3
「……さっき、私が転びそうになった時助けてくれたでしょう? あの時、思い出したの。始めてメリルと会った時のこと」
うん。俺もだよ、リフィ。
心の中でそううなずけば。
「初めてメリルと会った時、最初は私と一緒にいるのがつまらないのかなって、機嫌が悪いのかなって思ってた。ずっと何も話さないし、そっぽ向いてるし。……でも、私がつまずいて転びそうになった時」
顔を上げたリフィと、目が合った。
その顔はさっきまでより、随分やわらかな印象に変わっていた。
「さっきみたいに支えてくれたでしょう? とっさに手を伸ばして。そしてその後ずっと、私が転ばないように手をつないで、ゆっくりゆっくり歩いてくれた」
あの時のことを思い出したのか、リフィの顔にふわりと微笑みが浮かんだ。
「あの時、この人となら大人になってもこうして手をつないで歩いていけるかもって、そう思ったの。いつか大人になって結婚して、年をとってもずっと」
「え……?」
今度は俺が口をぽかんと開く番だった。
「なのに、婚約してからメリルは私といてもいつもつまらなそうで、不安だった。もしかして私に興味がないのかなって。親同士が決めた婚約だから仕方なく我慢しているのかなって……。だからあの時、メリルが私がどんな子かわからないって言った時思ったの。ああ、私にきっと興味がないんだなって……。それで私……」
そんなはずない、と言いたかったけど、俺の態度はまさにそう取られても仕方のないものだった。反論の余地もない。
「ごめん……。本当に、ごめん。あの時はあいつらにリフィを取られたら嫌だなって思ったら、かわいいって言えなくて……。それにリフィの良さを一言でなんて絶対に言い表せないって思ったら、言葉が出てこなくて……」
「いいの。あれは私が勝手に思い込んで、勝手にショックを受けただけだから。メリルは悪くない。タイミングがちょっと……悪かっただけで」
リフィはふと真剣な顔になって、こちらをじっと見つめた。
「あやまらなきゃいけないのは、私もなの。不安ならちゃんと聞けばよかった。私のことをどう思っているのかって。妹なんかじゃなくて、ちゃんと婚約者として大切に思ってくれているのかって……。でも嫌われていたらと思うと怖くて聞けなかった。だから、私も一緒。……ちゃんと向き合わなくてごめんなさい」
「リフィ……。それって……つまり……」
俺は、ちょっとは期待していいんだろうか。
リフィもずっと俺のことを思っていてくれたって、そうとってもいいんだろうか。
「手紙もプレゼントも、本当は嬉しかったの。だって、ちゃんと忘れずに欠かさずくれたでしょう? 手紙だってぶっきらぼうだったけど、メリルがどんな毎日を過ごしているのかとか今どんな勉強をしているのかとか、ちゃんと教えてくれたし」
ぶっきらぼうで、ごめん。近況報告みたいな味気ない手紙でごめん。
そんな手紙に毎回丁寧なかわいらしい字で返事をくれて、本当にありがとう。
申し訳なさに体を縮こまらせる俺に、リフィが小さく笑った。
「私も好き。メリルのことが、好き。初めて会ったあの時に、好きになったの」
その笑顔は、ミコノスの花の下で微笑むあの時によく似ていて。
「え……それって。リフィ……」
リフィの口から聞かされたその告白に、今にも体ごと空に舞い上がってしまいそうな気分になる。
嬉しいなんて言葉じゃ、とても言い表せない。
「リフィ……。俺……俺なんて言ったらいいのか。すごく……すごく嬉しくてもうなんか……」
次の瞬間、鼻の奥がじん、と熱くなった。
あ、まずい!
