ある女子学生の告白

 それは唐突だった。

 ある日のこと。


 私の前に一匹の猫が現れた。いつものように大学の講義を終えて、一人暮らしをしているマンションの一室に帰宅した時のこと。


 そこまではいつも通りの生活。

 平凡な日常に思えた。

 でも、この日は違った。


 なぜならば部屋のソファーにずっしりと座った猫がいたから。

 もちろん、私が猫を飼っているわけではない。


 少しふてぶてしい表情で私のことを見ている気がする。


 さてどうしたものか。

 野良猫が勝手に部屋に入り込むなんて……もしかしたら、扉でも開けっぱなしになったままだったかしら。

 

 いえ、そんなことは決してない。いつも戸締りには気をつけている。以前、ストーカーのような男に付き纏われそうになった時に、彼から助けてもらった。

 その時にこっぴどく……いや静かに叱られた。


『天野ヒカリさん、あんたはどうにも隙がありすぎるんだ』


 彼のその言葉を聞いて以来、自宅を含めてかなり慎重に行動するようになった。

 当然、現に扉は全て施錠されたままだった。


 そうなると……例えばベランダから入り込んだのかしら。

 いや、それはおかしいわ。

 だってここはペット禁止のマンションだもの。

 

 仮に別室のどこかの誰かが飼っているペットだとしても入ってこれるはずがなかった。

 ここは5階。

 簡単に猫が入り込めるわけがない。


 そんな思考を巡らせている時、じーっと視線のようなものを感じた。

 その時だった。

 三毛猫がしゃべり始めた。


「ねえ、天野ヒカリさん。あなたに助けて欲しい人がいるのです」

「……は、はい?」

「あなたの懸想相手である岩戸黒斗くん。彼を助けて欲しいのです」


 少し掠れた声で猫はそう言った。


 あれ……猫って日本語喋ることできるっけ?



 見ず知らずの三毛猫さんが言うように、私――天野ヒカリにとって必要不可欠な存在がいる。

 いや、必要な人がいる、といった表現が相応しいのかもしれない。


 岩戸黒斗くん。22歳。少し猫背の大学4年生。

 高校の時の同級生であり、大学も同じで約6年ほど一緒にいる存在。

 以前は天文学サークルで会うこともあったが、今では滅多に彼は顔も出さなくなってしまった。


 私と彼は高校の3年間同級生だったが、大学でも幸いにも同級生となった。


 だからこれは神様から与えられた運命なのだと思った。


 それに間違いなくこれだけは言える。

 彼――岩戸黒斗くんは、私にとって必要な存在なんだって。

 

 だって、彼のおかげで私という存在は生かされているのだから――



 そもそも私が彼を好きになったのは高校生も中間地点を折り返した2年生の夏のことだ。


 なぜか真夏の校舎とは感じさせないほどにヒンヤリとする備品室。

 

 そんな備品室になぜか私だけが取り残されてしまっていた。

 

 ……ううん、『なぜか』なんて理由ははっきりとしていた。

 私に嫉妬した誰かさんたちが私のことを嵌めたことは明白だった。

 きっと先週告白された木村くんのことを好きなあの子の差金に違いない。


 右手に握りしめた一通の手紙。

 まんまと騙されてしまったらしい。

 でも今回はこれで良かったのかもしれない。

 直接的に、傷つけられるようなこともなさそうだしね。


 それにしてもどうしよう。

 先ほどカチッという嫌な音が聞こえて以来、扉はうんともすんとも言わない。


「はあ……今は誰とも付き合うつもりなんてないって散々言っているのに――」

「あのさ……さっきから独り言がうるさいんですけど」

「――っ!?」


 この時が初めてだった。

 薄暗い備品室の奥から眠そうな表情の岩戸黒斗くんと出会ったのは――


 

 え?

 いつからここにいたの?

