アクバル/日没
逆光だった。
カカオの姿は輪郭がぼやけてさえいた。
私は懸命に目を細めて、その表情を読み取ろうとする。
夕焼けの色。
私は彼から目が離せなかった。
それは他の村人と視線が合うのを避けるためではなく。
単に、彼を突き放したかったからだろう。
瞳を冷たく見据え、口を閉じさせようとしたのだ。
なのに。
「…………助けて」
1音1音がまるで無限の時間の中を滞留しているようだった。
その無限が尽きる前に私は彼の手を取った。
耳を寄せて、確か、こう
「任せて」
「……ちょっと! 困るなーカカオ!! 筋トレはよそでやりなよ! まったく……」
「ごめん」
自分で思うのだが、いま、あまりに笑みが作り物過ぎて、刻んだシワがすごく影にならなかっただろうか。いや絶対になった。ちょっと怖い人みたいになった!
「筋トレ……?」
「はい。そういう年頃ってきっとあるんですよ。ほら、彼は細身ぎみですし……」
「あんたは?」
「ああ。自己紹介が遅れましたね。ボクの名前はチョップ。先ほど、畑をお手伝いしたりもしたのですが……まぁ、目的のない旅人です」
幸いなことにカカウの樹には傷一つない。
如何に何度も倒れていたと言えど、その不可思議な現象を証明できるのはなにもない。村のみんなで育てた樹に実害がなかったのなら、彼らの怒りも収まるだろう。
いや、或いは。重要なのは、樹の使途の方なのか?
「お騒がせしました皆さん。すぐに帰ります、それではまた明日ー!」
首筋から冷や汗がダラダラと流れる。心を落ち着かせるため、私はカカウの実の首飾りを
まだ村人の何人かは、爪のような鋭さを帯びた視線で私達を観察している。
「かみさま」ある者はそういう風に口を動かした。
私は目を伏せ、夕日の熱に触れた拳を握りしめた。
一つの思いを明確にするために。
この少年を、助けるんだ。
――――――― ―――――― ―――――― ―――――
「ぶえ!」
「ああカカオ、
「いま」
「あ?」
「あしひっかけたろ!」
「……いや?」
少し前までペックという少年とよく遊んでいた。僕より少し早く生まれたそいつは、まあひどいやつだった。
「カボチャうめー!! いくらでもいけるぜ!」
「いくないくな。……おい、僕の分は?」
「あれ? 食べてなかったの?」
「……ペック。もし肉獲ったときもお前にはあげないから」
「はっはは、そりゃ実質ノーデメリットじゃねーか!」
僕にとってもペックにとっても、互いは多くの友人の一人に過ぎなかった。
記憶する価値もない日常。特別でもなんでもなかったあの日。
ハリケーンの日だった。外に出てはいけないと母に言われながらも、それでも僕にはやることがあった。
カカウの樹。黒く瑞々しく成長した枝から吊り下がるロープ。
その環に首を通したペックの姿。
「…………、」
ぼんやりしていると思われたのか、近くの大人が僕を押しのけた。彼がどうやって死体を下ろしたのかは覚えていない。
『かみさま』
ペックは目を瞑って死んだ。開こうとしてみたが、既に体は硬直していた。
『人は死んだらどこへ行くの』
『冥界に行くわ。地上のずっと下にある、真っ暗なところよ』
『……』
『でもね、正しい死に方をした人は別よ。そういう人は大きな、大きな樹の陰でゆっくりと休むの』
仰向けになったペックの結ばれた口から雨水が
『正しい死に方って?』
『勇気のある死。人に何かを残せる死』
「――自殺って、こういう感じなんだな」
楽しい事ばっかりして生きてきた。そうすると神様が喜ぶと聞かされていたし、何よりその方が楽しいからだ。
友達もたくさん作った。草原で遊んで、トウモロコシを作って、辛いことなんて考える暇もなかった。
だから、その日が楽しみだった。自分より先にそれを迎えるペックを
恐怖が先立った。自分が間違いへ突き進んでいる感覚。誰かに言わなければ、誰もそれを正してくれない。どれだけ多くの繋がりを持っていても、なんにもならなかった孤独。
大地を握りしめて、熱い吐息を風に溶かす。
「――――生きてやる…………!」
――――――― ―――――― ―――――― ―――――
「イシュ・タム神」
ぽつりぽつりと、知識を確かめるように。私はカカオに話しかけた。
「自殺と月食を司る女神。
「……イシュタム」
「かみさまっていえばイシュタムを指す状態なんでしょ? いまの
「ありがとうチョップ」
「あぁ。こっちのことはボクに任せておくんだな。カカオにだけ言うけど、実はボクって貴族の娘だから」
「、き!?」
「ほいほい、行けー」
「……そりゃすごいね。ふっ、あはは。うん、僕も行くよ」
そしてカカオは走り出した。
死のために生き、死を肯定する世界で育ちながら、死に疑問を呈した少年。いや、もしくはもっと浅はかな感情かもしれない。
死にたくない、と彼は言った。
その言葉を忘れないから、と私は応えた。
もうじき夜明けだ。私も自分の戦いを始めよう。
――――――― ―――――― ―――――― ―――――
例のカカウの樹には
(数は……二人。周りに目立つ
木陰からも全方位が見渡せるようになっている。単純な奇襲はできない。
だから。
「……っ」
「誰だ!?」
「あ、足を
「はあ!?」
防人は互いに顔を見合わせた、だが、片方に促される形でもう片方は私の方へ近づいてきた。
「背負うぞ!?」
「ああ……ありがとう、ございます……。本当に、なんと言えばいいか」
「困ってる人を助けるのは困ってない人の義務だろ。気にす――ゅづ」
「!? シュイピル、どうした!?」
喉を切るのではなく、突き刺した。最も柔らかい部分を、一撃で。
血を吸った得物は――黒曜石の、ナイフ。カカオが石斧から取り出して私に託した、この大陸で最上級の武装。
「貴――様ァァァァア!!!!」
シュイピルと呼ばれた男の背中を滑り降り、遺体をその場に放置して距離を取る。残った防人は彼の処理を優先し、少しの時間が稼げる。
(これ)
アガベで編んだバッグ……マヤパンから持ってきたカバンから鉱石を取り出す。黄銅鉱。金と騙して売ろうと思っていた渾身の一品だ。
「せいや!」
血を拭いた黒曜石を火打ち石に。黄銅鉱を火打ち金に。打ち合わせて点火する!
何度か火花が散り、ようやく一つの草に光が灯った。
「そして」
アガベのネットバッグ。これを火口にし、火種を増幅させる。
「! もうひとりが来るな」
害意をむき出し、荒い拍動を抑えもせずにもうひとりの防人が走ってくる。
「上等」
火を燃え移らせたのはカバンの中、その底。まるで火を運ぶみたいだ。だが。
「フーッ……」
(あの人、多分火を振り回した程度で追い払える獣じゃないからな)
全身が丸焦げになっても私に噛み付いてきそうな形相――が、手の届く範囲に侵入してくる!
「お――らあああ!」
対して、私はその迎撃を考えなかった。目標を違えてはいけない。ここでの最適解は、私の生存ではない。
「なっ!?」
「そもそも、何のために火を起こしたと思ったのさ」
……本当に、ジャガーが
村人に守られ続け、悲劇の胎母として崇められたカカウの樹は、破滅の白い光を帯びた。
「くっ!」
「………………、」
防人は私を地に組み伏せた。体重を乗せて肺を圧迫され、
(もう会えないな、カカオ……)
最後に、
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