聖女と死神
柏木椎菜
一話
シシリーが台所で朝食の食器を洗おうとしていると、背後から父ディクソンの声が聞こえた。
「何と……」
それは静かだが、驚いたような声でもあった。シシリーはしばし手を止め、父の様子をうかがった。
「どうしたの?」
振り向くと、ディクソンの手には今朝届いた数通の郵便物が握られ、その内の一通の手紙に目を落としていた。折り目のついた便箋を食い入るように読んでおり、娘の声には気付いていない。
「……お父さん?」
再び声をかけると、ディクソンは視線を上げ、シシリーを見た。
「ああ……」
だが小さな返事をしただけで、その目はすぐに便箋に戻された。どうも様子がおかしいと、シシリーは濡れた手を布巾で拭い、父の側へ歩み寄った。
「一体何の手紙なの?」
聞かれたディクソンは困惑の表情を浮かべながら、読んでいた便箋を娘に見せた。
「領主の、セーヤーズ様からのものだ」
「領主様から……?」
シシリーは小首をかしげる。父も自分も領主とは面識はなく、このヨーヌ村で何か問題が起きているわけでもない。もしそんなことがあれば、この家ではなく村長の元に手紙は送られるはずで、小さな教会に務める一司祭の父に手紙を送る理由がわからなかった。
シシリーが便箋を手に取り、読み始めようとした時、ディクソンは呟くように言った。
「セーヤーズ様は、お前を妻に迎えたいそうだ」
「え……」
思わず父を見つめたシシリーだが、ディクソンの見つめ返す目は便箋を読んでみろと促す。無言の声に言われるまま、シシリーは手元の文章に目を落とした。
文字は黒いインクで丁寧に書かれており、挨拶から始まる文章も同じく丁寧な言葉遣いでつづられている。そして――
『――まだお相手がいないのであれば、ガーネット司祭のご息女を私の妻としてぜひお迎えしたいのです。ご息女のお気持ちをご確認の上、お返事は手紙でいただければ――』
シシリーはその文章を何度も瞬きをしながら読んだ。領主は本当に自分を妻に迎えたいようだ。驚きと共に、しかしなぜという疑問も同時に浮かぶ。伯爵である領主と、村の司祭の娘ではあまりに差があり過ぎるし、顔を合わせたこともない相手をなぜ妻にしたいのか、そう申し出た領主の気持ちはよくわからなかった。
「文面からすると、お前の意思を尊重し、無理強いする気はないようだ。……どうする。すぐに断りの手紙を私が書いてもいいが?」
父の問いに、シシリーはしばらく考え込むと言った。
「……ううん。書かなくていいわ」
これにディクソンは息を呑んで娘を見つめた。
「な、何を言うんだ。相手が領主様だからって、何もかも受け入れる必要はないんだぞ」
「わかってる」
「いや、わかってない。妻になるんだぞ。あのセーヤーズ様の妻に」
ディクソンの口調には不審と心配が混じっている。シシリーも父の気持ちはよくわかっていた。何せ領主には多くの疑惑がささやかれているのだ。それはここヨーヌ村だけではなく、領内全域に知れ渡っているほど有名な話だった。
今から数年前のこと――まだ先代の領主が治めていた頃、それは突如として起きた。領主の住まう館で働く使用人達が、一晩のうちに全員死んでしまったのだ。さらには当時の領主も同じように死んでいた。それを最初に発見し、知らせたのが、死んだ領主の息子であり、現領主であるジェロームだった。
館内で唯一生きていたジェロームは当然のことながら疑われたが、死体はどれも綺麗で傷一つなく、争った跡などもなかった。毒を飲まされた様子もなく、死んだ者達の死因は不明とされた。だが使用人達の家族はそれで納得するはずもなく、一番疑わしいジェロームを徹底的に調べてほしいと訴えた。それに応えた王宮は調査官を送り、ジェロームにつながる証拠を探したが、結局それは見つからず、ジェロームは白という判断が下されたのだった。
その後、亡き父から爵位を継ぎ、新しい領主としてジェロームが任命された。二十三歳という若さで領主になるのは異例のことで、領民からは働きを不安視する声も多く上がっていた。何より、謎の死亡事件の印象が強く残り、はなからふさわしくないと思う者が大半だった。しかし結果が白と出ていては受け入れざるを得ず、領民は疑念を抱きながらも、日々を暮らしていくしかなかった。
