別れに向けた唯一の手段

西野ゆう

第1話

 彼女との付き合いが始まったのは、高校に入学して二週間後。放課後の音楽室で隣に座った時から。

 僕は持ち慣れない曲がりくねった金属の筒、その持ち方から彼女に教わった。

 ビロードが張られたケースから出したばかりのそれは、驚くほどに冷たい。右手の親指の付け根を管に、小指をフックにかけ、中の三本の指を三本のピストンの上に軽く置く。そして、左手で冷え切っている三本のシリンダーを包み込む。

「シュータ君、ここ。ここの穴に薬指を入れて」

 左隣に座る彼女の、アイラの手が僕の手の上に重ねられ、直前まで押し付けていたマウスピースのせいで少し盛り上がった彼女の唇が、僕の耳元で動いて、彼女の手と一緒に僕の心をくすぐった。

 胸まで伸びた髪を左肩の前でひとつに結び、細い首筋を僕に見せつけるように露わにしている。

 冷たい金属に熱を奪われている僕の手が、じわっと汗ばむ。

「息の強さより、速度を意識してね」

「アイラ、分かったから、ちょっと離れてくれないとやりにくい」

 僕の赤らんだ顔をどういう気分でだか愉しんでいるに違いないアイラが、最後ににんまりとした顔で身体を僕に一瞬押し付けた後、ようやく僕の望み通り自分が座るべき椅子に座り、視線を譜面台に向けた。

 ホールの舞台ほど広くない音楽室。トランペットを吹く僕たちの後ろには、小さい穴が行儀よく並んだ壁しかない。

 一番後ろだから、目立たないと言えば目立たない。しかし、指揮台を中心点とした扇型に並んだ部員。そのうち低音部を担当する木管楽器を首から下げた先輩とはたまに目が合う。

 先輩はアイラとは逆に、長い髪は右肩の前で纏めていた。楽器と身体との間でクッションの役目を担っているようだ。

「イチャつかないでよね」

 そんな目で何度睨まれたことか。

 学校行事で何度か演奏をする吹奏楽部。定期演奏会は自分たちが楽しむために好きな音楽を奏でる。コンクールは三年生のケジメとして出場するだけで、そこに地方大会を突破しようなどという目標はない。

 それでも、地域や保護者からの評判は悪くない。何より、演奏している僕らや、指揮棒を振る顧問が楽しんでやっている。

 そんな能天気な部活の中で、能天気に彼女との付き合い、或いは突き合いを続けていた僕だった。

「アイラ、来月の自衛隊の映画音楽コンサート、観に行かない?」

 二年生になって迎えたコンクール終了後、楽器を片付け、先輩たちを送りだした後、つまり、部活の中では最上級生となった時、僕はアイラを誘った。校門をふたり並んで出ながら言った誘いの言葉を言い終えるより若干早く、アイラは口を開いた。

「無理」

「なんで?」

 僕も負けじと彼女の答えを予測していたかのように次の質問をぶつけた。

「予定あるもん。予定なかったら、こっちから先にシュータを誘ってたよ」

 今度は彼女が僕の続く「何の予定?」という質問をしにくくなるような答え方をした。そして言いながらいつものように身体を寄せてくるのだ。上目遣いで僕の反応を愉しみながら。

 ただ、僕にも一年と三か月の間に免疫ができている。その程度で顔を赤くしたりはしない。……と思う。

「ごめんね。もしかして、もうチケット買っちゃってた?」

「いや、まだ。返事がオッケーだったら、一緒にいつもの楽器屋へ買いに行こうかと思ってたけど」

 僕は駅までアイラの横を歩きながら、彼女の方に何度も視線を向けた。だが、コンサートへ誘って以降、一度も目が合うことはなかった。ようやく目が合ったのは、駅の改札を抜けて、逆方向に帰る彼女と別れの挨拶を交わした時だった。

「じゃあ、またね」

「ああ、また」

 ホームに降りた時には、既に彼女が乗る電車が到着していて、彼女がどの車両に乗ったのかも知ることもなく、電車は彼女とその他多くの人々を乗せて、走り去った。

 やがて見えた向かいのホームは、初めから人なんか居なかったかのように、平らで、無機質で、灰色だった。

 僕の心も、初めからアイラなんか居なかったかのように、平らになっていた。

 その平らだった心が、あんなにもいびつになったのは、一人でもやっぱり聴いておきたいなどと、コンサートを観に行ってしまったからだ。

 たまにテレビでも見かける映画評論家の司会と、バンドの背後のスクリーンに映される映画のワンシーン。そして、圧倒的音圧で腹の奥まで響く音楽。

 ミュージカル映画のメインテーマの演奏では、司会者が観客へ歌うよう促すと、会場が一体となって盛り上がった。

 それまでステージ上だけを淡く照らしていたライトが、客席にも向いた。

 ああ、だからあの時彼女は僕に確認したのか。もうチケットを買ったのかどうかを。

 見たくない。見たくないのに視線を外せない。

 アイラと、バリトンサックスを担当していた三年生。練習中、たまに目が合っていた先輩。アイラと左右対称に同じ髪形をしたひと。

 愛の歌で会場が盛り上がる中、ふざけてか先輩がアイラの首筋にキスをしたのが見えた。くすぐったそうにアイラは肩をすぼめ、その直後、先輩の首筋にキスを返していた。あのちょっとふくれた唇で。

