愛が生まれる

 俺が彼女と出会ったのは、高校時代のことだ。


 と言っても、きみは知らないだろうが、昔ひとがいっぱいいた頃の日本には、学校、という建物があったんだ。いまの私たちにはそれほど選択肢がないからあまり必要ないが、人間が多くいる社会では将来の色々な役割を自分たちが選び取らなければいけなくなる。小学校、中学校、高校、大学、って形で学校、というものがあって、十代くらいの子どもたちはその建物の中で未来について考えるんだ。色んなことを学びながら。もちろん細かく言えば、考える子もいれば考えない子もいる。高校や大学には行かない子もいるし、自宅で学習をして、そもそも学校には行かない子もいるんだけど、そこまで話し出すと終わらなくなるから、学校についての話はここまでにしておこう。


 高校に入ってすぐの頃、縦に並んだ机の前と後ろに、俺と彼女が座っていて、後ろにいた俺はよく彼女の背中を挟んで、先生が授業する声を聞いていた。


「先生」「授業」っていうのもあまり馴染みのないかもしれないな。んっ。そうでもない。あぁそうか、俺の書斎にある小説を読んで、調べたりしていたことあったもんな。だったら学校の説明も別に必要なかったかもしれないな。


 話の腰を折りたくなかった? そっか、そうだよな。

 彼女の話に戻そうか。

 席順が近くても、元々はそんなに頻繁に話す関係じゃなかった。そもそも俺は人間関係を構築するのが昔から下手で、さらに異性となんて、どうしゃべっていいのかも分からなかったからだ。


「ずっと思ってたんだけど、あなたは私と同類な気がする」

 一年生も終わる頃だっただろうか。窓越しに小雪がちらついていたのを覚えている。いきなり彼女がそう言ったんだ。何の脈絡もなく。もしかしたら俺が気付いていないだけで、何かの脈絡はあったのかもしれないけど、それは彼女にしか分からないし、もう彼女もいないから聞くこともできない。


 ただ淡々と過ぎ行く俺の日常に、派手な色が付くことなんてなかった。それまでは。だけど彼女が俺に話しかけた時、俺はいままで見たこともない色を見た。


 初恋?

 どうなんだろうな。恋か。そうかもしれない。うーん、いや、違うかもしれない。俺は他人の感情が、つまりひとの心が分からないんだ。だから生まれた時から、俺は、分からなくて当然で、周りもそうだ、と考えていた。だけど逆で、どうも特殊なのは俺みたいで、みんなは分かって当然、と思っているようだった。


「他人の心なんて分からないものだよ」と言ってくれるひとたちもいた。でも言葉ではそう口にしながら、彼らも無意識のうちに分かった気になっている他人の心があって、俺の分からなさとは隔たりがあるように感じた。


 そんな中で、唯一その言葉に隔たりを覚えなかった人間が、彼女だった。


「同類?」

「そう、同類。他者との繋がりを極端に避けている」

「そんなに多くはないよ。他人とのコミュニケーションが下手な自覚もある。だけど一応は俺だって、周りとしゃべったりしてるじゃないか」


 精一杯の抵抗だった。俺自身が、この抵抗にしっくりときていなかった。


「もちろん誰かとしゃべったりはできる。楽しそうな顔をしたり、怒った顔をしたり、悲しそうな顔をしたり。だけどそこに本気で動く心はない」

「失礼な」

 苦笑いを浮かべる俺に、彼女が笑った。


「ほら、その『失礼な』も苦笑いも、相手の反応に対して機械的に反応をしているだけ。将棋で相手の駒が動いたことに合わせて、自分の駒を動かしてる。それだけ」

「……否定はしないよ。そして同類、ってことは」

「私も、同じなんだ。機械みたいな、有無のはっきりしない心を持ってる。だから別に馬鹿にしようと思ったわけじゃない。信じなくてもいいけど」


 そんな会話があってから、俺たちは一緒に行動するようになった。心の不明瞭な俺たちの心が通い合っていたのかは分からない。無い、と割り切れず、有る、と言い切ることもできないまま、だけど彼女とふたりでいることは嫌じゃなかった。嫌じゃないなら、好意という心がお互いにあるんだろう、と思いながらも、好意という幻想を勝手に創り出して、有りもしない心を脳に信じ込ませよう、としているんじゃないか、って気もした。


 面倒くさい、って?

