騎士の行く道

アンリエッタ出奔


 ヒュース・ヴァレントは時計を見た。辺境伯ノーチェランドの屋敷の貴賓きひん室に迎えられてから、何度も時計を確認した。思ったように進んでいかない時間を苛立たしく思いながら、明日からの生活に思考を飛ばす。美しい令嬢との初夜のあと、その甘くかぐわしい未来について。


 生まれてからずっと、次男に生まれて不幸だと思っていたが、こうして伯爵位を手にすることができるのであれば、ヴァレントの名を捨ててもよいと思えた。ヴァレント家の男子は三人。伯爵位を継げるのはたった一人だけ――その争いから一抜けをできたのだから、いいのだ。たとえ妻がヒュースのことを愛さなくとも、ヒュースだけはのことを愛そう。なぜなら、明日からヒュースは。

 ため息が出る。待つ時間も甘く感じるものだ。これは勝利の美酒に匹敵ひってきする。

 ヴァレントの名を捨て、強く美しい妻とともにこの極北の地を守る。ヒュースの紫色の目は喜びに満ちていた。

 何度目かの時計の確認のために顔を上げると、突如慌ただしいノック音が響き渡る。

「なんだ?」

「ヒュース様、ヒュース様!大変でございます!アンリエッタお嬢様が……!」

「エッタ嬢がどうされた?」

「しゅ、出奔しゅっぽんなさいました!」

「は?」



※※※



 そのころ、アンリエッタは馬を走らせていた。

 花色の髪を振り乱して、うすい夜着にぼろをまとったまま平野をいく。馬はあぶみもなにもつけない素のままだ。

 アンリエッタは牡馬おすうまの筋肉を腿に感じながら、馬の背に伏せ、手綱を握る。背負った愛用の鋼の剣と、ありったけ売れそうな自分の持ち物を詰め込んだ麻袋と、馬のために少々いただいた餌とを背中に負い、たくみに馬を駆る。目指すところは、もう心に定めてあった。

 姫騎士の都、プリンシア。プリンシア姫君のという名の通り、代々姫騎士が治めるエルドラの王都だ。

 噂話うわさばなしにしか聞いたことがないが、そこは女でも騎士になれるという夢のようなところだという。

「もう気づいたろうか、ヒュースのやつ。きっと怒り狂って泣いているに違いない」

 おかしくて仕方がなかった。ここまで縁談をまとめるのに苦心した父も、その相手のヒュースも気の毒だが、自由になったわが身の方がいとおしい。

「はは!」


 これで、剣を握れる。

 これで、騎士になれる。

 これで、戦える!

 

 高らかに笑うアンリエッタは、それでも周囲を観察することを怠らない。ノーチェランド領の南の関門のあたりに、盗賊が出るという噂を聞く。なんでも北と王都を往復する商人をいたぶって物だけうばい取る、卑劣ひれつな奴らだと。アンリエッタはもちろん、父であるオルランドも、何度か兵を差し向けたが、奴らの尻尾はつかめないままだ。ありのような細く広い人のあみを張り巡らして、その中枢を掴ませない。ノーチェランド領をずっと悩ませてきた、「蟻の巣アンツ・ウェブ」が近い。

 蟻の巣が近いということは――。

「そこの馬、止まれ止まれ!」

 警護騎士団も近いということだ。アンリエッタは内心舌打ちをした。

配備はいびした自分わたしの兵が自分の邪魔になるなんて!)

「どこからの使いのものだ。名乗られよ!」

 アンリエッタはおとなしく馬を止める。そして顔をうつむけたまま、か細い声を出した。

「……使いというわけではございません。わたくしはノーチェランド様の侍女メイドでございます」

「侍女ぉ?」

 騎士団長、……いや副団長がアンリエッタの顔を覗き込んだ。アンリエッタはそっと顔を袖で隠した。

「故郷の母が危篤きとくだと手紙がとどきましたの。間に合わずとも、……ひ、一目会いたくてっ」

 泣きじゃくる振りをする。こういう時は泣き落としに限る。何せ自分の兵だ。情にあつく誠実な彼らであれば、危篤の母に一目会いたい乙女を止めやしないだろう。

「ああ、そうだったのか……止めてしまってすまないな。この先は盗賊が出るから、どうぞ気を付けて」

「あ、ありがとう、ありがとうございます、騎士様……」

 副団長は眦に涙を浮かべて何度もうなずいた。アンリエッタは泣きべその下で笑う。

(やはりな!)