そんな疑念の目も一時は鎮まったものの、ジェロームが妻を迎えてから数ヶ月後、再び向けられることになった。その迎えた妻が一年も経たないうちに死んだのだ。これに領民はあの事件を思い出さずにはいられなかった。そしてジェロームへの疑念も再燃した。だがこれも死因はわからず、しかも妻が死んだ日、ジェロームは外出しており、死とは無関係とされ、再び白の判断が下された。二度目となると領民の疑念は強く増すばかりだった。不信感は募り、事件の調査官まで怪しむ者もいた。しかしそれでもジェロームの白が変わることはなかった。
しばらくすると、ジェロームは新たな妻を迎えた。巷では嫁いだ女性の勇気を褒めつつ、次はいつ死ぬか賭けようなどと面白半分に話題にされていた。ところがその数ヶ月後、妻はまたしても死んでしまった。状況は一人目の妻とほぼ同じで、ジェロームの外出中に死因不明で亡くなっていた。そして当然ながらジェロームは白――似たようなことが三度も繰り返されると、領民の疑念は恐怖へと変わっていった。あの領主は何かおかしい。証拠も残さず殺せるなどあり得ない……。最も疑われながらも犯人ではないと判断され続け、領主として居座るジェロームを人々は陰で「死神」と呼ぶようになっていた。係われば死ぬ、館に入れば殺される――広まった恐怖から領主に近付こうとする者は、もはや誰もいなかった。とにかく関係せず、騒がず、静かにさえしていれば自分達に害が及ぶことはない。それが多くの領民が抱く気持ちであり、ディクソンもその一人であった。
そして今、その係わってはいけない相手から、それを求められている。しかも娘に対してだ。父親としては死神などと呼ばれる相手に大事な娘を渡せるわけがなかった。いくら身分があり、不自由のない生活が送れるとしても、過去の事件のように殺されてしまっては後悔してもしきれない。ジェロームは犯人ではないとされているが、疑惑はまだ誰の心からも拭い去れていないのが現状だ。
それなのに、シシリーは断りの手紙は書かなくていいという。そんな娘の気持ちがディクソンには理解できなかった。
「こう言っては何だが、妻になるなど、死にに行くようなものだ。お前はまだ若く、未来がある。結婚相手ならこの先いくらでも探せるだろう」
二十歳と大人の仲間入りをして間もないシシリーには、ディクソンの言うように無限の未来が広がっている。好きなことを求め、望むことを叶え、幸せになってほしい。それが父親の、ただ一つの思いだった。
「妻になったら死ぬなんて、決まってないわ」
必死に説得をする父に、シシリーは苦笑いを見せた。
「そうだが、三度も事件が起きたんだ。決まったようなものじゃないか。お前は、あんなことが起きたところへ行くのが恐ろしくないのか?」
「まったく怖くないわけじゃないけど、それよりも、私は領主様の身のほうが心配だわ」
ディクソンは眉をしかめ、娘を見つめた。
「どうしてだ。セーヤーズ様は犯人と疑われてる身だぞ」
「でも犯人じゃないと結果が出てるわ。お父様や二人の奥様を亡くし、ご自身は周りから疑われて……心がひどく傷付いてると思うの。私は、それが心配で」
「だから、申し出を受けるというのか?」
シシリーは小さく頷いた。
「ご不幸が続いて、きっとお辛いはず。孤独でいるよりは誰かが側にいてあげないと。神の教えにもあるでしょう? 孤独な者には手を差し伸べよって」
「確かにあるが、だからといって妻になることは――」
「領主様は私を求めてくださり、必要と思ってくださった。それなら私はそのお気持ちに応えたいの。こんな私でも力になれるなら、それは嬉しいことだから」
微笑む娘を見て、ディクソンは改めて我が子の信条を突き付けられた気がした。
シシリーは司祭の娘ということもあり、幼い頃から神は敬う存在で、その教えを説かれて育てられた。それに従ったおかげか、誰よりも心優しく育ったシシリーは、困り苦しむ者には寄り添い、助けを必要とする者には手を差し伸べ、神の教えの通り、常に献身を体現し日々を送っていた。そんな娘を誇らしく思うディクソンではあったが、あまりに自分をないがしろにする様子に、たまには休み、遊んできてはどうかと言うも、シシリーは首を横に振った。
『私より困ってる人がいるのに、遊んでなんかいられない』