そう思った時にはもう遅かった。
「メリルッ! 鼻から血がっ……!」
リフィの叫ぶ声が聞こえた。
俺は鼻をとっさに押さえながら、生温い液体が鼻の下をぐんぐん濡らしていくのを感じていた。
――鳥の声が聞こえる。
ああ、幸せだ。そう思った。だって今俺がいるのは。
「ようやく止まったみたい、鼻血。気持ち悪くない? メリル」
リフィの優しい声が、上から降ってくる。
その幸せに、酔いしれていた。
リフィがそばにいる。こんなに近くに。
しかも、俺の頭はリフィの膝の上にある。こんな幸せがくるなんて、思っても見なかった。
夢を見ているのかもしれない。そう思うくらい、幸せで。
だから、自然と口から言葉がついて出た。
求婚の言葉が。
「リフィ……?」
「なぁに?」
「俺……、過去も今も未来も、リフィと一緒がいい。この先の人生も、ずっとリフィと一緒がいいんだ。だから、俺と婚約をやり直してほしいんだ。許してもらえるように、何度でも頭を下げに行くから……」
自分の言っていることが、求婚以外の何物でもないことにしばらくして気がついて。
「……あっ! えっと、今のは……あの……」
「えっ?」
いや、求婚すればいいじゃないか。
好きだってようやく打ち明けて、リフィからも好きだって言われて舞い上がって、鼻血を出してぶっ倒れて。
滅茶苦茶カッコ悪いけど、でもこれが俺なんだ。
カッコ悪いのなんて、今さらだ。
なら――。
俺はがばり、とリフィの膝から飛び起きて、しっかりとリフィの目を見つめて向き直る。
「リフィッ!」
「はっ、はいっ!」
リフィが突然飛び起きた俺に、驚いている。
「俺は、リフィを幸せにするためになんでもする。きっとこれからも俺はカッコ良くなれないし、不器用で口下手なままだろうけど、でも一生かけて君を幸せにできるよう努力する。だから、俺と結婚してください!」
婚約者だったリフィに好きだとも言えずにデートにも誘えず、五年もの時間を無駄にしたばかな男だ。
でも、誰よりもリフィのことが好きな気持ちだけは自信がある。
絶対に誰にも負けない自信が。
鼻の穴にハンカチを詰めた情けない姿のまま、俺はあらためてリフィに求婚した。
そして、その答えは――。
リフィはまだ涙でキラキラ濡れた目をまん丸にしながら、顔をさらに真っ赤に染め、そして大きくうなずいた。
「……はい! 喜んで!」
リフィの顔に花開くような満面の笑みが広がる。
その瞬間、ふわり、とミコノスの花の甘い香りが辺り一帯に吹き抜けた気がした。
少し日の陰りはじめた森を、皆のいる方へと二人で歩いていく。
そろそろガーデンパーティもお開きの時間だ。
気持ちが通じ合ったてもやっぱり、俺とリフィは言葉少なで。でも手はそっとつながれているあたりは、大きな進歩だと思うんだ。
それに以前は会話がないとどこか焦ってしまっていたけれど、今はこの沈黙すら心地良い。
幸せを噛み締めながら、そっと隣を歩くリフィの顔をうかがえば。
「……っ!」
ばちりと視線が合って、互いに顔を真っ赤に染めてうつむいてしまう。
「今度、デートに誘ってもいいかな?」
「うん……! 楽しみに待ってる……!」
なんだかくすぐったいな、すごく。
世の婚約者同士っていうのは、皆これを普通にしているのか。すごいな。
そんなばかなことを考えながら、二人並んで歩く一歩一歩を噛みしめる。
そこに聞こえてきた聞き覚えのある声に、俺は顔を上げた。
「おーいっ! メリル、リフィちゃぁん!」
遠くでリードが、ぶんぶんと大きく手を振っていた。
「うまくいったんだなっ! 良かったなぁ!」
きっとあの様子じゃ、皆に顔を見せるなと言われたことなんてすっかり忘れているに違いない。やっぱりリードはリードだよな。
少し心配になって隣のリフィを見てみれば、その顔には薄っすら嫌そうな色が浮かんでいて。
「……くっ! 実は今日のこのパーティの招待状は、リードとあの時一緒にいた友だちが皆で協力して手に入れてくれたんだ。今度リフィにも紹介するよ。皆良い奴ばかりだから、リフィもきっと気にいる」
思わずリフィの表情に笑いをこらえられなくて吹き出すと、リフィの頬がぷくっとふくらんだ。
そのかわいさに一瞬鼻の奥が熱くなった気がして、慌てて鼻を手で覆う。
「っ! もしかして、また鼻血?」
リフィが慌てて手で俺の鼻を押さえる。
「いや、……大丈夫。多分……」
まさかリフィがかわいすぎてつい鼻血を吹きそうになったとも言いにくくて、俺は苦笑するしかない。
よく見ればリードの後ろには、リフィと一緒にいたあの青年もやれやれといった顔をして立っていた。
俺たちの話が終わるのを、邪魔しないようにずっと待っていてくれたんだろう。
つまりまぁ、あれだ。
すべては単なる思い込みとか、ちゃんと大切な相手に向き合わなかったことからくるすれ違いだったってことだ。
こうしてちゃんと話をしてみれば良かったんだ。ずっと目の前に、その大切な誰かはいるんだからさ。
「……リフィ?」
「なぁに?」
一瞬足を止めて、リフィに向き直る。
きょとんとした顔をして同じく足を止めたリフィは、そのきれいな薄茶色の目をこちらに真っ直ぐに向けている。
「どうぞこれからもよろしく。リフィ。末永く」
そう言うと、リフィの頬がさらに赤く染まり嬉しさを抑えきれないように口元を緩めてはにかんだ。
その顔がとびきりかわいくて、愛しくて。また鼻の奥がツンとして。
「……はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
初めて会ったあの時、リフィの小さなちょっと冷たい手を握った時に感じたように。
守るよ、ずっと。
たとえ無力でも、不器用でも、カッコ悪くても。
見つめ合う俺とリフィを、リードが冷やかす声が聞こえた。
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