「いや、待て」

 そこへ、騎士団長の声がかかる。さりげなく行き過ぎようとしたアンリエッタはぎくりと硬直した。

「その荷物はなんだ?剣か?侍女がどうして剣など持つ?」

「あ、……アンリエッタお嬢様が、これを持って行けと」

「なぜ?」追及ついきゅうきびしさはゆるまない。完全に疑われている。泣き落としでは通用しないか。それはそうだ。この剣は目立つ。

護身用ごしんようになるからと……」

「お嬢様ならば」騎士団長が言った。「確かにお嬢様ならばそう言うかもしれないな。だが……」

 騎士団長が目を見開く。

「それ以上に、お嬢様おんみずからが同行なさると言い出すに決まっている!」

(あー……)

「そ、そんなこと申されましても。母が……危篤で……」

「そのお声、その剣。そしてそのお衣装は――アンリエッタお嬢様でいらっしゃいますね?」

(ああー……)

「ち、ちがいます!」

「違うのなら、お顔を拝見させていただきますが」

(完全に「そう」だと思い込んでいるこの男ッ!)

 アンリエッタは逃げの姿勢に入った。顔を見せたら一巻の終わりだ。ここでアンリエッタの騎士道物語は幕を下ろしてしまう。面白くもない男と結婚し子供を産み育てるだけの伯爵夫人生活が始まってしまう。アンリエッタは素早く周りを見渡して、――異変に気付き、叫んだ。


「ものども警戒しろ!盗賊だ!」

「なにっ!?」


 その瞬間。群がる蟻のように、街道沿いから男たちが飛び出してきた。

「女に傷をつけるな!上玉だぞ!」「おおおお!」「騎士団を殺せえ!」

 

 瞬時に、騎士団が動く。統率された動きは、アンリエッタ仕込みのノーチェランドの型。守りの陣ディフェンスである。

「アンリエッタお嬢様を守れ!」「突撃!」「やあああああ!」

 

 交差する金属音、罵声ばせい怒声どせい――激突げきとつする陣営じんえいの合間をって、アンリエッタは馬を走らせる。背中から剣を抜き放ち、馬を狙って飛んでくる矢を切り払う。

「ひるむな!奴らはさほど多くない!見掛け倒しのたいまつにだまされるな!」

 アンリエッタは矢を払いのけながら叫び続けた。

「狙いは私だ。おとりになる。その隙を突けッ!」

「お嬢様!どちらへ!」

「私は敵のしょうを討つ!」

 騎士団長はアンリエッタの顔を見上げた。そこにいるのは戦女神のごとき剣の乙女だった。──彼は後々になってから語った。そこにおわすのは確かに、桜色はないろの髪をなびかせた、ノーチェランド伯の一人娘、アンリエッタ・ル・ノーチェランドだったと。

「――ご武運を!」

 馬の腹を蹴る。気性の荒い無去勢むきょせいの牡馬は、鋭いいななきとともに街道を抜けていく。乙女につられた盗賊たちはアンリエッタを追いかけて戦線を崩した。その隙を、騎士たちが次々追いかける。南の関門前は乱戦の様相を呈していた。

 アンリエッタはその光景をしり目に、この奇襲きしゅうを計画したであろう「蟻の巣」の中枢を探していた。近くにいるはずだ。

(今こそ仕留めてやる、「蟻の巣」……!)


 街道沿いの森の奥深く――遠くに明かりが見える。明かりを覆うように張られた木々の帳の中へ、アンリエッタはまっすぐ突っ込んでいった。


 



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