キクチャン/ファイナイト・ダッシュ

 テンポの悪い足音がどこか遠くの国の音楽のように聞こえた。


 同時に、いくつかの風景を回想した。ここから先の世界に僕を知る者は誰もいない。

 そう、なにもないところから、全てを始めなければならない。文字通り、生まれたまま、生命を得たばかりの赤子のように。


 振り向かなかった。


『死にたくないんでしょう!?』

『……、』

『逃げるな、自分の結論から!!』


 ひどく鮮新せんしんな響きだった。

 そんな言葉を口にする人は誰もいなかったし、そう思う人だっていなかったはずだ。


(……死にたくない。僕だって、死にたくないんだ!!)


 自殺。最も完成された死のカタチ

 あらゆる死を網羅した都市マヤパンや、その前任であるチチェン・イツァーの中でも、常に最上位に位置づけられた尊ぶべき最期おわり

 それを拒絶する者がいるとすれば、それは最上級の愚者でしかないだろう。


 頭では分かっていた。解っているつもりだったのだ。

 どれだけサバンナが広く見えても、見渡す限りの大地に、僕を受け入れるものなんてないのかもしれない。


 だけど、どうしようもなく痛快だったのだ。

 感情を手段が巡り合った。あの、全てをひっくり返せると確信させてくれる人間と出会ったこと、その状況そのものが。

 そして何より、チョップの言葉が。


『死にたくない。……あぁ。その言葉、忘れないから』


 太陽の熱をはいで感じる。


 目前のサバナ。

 丈の短いはずの数々の草本は、群体として夕日を大きく包み込んで――底知れない夜闇の片鱗を、既に匂わせていた。


 ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ――


 雨が降ってきた。

 道は、いや足元はどんどんぬかるんでいく。

 足がもつれ、体温が水に混ざって溶ける。


「ハッ、はッ……」


 拍動だけが加速し続け、体は重い肉の荷物に成り下がった。

 吸っているのか吐いているのか分からなくなって、脳は疲労に溺れ沈んだ。

 痛みをどこで感じるのか曖昧になる。

 苦痛や熱が肺に集まり、陽極泥じみた塊を作り上げる。



 夜もじき深い。


 障害物がなかったのが救いを言えば救いだった。

 そう、


「◼◼◼――」


(あ?)


 管に空気を吹き入れたような音、だった。

 自身の肉声だと理解するには、その振動数はいささか大きすぎた。


(―――ぁ。 、 


 きっとかみさまだ。かみさまが追いかけてきている。

 


 ゆっくりと冷静に努めているフリをして、自分の体をまさぐり確かめる。

 


「◼◼◼……」


 左手を動かす。最初は異常の見つかっている喉だ。……空洞がある。空気が物理的に漏れている。


(……嫌)


 そこから上へ、首を通って頭部へ。左手の伝える情報からは、呆れるほど起伏の激しい形状が想起された。トウモロコシをヘラで潰したように、へこんだり飛び出したり、原型なんてものは残されていなかった。


 喉の肉を上下から引っ張って、穴を塞ごうとする。しかしその部分は石灰岩のように硬直していて、僕の握力程度ではピクリとも動かなかった。仕方がないので、右手の一部を千切って貼り付ける。


 ぺたり、と。


「・・・ぁ、・あ」


 どこまでも有り得ない現象を最も近くで見続け、僕は半ば諦めていた。

 もう、この体は、本当の本当に間違いなく、助かる見込みのない、病人のものであり――、


「いや、むしろ。僕はバヶ**……」


 またか、と思ったが、今度は勝手が違った。顎が溶けていた。さっきとは違い、これを防ぐ術が僕にはわからない。


(叫ばせてもくれないのか……はっ)


 ふくらはぎに力を込め、きっちり180°転換する。

 夜闇の中で目指すものは唯一つ。

 イシュタム神がいる、故郷イシャンだ。


********ぜったいにいきてやる


 命には余裕がない。

 それは時に手段を奪い、目的を枯らし、力に対して敗北させる。

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