男装騎士アンリエッタと黒の騎士 エルドラ国綺譚

紫陽_凛

幼い日

 エルドラの北の国境を守るノーチェランド伯が留守にしている間、屋敷は静けさに包まれる。彼のようする兵たちの姿はなく、北から吹き下ろす清涼な風が、がらんどうの訓練場をすり抜けていく。ノーチェランドの屋敷が静まり返る夏。

 その訓練場のど真ん中で子供が一人、木製の剣を振り回していた。簡素な服装、雑に結った髪――よく見ればその頬は白く、つやのあるさくら色の髪はきれいに切りそろえられ、手に出来たを除けば、高貴な身分と知れる。

「エッタ、エッタ」

 かそけき声を聞きつけ、エッタは剣の素振りをやめ、振り返った。長い髪の子供が駆け寄ってくるところだった。

「ディア。……どうして泣きべそをかいているの」

「お兄様たちが」

 ディアは涙ぐんだ。こちらは紫色の長い髪と、珍しい紫水晶アメシストの瞳。少女のような丸い頬と、白くて柔い指。深窓の令嬢という言葉のよく似合う、美しい子供だ。

「わたしのことをばかにする……」

「そんなの、いつものことじゃないか」

「いつもだから、いやなんだよう」

 ディアは顔を覆ってしゃがみ込んだ。淡い緑いろのエプロンドレスが、ふわりと地面に広がる。エッタは剣を地面に置くと、ディアに合わせて腰を下ろした。目を真っ赤に腫らしたディアは、エッタの赤い瞳をじっと見つめた。

「どうしてわたしばかりこんななのかな」

「それは、……ディアのお父様がお決めになったからだよ」

「どうしてお決めになったのかな」

「ディアのからだが、弱いからだよ」

「どうしてわたしのからだは弱いの、かな」

「それは……」

 エッタは答えられない。なぜなら、そこから先は分からなかったからだ。

「どうしてエッタみたいに丈夫じゃないのかな」

「……わたしは、一人っこだからね。嫌でも鍛えないといけないと思うし」

 エッタはノーチェランド伯のたった一人の子である。子供に恵まれず、老齢になってようやく授かったのがエッタ、この花色の髪のなのだった。

「次のノーチェランド伯は、わたしだから」

「じゃあ、わたしはお父様の三番目だから、こんななのかな」

 こんな、といいながら、ディアはエプロンドレスをつまんだ。そしてまた、泣きそうな目でエッタを見上げた。

「一生こうだったらどうしよう。こんな似合わないドレスを着せられて生きていくの?」

「一生ってことはないと思うけど……」

 ディアはしくしくと泣き始めた。何につけても、ディアは泣き虫で弱虫で、兄君たちからもからかわれてばかりいる。エッタと同じ11歳なのに、お前ときたら泣き虫だ――それを聞いてまた、泣く。その繰り返しだ。エッタはそういうところなんだけどなぁ、と思いながら、ディアの手を握った。

「ねえ、ディア。もし一生、本当に一生、だったら、わたしがディアを守るよ」

「……本当に?」

「うん」

「一緒に居てくれる?」

「うん」

 ディアは泣いた顔をほころばせて笑った。


「約束」



 この時、エッタは一つ間違えていた。次のノーチェランド伯はエッタではない。女は伯爵位を継げない。

 女は子を作って、次代へ血をつないでいく。そう多くの人々が思い込んでいて、エッタが思ったように、女は戦いの前線には出ていかない。おとなになったエッタに望まれるのは、よき「伯爵夫人」になることだと。

 エッタは……アンリエッタ・ル・ノーチェランドは、訓練の時の木製の剣を鉄製に、鉄製の剣を鋼製に……振り上げる剣をより重く変えてゆくことで、その流れに反抗しようとした。

しかし、どれだけ抗ったところで、「その時」は来てしまうのだ。

「お嬢様。お支度は整いました」

 憤然とするアンリエッタは、花色の髪を梳かすメイドをじっと睨みつけた。婚約者――今宵夫となる男に捧げるための薄い純白のガウンが、アンリエッタの身体をふわりと覆っている。

「……」

「そう睨まれましても。誰もがこの時をお待ち申し上げていたんですよ。アンリエッタ様。貴女さまがうんと言うまで、ヴァレント伯と、伯爵さまと、ヒュース様と、何度も何度も……」

「わかっている」

「そのように男のような言葉を使われませんよう」

「言葉遣いまで矯正されなければならないのか。王都プリンシア姫騎士の都では時代遅れだと笑われそうだな」

 メイドは困ったように眉を下げた。そしてそれっきり黙った。アンリエッタに何を説いても無駄だと思ったのだろう。

 その通りだ。アンリエッタには、何を話しても無駄だ。可憐な乙女の赤い瞳の奥には、苛烈な気が宿っていた。


(絶対に、この局面から脱する)



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