 知ってるよ。そんなの。俺は昔から面倒くさい人間なんだ。


 高校時代の想い出は、そのまま彼女との想い出に直結する。他にはこれと言って、印象に残っていることはない。いや、たぶんあったのかもしれないが、忘れてしまった。忘れる、というのは良くも悪くも大事な機能だ。


 特に彼女との間で、印象に残っているのは修学旅行で、京都に行った日のことだ。俺たちは不真面目ではなく、どちらかと言えば、真面目な生徒だったが、その時は魔が差したんだろうな、きっと。泊まっていた旅館を抜け出して、俺たちは夜、ただ何をするわけでもなく、鴨川のほとりを並んで歩き続けた。結構な距離をふたりで歩いたよ。周囲の見知らぬひとたちから、奇異な目を向けられるかもしれない、って不安もあったが、全然そんなことはなかった。俺たちにとって俺たちは主人公だが、俺たち以外の人間にとって見知らぬ俺たちはエキストラみたいなものでしかない。学生服も着ていなかったし、余計目立たなかったはずだ。


 確か、祇園四条駅近くまでふたりで歩いたのを覚えてる。

「同じ日本なのに、ちょっと違う場所に行っただけで、まるで異世界みたいだね。あっ、祇園四条駅だって、乗ってみる?」


 そんな話をしたからだ。どこかへ一緒に逃げよう。誰もいない、遠くへ。

 もしかしたらそんな気持ちが彼女にはあったのかもしれない。ちいさな社会がつくり出す輪にとけ込めない自身を捨てて。なんでそう思ったのか、って言えば、俺がそういう感情を抱いていたからだ。だけどすくなくとも俺には彼女とふたりで逃げ出す勇気がなく、


「やめよう。……帰ろう。きっとみんな探してる」

 と伝えた。


 たぶんあそこには見えない境界線があって踏み越えようとする彼女を、俺が引きずり戻したんだ。どちらが良かったかなんて、俺には分からない。ただ、「そうだね」と言いながら、彼女が寂し気にほほ笑んだのを覚えてる。あんな表情を俺は望んだつもりがなかったから、彼女が俺に合わせて機械的なその表情をつくったわけではない、と俺は信じてる。


 あそこで別の道を選んだら、俺たちの進む道は変わったのか。たまにそう考える時がある。多少は変わったかもしれないな。でも最後に辿り着く場所は変わらない。人間にはいつだって最後に、死、がある。


 彼女の病気について知ったのは、高校三年の時だ。

 彼女自身がいつ知ったのかは分からない。


 病名?


 俺のただの想い出に賢しらな用語は要らないよ。仮に正しくはなくても構わない。心臓に薔薇が咲こうが、肺で睡蓮が生長しようが、ね。


 難病、美しい少女、余命、悲劇。言葉を取り出してみれば、何度見たか分からないような物語だ。チープな悲劇は、まるで喜劇だ。だけど物語を逃れて現実になってしまえば、そして当事者になってしまえば、やっぱりそれは、どこまでも悲劇だ。


 最後の会話の時、彼女は言った。

「人間の心は分かった?」

「いや、全然」


 そう言う俺に、彼女が笑った。


「私は分かったよ」

「そっか」

「別に分からないままでいい、ってね。たとえば」彼女が指で俺のほおをつたう涙を拭った時、はじめて俺は自分が涙を流していることに気付いた。「それが真実であってもなくても、そこに泣いているあなたがいる。問題は私が、どう捉えるか。それだけ。……ねぇ、あのさ」

「何?」

「最後、すこしの間だけで良いから、私の恋人になってください」


 その話をした数日後、彼女は逝った。


 んっ? どうした。

 あぁ結局、人間の心は分かったのか、って?

 まるで、おばあちゃんみたいなこと聞くんだな。


 どうなんだろう。


 たぶんその頃は分からなかったんだけど、いまになって思えば、こういう感情は誰にもあって、もしかしたらありふれた、人間臭い男だったのかもしれないな、俺は。自分自身を、そして互いを機械だ、と言い聞かせることで、日常の、青春の光に隠れた苦しみから逃れようとしていたのかもしれない。まぁ結局は、分からないんだけどな。きみのおばあちゃんと同じように、俺もその答えを選び取ることにした。


 きみが首を傾げてる理由はもちろん分かるよ。でも俺の口から言うべきではなく、きみ自身が気付くべきだろう。

 高校を卒業した後、十年くらい経った頃だったかな。一般社会に人間型のAIが浸透してきた世界で、俺はその機に乗じて、一体の人型AIと生活をともにすることにした。


 それが、彼女、だよ。

 これは俺の恋人でもあり、きみのおばあちゃんだ。もちろん彼女の許可なんてない、俺のエゴの塊だ。


 残念ながら、もう動くことはないけれど。

 きっと俺も、もうすぐ動かなくなる。

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