた。
静けさが漂う玄関広間に一人残されたシシリーだったが、突っ立っていてもジェロームが戻って来るわけでもなく、気を取り直し、まずは館内を見て回ってみることにした。空き部屋は好きに使っていいということで、自分の部屋選びも兼ねて、シシリーは廊下を歩き始めた。
まずは一階から見ることにし、いくつもある大小の部屋をのぞき、確認していく。領主の家とあって、一階には広い応接間や書庫、美術品の収蔵室など、一般家庭にはまずない部屋が多く見られた。物置部屋一つにしても村の家畜小屋より広く、この館の大きさを改めて感じさせられる。玄関の正面にある廊下から真っすぐ進んだ先には台所があったが、ここも他の部屋同様に広い。使用人がいた頃は五、六人で動き回り、料理を作っていたのだろうが、シシリー一人がここに立つと、広い空間や数ある調理道具は持て余すことになるだろう。
それにしてもとシシリーは周囲を見回す。床も棚も、至る所が埃にまみれていた。調理台の周辺だけはそれを免れているが、これはおそらくジェロームが使っているからだろう。それ以外はどこも掃除が行われた跡はなく、白い埃が積もっている有様だ。この状況は他の部屋も似たようなもので、やはりジェローム一人では手が回らないのか、それともすでに諦めて放置してしまっているのか、せっかく立派な造りの館なのに、汚れたままではそれも台無しだ。台所に限って言えば、口に入れるものを扱う場所が埃まみれでは衛生的に問題だ。掃除をするならここを最優先にすると決め、シシリーは台所を出た。
玄関広間に戻り、そこから階段を上って二階へ向かう。手すりの下や天井付近には窓からの光に照らされた蜘蛛の巣がわずかな空気の流れに揺らめいていた。一階がそうなのだから、二階も掃除がされているわけはない。廊下を歩けば、その端には埃の塊が溜まっている。この広い館を隅から隅まで綺麗にするには、かなりの時間と労力が要りそうだ。
二階も部屋数は多いと思っていたシシリーだが、見て回ると一階ほど多くはなかった。しかし一部屋が大きく、隣の部屋に続いていたりと、一人で使うには広すぎる部屋ばかりだった。複数のベッドや椅子、机など家具一式が揃っている様子から、二階の部屋は客間として、もしくは領主の家族が使っていたのかもしれない。だが村の小さな教会で育ったシシリーにはとても落ち着ける空間ではなく、室内に独り言が響くような部屋で休む気は起こらなかった。もう少し庶民感覚に合う部屋はないかと廊下を歩き続けていると、ある部屋を見て足を止めた。
「ここは……何だろう」
中をのぞくと、今までの部屋よりは小さく、家具は一切置かれていない。奥は一段高くなっており、そこには埃をかぶった祭壇らしきものがあった。近付いて見てみると、埃をかぶっていたのは神を彫ったレリーフだった。その左右には表面の曇った銀の燭台もある。
「礼拝室……?」
神の姿があるということは、そうなのだろうとシシリーは思った。だが礼拝するにはひどい状態だ。長い時間放って置かれたのだろう。ジェロームに神を拝む習慣はないようだ。
このまま立ち去るのも気が咎めると思い、シシリーはかばんからハンカチを取り出すと、それをはたきのように振り、埃を払っていった。舞い上がる細かい埃が差し込む陽光でよく見える。できれば窓を開けたいところだが、その窓は高い位置にあり、踏み台がなければ開けることはできそうにない。口元に手を置き、吸わないように払っていた時だった。
視界の隅で何かが動き、シシリーは目を向ける。祭壇の脇――そこには黒い生き物が音も立てずに歩く姿があった。
「……まあ、猫がいるのね」
その声に反応するように、黒猫は黄色の丸い目をシシリーへ一瞬向けたが、すぐに戻すと、しなやかな黒い足をゆっくりと進ませ、礼拝室を出て行った。素っ気ないジェロームの態度から、飼い猫を可愛がる姿は想像しにくいが、きっとそういう優しい面もあるのだろうと、シシリーは少しだけ微笑ましく思いながら埃払いを続けようとした。
「次は、あなたなのね」
不意の声に、シシリーは振り返った。すると部屋の入り口に、いつの間にか女性が立っていた。その細くすらっとした体は黒い喪服をまとい、胸まである黒髪も相まって、重苦しい雰囲気を感じさせる。真っ白な肌をした表情もどこか暗く、その眼差しは見つめるシシリーを憐れんでいるようにも見えた。
すると女性は目を細めると、色の薄い唇をわずかに歪め、言った。
「かわいそうに」
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