 そのあと、アイラはコンサートの最後まで僕の存在には気付かなかった。

 一方僕は、何の曲が演奏されたのかも覚えていないほど、心をきれいに抜き取られていた。

 心を失った僕は、会場の外で彼女を待ち伏せることに何の躊躇いもなかった。夕焼け空もただの色付いた空にしか見えていない。

「……シュータ、来てたんだ」

 彼女が出てきたのは直ぐに気付いていたが、僕からは声を掛けなかった。彼女がなんと言うか知りたかったから。

「来てたし、見てた」

 僕はそう言って、先輩とその先輩の腕に自分の腕を絡ませているアイラを交互に見た。その視線を独り占めするように、またはアイラを護るナイトにでもなったかのように、先輩が僕とアイラの間に立った。

「ずっと思ってたけど、君はさ、アイラとどうなりたいわけ?」

 その返事は私が聞く、と言わんばかりに先輩は僕の前に仁王立ちしたままだ。

「見てしまったから。あんなに楽しそうなアイラを見てしまったから」

 僕はその先の言葉を、自分の想いを既に失った心の中に探した。その心はどこにあったのか。彼女に初めて触れられた指先か。彼女と共にテンポをそろえて床を踏んだ爪先か。高鳴る鼓動を刻んだ胸か。彼女に見つめられて火照る頬か。

 全てだ。気付けば僕の身体全てに彼女は入り込んでいた。

 そして心を失った今は、それがたまらなく不快だった。

 空っぽの僕の中で渦巻く何かが、泣くという現象を起こしたが、僕の心と身体は乖離かいりしてしまっている。

「何? 何も言えないの?」

 先輩は答えを求めたが、僕はただ涙だけが流れて、その涙の元になった感情が分からない。考えても居場所が分からない心が、僕の口を勝手に動かした。

「アイラと別れたい。僕の中のアイラを、全部拭い去りたい」

 それを聞いたアイラが、先輩を脇に押しやって、僕の両肩を掴んだ。

「何言ってんの? 別れたい? 付き合ってもいないのに、別れるって何?」

 そうだ。僕とアイラとの吹奏楽部同士、同じ楽器を担当する者同士という付き合いは入学して早々に始まったが、それ以上の進展はなかった。

「分かってる。でも、僕はずっとアイラが好きだった。だから、アイラ」

 僕は僕を掴んだままのアイラの肩を掴み返し、これまでで一番深く彼女の目を見つめた。

「僕と付き合ってくれないかな?」

 まだ僕の目からは涙が零れ続けている。それがアイラにも伝染したのか、アイラの瞳が涙で揺れ始めた。

「オッケーするわけないでしょ!」

「なんで? 先輩が好きだからか?」

「先輩は好きだよ。好きだけど、そんなんじゃない」

「じゃあいいじゃないか」

「いいわけない! 別れたいから付き合ってって言われて、首を縦に振るばかがいる?」

 相変わらず相手の言葉が言い終わる前に繰り広げられた言葉のラリー。

 アイラは後半、握った拳で僕の胸を殴りながら言葉を発した。僕の心をノックするように。

「それってどういう意味だよ。付き合いたくないの? 別れたくないの?」

 言いながら僕は少しずつ心が返ってくるのを感じていた。アイラにノックされている胸が熱い。

「知らない! とにかくこんなシュータはシュータじゃないもん」

 そう言った彼女の頬を涙が通り過ぎて地面に落ちた時、僕は彼女を抱きしめていた。

「ごめん、もうこんなこと言わない」

 彼女はそんな情けない僕を突き放すでもなく、しばらく胸の中で肩を震わせていた。

「あのさ、イチャつかないでよね」

 先輩が苦笑してアイラの横から顔を出した。

「まあ、あんたらは付き合わない方が良いかもね、少なくとも卒業までは」

 先輩はそう言うと、心底呆れたようにもう一度「イチャつくな」と呟いて帰っていった。

 以降アイラはその先輩の言いつけを守ってか、僕の交際の申し込みを受けることはなかった。そしてアイラは僕の心に侵食し続けている。

 当分僕は彼女と別れられそうにない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

別れに向けた唯一の手段 西野ゆう @ukizm

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