騎士の行く道
アンリエッタ出奔
ヒュース・ヴァレントは時計を見た。辺境伯ノーチェランドの屋敷の
生まれてからずっと、次男に生まれて不幸だと思っていたが、こうして伯爵位を手にすることができるのであれば、ヴァレントの名を捨ててもよいと思えた。ヴァレント家の男子は三人。伯爵位を継げるのはたった一人だけ――その争いから一抜けをできたのだから、いいのだ。たとえ妻がヒュースのことを愛さなくとも、ヒュースだけはあの妻のことを愛そう。なぜなら、明日からヒュースは。
ため息が出る。待つ時間も甘く感じるものだ。これは勝利の美酒に
ヴァレントの名を捨て、強く美しい妻とともにこの極北の地を守る。ヒュースの紫色の目は喜びに満ちていた。
何度目かの時計の確認のために顔を上げると、突如慌ただしいノック音が響き渡る。
「なんだ?」
「ヒュース様、ヒュース様!大変でございます!アンリエッタお嬢様が……!」
「エッタ嬢がどうされた?」
「しゅ、
「は?」
※※※
そのころ、アンリエッタは馬を走らせていた。
花色の髪を振り乱して、うすい夜着にぼろをまとったまま平野をいく。馬は
アンリエッタは
姫騎士の都、プリンシア。
「もう気づいたろうか、ヒュースのやつ。きっと怒り狂って泣いているに違いない」
おかしくて仕方がなかった。ここまで縁談をまとめるのに苦心した父も、その相手のヒュースも気の毒だが、自由になったわが身の方がいとおしい。
「はは!」
これで、剣を握れる。
これで、騎士になれる。
これで、戦える!
高らかに笑うアンリエッタは、それでも周囲を観察することを怠らない。ノーチェランド領の南の関門のあたりに、盗賊が出るという噂を聞く。なんでも北と王都を往復する商人をいたぶって物だけ
蟻の巣が近いということは――。
「そこの馬、止まれ止まれ!」
警護騎士団も近いということだ。アンリエッタは内心舌打ちをした。
(
「どこからの使いのものだ。名乗られよ!」
アンリエッタはおとなしく馬を止める。そして顔を
「……使いというわけではございません。わたくしはノーチェランド様の
「侍女ぉ?」
騎士団長、……いや副団長がアンリエッタの顔を覗き込んだ。アンリエッタはそっと顔を袖で隠した。
「故郷の母が
泣きじゃくる振りをする。こういう時は泣き落としに限る。何せ自分の兵だ。情に
「ああ、そうだったのか……止めてしまってすまないな。この先は盗賊が出るから、どうぞ気を付けて」
「あ、ありがとう、ありがとうございます、騎士様……」
副団長は眦に涙を浮かべて何度もうなずいた。アンリエッタは泣きべその下で笑う。
(やはりな!)
「いや、待て」
そこへ、騎士団長の声がかかる。さりげなく行き過ぎようとしたアンリエッタはぎくりと硬直した。
「その荷物はなんだ?剣か?侍女がどうして剣など持つ?」
「あ、……アンリエッタお嬢様が、これを持って行けと」
「なぜ?」
「
「お嬢様ならば」騎士団長が言った。「確かにお嬢様ならばそう言うかもしれないな。だが……」
騎士団長がかっと目を見開く。
「それ以上に、お嬢様おんみずからが同行なさると言い出すに決まっている!」
(あー……)
「そ、そんなこと申されましても。母が……危篤で……」
「そのお声、その剣。そしてそのお衣装は――アンリエッタお嬢様でいらっしゃいますね?」
(ああー……)
「ち、ちがいます!」
「違うのなら、お顔を拝見させていただきますが」
(完全に「そう」だと思い込んでいるこの男ッ!)
アンリエッタは逃げの姿勢に入った。顔を見せたら一巻の終わりだ。ここでアンリエッタの騎士道物語は幕を下ろしてしまう。面白くもない男と結婚し子供を産み育てるだけの伯爵夫人生活が始まってしまう。アンリエッタは素早く周りを見渡して、――異変に気付き、声音を戻して叫んだ。
「ものども警戒しろ!盗賊だ!」
「なにっ!?」
その瞬間。群がる蟻のように、街道沿いから男たちが飛び出してきた。
「女に傷をつけるな!上玉だぞ!」「おおおお!」「騎士団を殺せえ!」
瞬時に、騎士団が動く。統率された動きは、アンリエッタ仕込みのノーチェランドの型。
「アンリエッタお嬢様を守れ!」「突撃!」「やあああああ!」
交差する金属音、
「ひるむな!奴らはさほど多くない!見掛け倒しのたいまつに
アンリエッタは矢を払いのけながら叫び続けた。
「狙いは私だ。おとりになる。その隙を突けッ!」
「お嬢様!どちらへ!」
「私は敵の
騎士団長はアンリエッタの顔を見上げた。そこにいるのは戦女神のごとき剣の乙女だった。──彼は後々になってから語った。そこにおわすのは確かに、
「――ご武運を!」
馬の腹を蹴る。気性の荒い
アンリエッタはその光景をしり目に、この
(今こそ仕留めてやる、「蟻の巣」……!)
街道沿いの森の奥深く――遠くに明かりが見える。明かりを覆うように張られた木々の帳の中へ、アンリエッタはまっすぐ突っ込んでいった。
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