 てか、誰だっけこの人。

 同じクラスじゃないのはわかるけど……


 いつも通りに笑顔を浮かべなきゃ。

 こんなところで、ほんとの私を見せるわけにはいかない。

 そうでなくても先ほどまでの愚痴を聞かれているかもしれないのだから……まずい。


 これ以上、校内であらぬ噂を流されてしまったら面倒だ。

 

 だからこそいつもみたいに能天気で少しおバカな天野ヒカリという女の子を演じなければならない。


 どうせこの男も私のことなんて容姿でしか判断しないはずなんだから。


 なぜか彼はぶっきらぼうに挨拶をした。


「岩戸黒斗、2年B組。選択授業で同じ」

「あー、音楽で一緒だー!」


 そうだった。

 どこかで見たことのある顔だとおもった。

 そういえば、音楽の授業でギターを弾いていたっけ。

 意外とそつなく弾いていたから覚えていた。


 そんな私の回想を壊すように岩戸くんが言った。


「それで、あんたいつまでここにいるつもりなわけ?ボク、ここの掃除当番なんだけど」

「あんたって……私にも名前があるんですけどー」

「じゃあ……天野ヒカリさん、いつまでここにいるつもりですか?掃除の邪魔なんですけど」

「丁寧に言い直しても全然好意的になってないからね!?」

「っち」

「なんで舌打ち!?」

 

 岩戸くんはなぜか私のことを邪険に扱った。

 それがなんだかとても新鮮に感じてしまった。


 クラスメイトの男の子たちや先輩たちからの下卑た視線のような不快な気持ちなんかこれぽっちも感じさせない。


 むしろ私のことを蔑むような冷ややかな視線。

 私のことなんて微塵もこれっぽっちも興味なんてないのだろう。


 そう、絶対にそうに違いない。

 彼は私のことなんて本当にどうでもいいと思っているんだ。

 だから媚びたような態度をする必要もないのだ。


 きっと彼のような人ならば、本当の醜い私を知っても落胆なんてしないのだろう。


 勝手に私のことを好きになって勝手に嫌いになることもないのだろう。


 彼にとって、私はどうでもいい他人に違いないのだから。


 だからこそ、私のことを知って欲しいと思ってしまった。

 本当の醜い私のことを。

 

 この時から私は彼のことを意識し始めた。



 彼はクラゲのようにつかみどころのない男の子だった。

 親しい友だちはいるようだが、一定の距離感というものを保っているようにも見えた。


 だからこそついつい彼という人間を観察し続けてしまった。

 彼が何が好きで何が嫌いなのか、休み時間は何をしているのか。

 趣味はなんだろうか。

 気がついたから用事もないのに隣のクラスを訪れていた。


 そして彼のことをもっと好きになってしまっていた。


「ねえ、ヒカリ、最近B組に行くけど、好きな人でもできたの?」

「うーん、どうだろ?」

「なになにその意味深なリアクション」

「え、天使様にもついに好きな人ができたの?」


 黒く長い髪の清楚なエマちゃんが興味深そうな声を上げた。

 一方で少し派手なエリちゃんは大袈裟な表情になった。

 

「好きというか気になるってかんじかな」

「えーそれ絶対に好きってことじゃん!」とエリちゃんが大袈裟に言った。

「そうかな」

「エリちゃんの言うとおり絶対そうだよ」とエマちゃんが答えた。

 

 確かに好きなのかもしれない。

 でもきっと誰にも言えない。

 猫舌のところやぎこちなく微笑む姿……その全てが愛おしく感じること。

 その全てが他の誰かに見つかってしまわないようにしたいから。


 でもそんなハートフルな片思いは長くは続かなかった。

 彼の魅力に気がついて、私よりも先に告白した女の子が現れてしまったからだ。


 彼は特段好きな素振りなんて一度も見せたことがない女の子と付き合い始めた。


 でも不思議と私の中で焦りや嫉妬という感情は湧いてこなかった。


 だって、彼が彼女のことを愛していないことは明白だったから――


 だから彼が付き合った女の子と仲良くすることにしたの。

 

 きっとこの時の私は醜悪になっていったのだろう。


∞ 

 

