私が生まれる

サトウ・レン

AIが生まれる

 私が生まれるずっと前、大昔にそれはAIと呼ばれていた。人工知能なる意味を持っているそうだ。はじめて見た時から、それは物言わぬガラクタだった。


「彼女は、俺の恋人だった」

 外見だけの話をするなら、確かに彼女だろう。だけど彼なのか彼女なのか、性別を本来持たないはずのガラクタを、祖父は、彼女、と呼んだ。私も祖父の表現に合わせて、彼女、と呼ぶことにしているけれど、すこしだけ悔しさがあったのも事実だ。


 まるで彼女が恋を知っているかのように扱う、祖父のまなざしが温かったからだ。私は父も母も知らないが、きっと両親がいたはずで、父を生んだ祖母もいたはずだ。結局祖父は彼女ではなく、人間の女と結ばれたはずなのに、いつまでも昔の恋を引きずっていていいのだろうか。私は顔も知らない祖母に同情してしまった。


「何を怒っているんだ」

「怒ってない、全然」

「怒っていない人間は、そんな返しはしないけどな」

「でも、怒ってない、全然」

「そっか」

「そうだよ」


 言いながら、なんで私はこんなにも悔しがっているのか、自分でも不思議だった。私の心の中に、人間は人間同士が結ばれるべき、という古臭い考えが根付いていたからだろうか。


 あるいは、

 まるで恋も知らないような年齢で、時代から取り残された場所で暮らしている私の醜い嫉妬だろうか。


「しかし、いつも思うが人間にはもう合わない環境だな」

 よく祖父は、そう言った。


 私たちはいま、地球の中でも、さらに僻地に住んでいる。ここはかつて日本と呼ばれていたそうだ。


 じゃあいまはなんと呼ばれているのか。私は知らない。一億近い人間が住んでいた時期もあったらしい。絶対に嘘、って思う時もあるけれど、嘘、と言い切れるほど、私はこの世界の過去も、現状さえ知らない。もう大部分が荒廃してしまった世界で、人間としての営みを続けようとする者など、当時の一割もいるかどうか、というところみたいだ。これは祖父が言ったことだ。でもたぶん冗談か間違いだと思う。たぶんもっといない。全然いない。だって私は祖父以外の人間を見たことがないから。見たくはない。見たら恐怖で動けなくなりそうだから。


 祖父の目を離れた場所へと、足を一歩、踏み出すなんて、そんな怖いこと、私にはできない。


「ここは東京って名前で、そう呼ばれていた頃は、大都市のひとつだったんだよ」

 私たちはそんな元東京に、倉庫のような平屋を置き、ふたりで暮らしている。


「大昔の話でしょ」

「そんなに昔でもないさ」


 祖父は自身の生まれる前の歴史を語っているわけではなく、東京、と呼ばれていた頃からの人間だ。だからこそ私の言葉を否定したが、祖父も大概長生きなので、やっぱり私からしてみれば、大昔だ。年齢は百を超えてからはもう数えていない、と言っていた。


「未来を求める者たちは宇宙へと飛び立ち、過去に縛られた者たちは地球に残った」

 どういう経緯で、いまの地球の有り様があるのか、を何度か祖父は私に語ってくれた。祖父のフィルターを通した形でしか、私は知らない。それはきっとところどころに事実と違う部分があり、本当に信頼できるものかどうかも分からない。だけど私はあまり事実を知る必要がない。私が会う人間はこれまでも、そしてこれからも祖父しかいないのだから。私と祖父さえ納得していれば、別に何も問題はないのだ。


「おじいちゃんは、過去に縛られているの」

 肯定する、と分かっている問いを、私は投げかける。


「残念ながら、な。時代に取り残されるほうを、俺は選んだ。使われなくなる、と簡単に世界は古びて、色あせていくな」はは、と祖父がちいさく笑う。このすこし虚しさの残る笑い方が好きだ。「俺たちみたいな、とりあえずきょうのことしか考えられないやつは生きられないんだ。火星だのなんだの、では」

「火星、ってどんな感じなのかな」

「行きたいなら、教えようか」

「えぇ。別にいい」祖父がいれば、私はどこで暮らしてもいい。でも言わない。なんか気恥ずかしい。「向こうに行ったから幸せ、って限らないし、もしかしたら私やおじいちゃんにとってはこっちのほうが幸せかもしれないよ」


 とはいえ、すでに機械が周りにあって当たり前の人間に、完全な自給自足の、いわゆるスローライフ的な生活が耐えられるか、というと、きっと耐えられないだろう。私は祖父しか知らないので、これはただの祖父の受け売りでしかないのだが。


 私は生まれた時からそれが普通のことだったので何も気にならないが、きっと火星なんかにいる彼らは、私には想像も付かないような科学技術の発展した世界を生きているのだろう。そう考えると、この世界に馴染める祖父の適応力は驚異的だ。


 だけど……、

 もうすぐ祖父は、私の目の前からいなくなる。


 人間は病魔になんて勝てないから、彼女みたいに動けなくなっても、形だけは残ったまま、ということさえ難しい。祖父がいれば、私はどこにいてもいいが、祖父がいなくなれば、私はここにいる理由もなくなってしまう。


 祖父は私の心に気付いているのかは分からないが、病気のことを隠している。お医者さんに行くわけでもないので、何の病気かは祖父自身も分かっていないはずだ。祖父が言わない限り、私からは言わない。


「お祖母ちゃん、ってどんなひとだったの?」

 私は両親についての情報もまったく知らない。でもあまり聞きたいと思ったことがない。予感、なのかもしれない。聞いたら駄目だ、という変な予感があり、私はおのれの心に忠実に従っていた。


 だけど祖母に関しては、私は何度か祖父に、話を聞きたいとせがんだ。両親よりはすこし離れた関係だから、きっと大丈夫だ、と思ったのだ。


「さて、どんなひとだったかな。彼女は」

 もう忘れてしまった、なんて表情をして、祖父は話をよくはぐらかした。ここまでがいつものやり取りで、もちろん祖父が何も忘れていないと分かっていたが、私もさらに深く聞こう、とはしなかった。


 私はまた同じことを聞いた。どうせ断られるだろう、と思いながら。


「そうだな……」

 祖父はすこし悩んだ素振りを見せたあと、「分かった」とちいさくつぶやくように言った。私はその反応がすこし悲しかった。もうすぐ私の目の前からいなくなる、というつらい想像を補強するような感じがあったからだ。


 何も言わなくていいから、死なないで。お祖父ちゃん。


 そんなふうに言ってみたくなったが、困るだけ、と分かっていたので何も言わない。その代わり、これから祖父のする話をしっかりと聞こうと思った。

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