それがシシリーの、神から教えられたことだった。誰にも優しく、分け隔てなく接するシシリーは、ヨーヌ村の人々からは「聖女」と呼ばれ、深く信愛されていた。人が嫌がること、無視し避けることでも、シシリーはためらわず身を寄せた。親身になるその姿はまさに聖女であり、その姿勢は二十歳になった今でも変わることはない。たとえ命を奪われるかもしれないとしても……。
「やだ、そんな顔しないでお父さん」
不安をあらわにするディクソンに、シシリーは笑いかける。
「……本当に、受ける気か?」
「ええ。私でよければ力になりたいの」
「本気、なんだな?」
「もちろん」
「死神と呼ばれてる相手だぞ。もう何人もあの館で――」
「やめて。領主様は死神じゃない。私達と同じ人間よ」
「ああ……しかし……」
決心の付かないディクソンは口ごもり、迷いを見せる。そんな父の手をシシリーは握った。
「お父さん、疑いの心は捨てて。大丈夫。万が一何かあったとしても、私には神様が付いててくださるわ」
そうでしょう? と群青の瞳に聞かれ、ディクソンはそれを見つめ、頷くしかなかった。
「わかった……わかったよ。お前の心はそうしたいんだな。ならば、私はもう何も言わないでおこう」
「ありがとう、お父さん」
シシリーは諦めた父を優しく抱き締めた。
「返事の手紙を、書かねばな」
娘の背中をさすり、ディクソンは寂しげに呟いた。
翌日になると、その結婚話は村中に知れ渡るところとなり、そして皆がシシリーの相手と決断に驚いていた。彼女の友人であれば、たとえ祝い事であっても、その真意を確かめずにはいられなかった。
「シシリー!」
教会の前で咲く花に水をやっていたシシリーは、自分の名を呼ぶ声に顔を上げた。
「あ、ハリエット」
こちらへ歩いて来る小柄な姿を見つけ、シシリーは笑顔を見せた。その隣にはもう一人の姿もある。
「どうしたの? こんな時間に会いに来るなんて」
「シシリーと話したかったから、ちょっと早めに休憩を貰ってきたのよ。ね、キャス」
「う、うん。そうなんだ」
表情の暗い青年は弱々しく返事をした。
この二人はシシリーの幼馴染みで、特に仲のいい友人だ。小柄で明るい赤毛のハリエットと、少し気弱で大人しいキャスバート。三人は小さな頃から同じ時間を過ごし、思い出を作ってきた仲だ。大人になった今は、二人はそれぞれの家業の手伝いがあるため、昔ほど会える時間は多くないが、それでも暇を見てはこうして会いに来てくれたりもする。
「私と話したいことって?」
シシリーが聞くと、ハリエットはその肩をつかみ、真剣な表情で見つめた。
「聞いたわよ……領主様と、結婚するって」
「ああ、そのことね」
にこりと笑んだシシリーを見て、ハリエットはつかんだ肩を揺らす。
「本当なの? 正気なの?」
「ハル、落ち着いて。……そうよ。私は結婚するの」
これにハリエットは肩からゆっくりと手を離した。
「信じられない……何で、どうしてよりによって……」
「領主様は私を必要としてくれたの。だからそれにお応えしないと」
「それは違うよ、シシリー」
顔を伏せたまま、キャスバートが言った。
「自分の気持ちを犠牲にしてまで、好きでもない男と結婚することない……と思う」
「そうよ。いくら向こうが領主様だからって、何でも言うこと聞かなきゃいけないわけじゃないし……まさかシシリー、脅されてたりするの? 結婚しなきゃひどい目に遭わせるとか言われてたり――」
「そんなことあるわけないでしょう。領主様はこっちの気持ちも考えてくれてるわ。その上で私は決めたの」
「でも、シシリーは領主様と会ったことあるの? ないんでしょう?」
「ええ、ないわ。それなのに私を選んだことは、今も不思議に感じてるけど」
「やめたほうがいいわよ。きっと騙されてる。結婚したって幸せになれないわ。シシリーが殺されるなんて嫌よ! 断るべきよ!」
ハリエットはシシリーに詰め寄り、強く言ってくる。
「ハル……領主様は誰も殺してないわ。一連の事件の犯人じゃないとされてるでしょう?」
「じゃあ真犯人はどうして捕まらないのよ。シシリーもわかってるでしょう? 領主様が一番怪しいって」
「皆がそう思ってることは知ってるけど、だからって決め付けるのはよくないわ」
「だってそうとしか思えないじゃない。シシリー、考え直してよ。あの館へ行っちゃ駄目よ!」
懸命な説得に、シシリーは困惑の表情を浮かべるしかなかった。
「求めに応えようとする気持ちは、シシリーらしいと思うよ」