「それで、三毛猫さんは私に何をさせたいの?」

「ワタクシは、ただ彼を救いたいのです」

「彼って岩戸黒斗くんのことだよね?」

「そう、彼です。あなたが懸想している相手でもあります」


 三毛猫さんは少しガシガシと頭をかいた。

 そして尻尾を振った。


 そんな可愛らしい動きとは正反対に、私の頭の中は聞きたいことばかりで溢れかえっていた。


「懸想……それはそうだけど、助けるってどうやって?そもそも何から助けるの?てか、どうして三毛猫さんが私の好きな相手を知っているの?」

「一度に聞かれても困りますよ、ヒカリさん」


 三毛猫さんは困ったようにため息をついた。

 確かに少し質問が多くなってしまったかもしれない。


「ごめんなさい。じゃあ、助けるってどういう意味?」 

「彼は今、カラスたちにたぶらかされています。もしも彼が甘い言葉――誘惑に負けてしまったら世界が滅びてしまいます。彼には世界を破壊するだけの秘められた力を持っているんです」


 思ったよりもかなり壮大なお話のようだ。

 でも、彼は本当にそんな不思議で巨大な力を持っているのだろうか。


「そんな大袈裟でしょ。彼はどこにでもいる普通の大学生だよ?」

「いいえ、残念ながら彼は普通の大学生なんかじゃありません。彼は選ばれし者なのです」

「選ばれし者……?誰から選ばれたの?なんのために?」

「誰かなんてことは些細な問題なのです。一方で、なんのためにという点に関しては、重要な問題です。しかし残念ながら、それを詳しく説明するのには時間が足りません」


 三毛猫さんはなぜか誤魔化すように言葉を濁した。

 怪しいというよりも何かをためらうような類の雰囲気だった。


 流石にこれだけの情報では判断がつかないわ。


「意味がわからないんだけど……」

「仕方ありません。少しお伝えします。彼は先ほど彼女に振られました。この時に、心の隙間に奴らカラスたちが入り込んでしまったのです。そして彼を誘惑しました。本来であれば、彼はあなたと結ばれる運命にあるのですが、彼はカラスたちの工作により別の人を選びました。だから、我々からすると彼が彼女と別れるのは必然なのです。先ほどもお伝えしたとおり、彼はあなたと結ばれるのですからね。しかし、カラスたちは彼の未成熟な器を壊すために、わざと別の人と彼を結ばせ、彼女と別れさせました。カラスたちは彼を闇の世界に閉ざすために――」

「ちょっと、待って!ますます意味がわからないんだけど」

「……ただあなたは彼――岩戸黒斗さんを助ければいいのです」


 どうやら面倒くさくなったのだろう。

 三毛猫さんは私の質問へと端的に答えた。


 そのあとで、三毛猫さんは色々と補足してくれた。

 と言っても、結局よくわからなかったけど……。


 ただ一つ私のやらなければならないことはわかった。


 どうやら明日の朝、6時半発の渋谷行きの電車に乗車すれば良いらしい。

 そして、その場で告白をする必要があるらしい。


 それ以外に彼と私が結ばれる世界は訪れない……未来永劫ないらしい。


 何が何だかさっぱりだった。


 でもこれだけは言える。


 かつて私のことを暴漢から助けてくれた彼――岩戸黒斗くん。

 少し大袈裟かもしれないが、彼に助けられたおかげで今の私がいるのだ。

 

 それに高校の頃からずっと片思いをしているのもそろそろ疲れてしまった。

 色々と彼を誘惑してきたつもりだけれど、一向に靡かないし。


 あと……一度も付き合ったことないのに、周いからあれやこれや恋愛相談をされる身にもなってほしいものだ。流石に誤魔化すのも限界だしね。


 まあ何にしてもこれだけは確かだ。


 彼の最後の女になれるなら何はともあれ本望だということ。


 それに先ほどの三毛猫さんの話によると、本来であれば私が彼の彼女になることは決まっていることなのだとしたら……彼の心の隙間に入り込むのは必然でしょ?

 

 だから私は――


「三毛猫さん、あなたの言っていることはちっともわからないことだらけだけど……その話引き受けることにするわね」


 と答えた。

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