職場にて
エアコン消した。ガスも消した。窓の鍵も閉めた。電気ケトルのコンセントも抜いた。
「ええと、後は・・・」
桃花は家の中をぐるりと見渡す。――――よし。
一つ頷いて、玄関でスニーカーを履く。
バッグを持って、
「行ってきます!」
ドアを開けたら外は軽やかな空気が流れていた。
駅前のバス停で会社行きのシャトルバスを並んで待つ。
桃花はバッグの中からカバーを付けた文庫本を取り出して、栞が挟んであるページを開いた。
友達が
これから仕事が始まるし、同じ職場の人同士で乗るバスは気まずいことこの上ないが、それでもこんな隙間時間には楽しい事がしたい。
一日の中に、楽しい時間を少しでもねじり込ませたい桃花である。
そうしている内にシャトルバスが到着し、並んでいた人々の列が少しずつ前に進んで行く。
バスの中に入ると、よく知っている同期が座席に座っていた。
「まひろ、おはよう」
「あ、桃花。おはよう」
挨拶を交わし、「隣いい?」と聞けば「いいよ」と言ってもらえたので隣の席に座る。
「今日忙しそうだね~」
「うん、やだな~」
何気ない会話を交わす中、バスは職場へと進んで行く。近付けば近付くほど気持ちが沈んでいく。――――ああ、
(苦しいな)
でも行かなければ生きていけない。生きていく為に行かなければいけない。
ならば生きるとは何だろう。正直よく分からない。
分からないままわたしは生きていく。苦しいと呟きながら。
桃花の職場はコールセンターである。
今日も今日とてお客様から電話がかかってくる。問い合わせ、手続き、クレーム、迷惑電話。
「お電話ありがとうございます、〇〇〇株式会社の白石でございます」
はきはきと明るく、口角を上げて挨拶を。
電話の向こうの相手にこちらは見えていなくても、精一杯の笑顔で話す。
電話を切った後に気持ちが温かくなってもらえるような、そんな対応を目指す。
「白石が承りました。季節の変わり目ですので、温かくしてお過ごしくださいね」
そこまで話すと、電話が切れる。ふう、と息を吐く。
一件の対応が終わってもまだまだ窓口に繋がるのを待っているお客様がたくさんいる。
パソコンで後処理をしてまた素早く次の電話が受けられる状態にする。
延々と、この繰り返し。
(この仕事が嫌で辞めていく同期がたくさんいたけれど、わたしは電話対応そのものは苦痛じゃない。わたしが嫌なのは・・・)
コツ、コツ、コツ・・・。高圧的なヒールの音が近付いて来る。
その音はゆっくりとやって来て、桃花の背後でぴたりと止まった。
背中に、からみつくような視線を感じる。どくどくと心臓が鳴る。怖い。けれど電話の先にはお客様がいる。誠実な対応をしなければ――――集中しなければ。
(それでも、わたしはこの人が怖い)
必死に電話対応をする桃花の背中を、その人物はただじっと見下ろしている。
そんな光景を、少し離れた場所からテルは眺めていた。
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