わずかに視線を上げたキャスバートは、それをシシリーに向けた。
「領主様が本当に犯人じゃないとして、命の危険がないとして、シシリーは会ったことも話したこともない男を、夫として愛せるの?」
いつもは大人しいキャスバートが、こうもはっきりと質問してきたことに、シシリーは一瞬驚きを見せたが、すぐに微笑んで答えた。
「その瞬間からは難しいかもしれないけど、寄り添って、領主様を知れば、愛は自然と湧いてくると思う」
これにキャスバートは奥歯を噛み締めた。
「シシリーは人を信じ過ぎるよ」
「信じてあげなきゃ、私のことも信じてもらえないわ」
「それじゃあ、領主様がひどい性格の男だったらどうする? 短気ですぐに暴力を振るってきたら? それでも愛情は湧く?」
「キャス、言いたいことはわかるけど、そういう仮定の話は……」
「たとえ人殺しでも、求められればシシリーは愛せるって言うの? 神の教えに背いてる人間でも――」
「キャス! もういいから」
割り込んだハリエットの声で、キャスバートの頭は冷静に戻った。
「シシリーに嫌われたくなきゃ、そのくらいにして」
耳元でハリエットが囁いた。見ればシシリーは困り顔を浮かべている。
「ご、ごめん。変なこと言って……困らせるつもりなんてなかったんだけど……」
キャスバートはすぐに謝った。
「いいの。わかってる」
「キャスも私も、シシリーのことが心配なのよ。結婚を考え直してほしいの。私達は真剣よ」
二人の視線を受け止め、シシリーは微笑む。
「心配なんかしないで。これは私が決めたことだから。大丈夫。領主様もきっといい方よ」
「シシリー……」
穏やかな笑顔を見て、ハリエットはうつむき、腕を組むと、小さな溜息を吐いた。
「これだけ言っても考え直すつもりはないのね……わかったわ。それだけ意志が固いなら、私達は友人として祝福してあげないとね。……諦めましょう、キャス」
「…………うん」
再び暗い表情に戻ったキャスバートは、絞り出すように返事をした。
「村を離れる日は教えてね。笑顔で見送りたいから」
「ありがとう。決まったら教えるわ」
それじゃあと手を振り、二人はシシリーの元から離れた。とぼとぼと力なく歩きながら、ハリエットはキャスバートの肩を軽く叩いた。
「元気出してよ。こっちまで暗くなるじゃない。片想いで終わっちゃったけど、シシリーの意志があんなに固いんじゃ仕方ないわ」
「か、片想いって、何の、ことだよ」
「キャス、あなたって自分で思うよりわかりやすいのよ? ほら、今も耳が真っ赤」
指摘され、キャスバートは慌てて両耳を手で隠す。
「大好きなシシリーは領主様と結婚するって決めた。私達は友人の幸せと無事をここから祈りましょう」
「無事を祈らなきゃいけない結婚なんて、やっぱり僕は……」
ハリエットはキャスバートの気持ちをなだめるように、その背中を優しく撫で続けるのだった。
ディクソンが返信を出してから一週間後、領主から再び届いた手紙には、結婚を承諾してくれたことへの感謝と共に、それに関する要望などが書かれていた。
まず、結婚式を挙げる予定はなく、婚姻は公文書での手続きのみで済ませるということ。そして館へ移り住む時は、荷物は最小限にすること。これは館に生活できる備品は揃っているという理由のようだった。さらには、シシリーを迎えに行く馬車が出せないので、館へは徒歩で来てほしいと書いてあった。ヨーヌ村から領主の館までは、それほど遠くない距離ではあったが、徒歩となるとそれでも一時間ほどはかかってしまう。花嫁を一時間も歩かせるというのは新郎としていかがなものかとディクソンは思ったが、そうしてほしいというのだから仕方がない。道が整っている途中まで村の荷馬車で送ってやろうと思ったのも束の間、最後の要望は、館へはシシリー一人で来るようにというものだった。両親、親戚の挨拶などは不必要らしい。妻となるシシリーさえ来てくれれば、あとは無用だ――文面からはそんな雰囲気も感じられ、ディクソンはいやが上にも不安を覚えたが、結婚を承諾してしまった今、そんな気持ちは押し殺すしかなかった。
「……では、気を付けて行くんだぞ」
村を離れる朝、暖かな晴天の下に出たディクソンは、大きなかばん一つを持った娘を見つめ、そして強く抱き締めた。
「何かあれば、すぐに知らせるなり帰って来るなりするんだぞ」
「心配ないから、お父さん……元気でね」
シシリーは父の温もりを心に刻み、ゆっくりと身を離した。
「皆も、また会う日まで、元気でいてね」
教会の前にはわざわざ見送りに来てくれた数人の村人が立ち並ぶ。皆シシリーに世話になったり感謝している者ばかりだが、その向かう先を思うと、誰も笑顔で別れを告げることはできずにいた。
「駄目よ皆、笑って送らなきゃ」
暗くなりそうな空気を察し、ハリエットは一人笑って言った。
「ありがとう、ハル」
「こちらこそ、シシリーにはいっぱい感謝してるわ。ずっと一緒にいてくれてありがとう。結婚しても、たまには遊びましょう」
二人は笑顔でぎゅうと抱き締め合う。
「……ほらキャス、暗い顔してないで、あなたも何か言って」
ハリエットはキャスバートに近付くと、その背を軽く押した。
「キャスバートも、ありがとう」
シシリーに微笑みを向けられると、キャスバートは切ない表情をしながらも口元にわずかに笑みを作った。
「寂しくなるけど、僕は……シシリーの幸せを、祈ってるよ」
「キャス……」
シシリーは手を伸ばし、キャスバートを抱き締めた。これに少し戸惑うキャスバートは、口元の笑みを消し、複雑な表情を浮かべていた。
「……それじゃあ、お父さん、皆、行くわね」
シシリーはかばんを持ち直し、見送る皆の顔を目に焼き付けてから歩き出した。
「シシリー、幸せにね」
「おかしなことがあれば、知らせるんだぞ」
「いつでも村に帰って来ていいから」
祝福よりも心配の声に送られ、シシリーはヨーヌ村を後にした。
春の陽気で育ち始めた緑の畑を通り過ぎれば、ここから領主の館まではのどかで平坦な道が続く。この辺りにはヨーヌ村以外に人は住んでいないので、シシリーとすれ違う者もいない。鳥のさえずりや風に揺れる木立の音だけが存在感を見せていた。
四十分ほど歩くと、ようやく分かれ道にたどり着く。直進する広い道を行けばメートンという大きな町に行ける。村にない物はメートンで買うのが常識で、シシリーも何度か行ったことのある町だ。しかしもちろん今は何の用もない。目的地は直進の道ではなく、左に伸びる細く暗い道――初めて通る道にシシリーは迷わず入った。
おそらく以前は綺麗に整備されていたはずの道だが、両脇に群生する雑草が道の中央へ侵食し、覆い尽くさんばかりに茂っている。一応人が通れる空間は確保されているが、獣道と勘違いされても仕方がないような道だ。頭上も伸び切った樹木の枝が幾重にも重なり、陽光がさえぎられて常に薄暗い。こんな道の先に領主の住まいがあるとは誰が思うだろうか。
だが歩き進むと、薄暗い景色はぱっと開けた。眩しい太陽が視界に入り、シシリーは目を細める。目の前には緑の広々とした庭が広がり、その奥には二階建ての大きく立派な館があった。あれこそが領主の住む家で、これまでの事件が起きた場所でもある。そしてシシリーは今日からあそこで暮らすのだ。
手入れのされていない雑草だらけの庭を突っ切り、館の玄関の前に立ったシシリーは、大きく頑丈そうな扉を見上げてからコンコンと叩いた。ほどなくして中から人の気配がし、シシリーは肩にかかった髪を軽く直して待った。そして、扉はギイと低い音を鳴らして開いた。
「……よく来た。入れ」
出迎えた男性はシシリーを鋭い目で見るなり、そう言った。
「あの、領主のジェローム様は……?」
「領主は私だ」
そう言われ、シシリーは内心驚いた。聞いたところでは領主は現在二十五歳とまだ若く、想像では年相応の壮健な姿を思い描いていたのだが、目の前に立つ領主という男性は、服装こそそれらしいものを着ているが、全体的に痩せており、頬は若干こけている。肌艶もあまりいいとは言えず、黒い髪は散髪をしていないのか、耳が隠れるほどに伸び、前髪は目にかかってしまっている。だがそこからのぞく灰色の瞳だけは若さを忘れていないかのように力強い眼差しをシシリーに向けていた。その目力と容姿の落差に、違和感を覚えないわけにはいかなかった。疲弊し切ったようでもあり、強い意志を保っているようでもあり……一言では言い表せない異様さをその身にまとっている。そんな姿にシシリーは、皆が領主のことを死神と密かに呼んでいるのを思い出していた。
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