第11話
☆ 三島治
今晩は静かだ。カエルや鈴虫の声もあまり聞こえない。こういった日は何かが起こると昔から相場が決まっている。嵐の前のなんとやらだ。
果たして僕の予想は当たり、風を入れるために拳ひとつ分だけ開けた窓の外から珍客が現れた。コンコンと控えめにノックをする白い手は見覚えのあるネイルをしていて──
「何してるんだ、蓮」
──ニシシッと悪巧みをする少年のような顔でヤツが現れたのだ。
「玄関から帰ったらまた京子さんに叱られると思ったから」
「はぁ……とりあえず入れ」
「さんきゅ。恩に切るわ」
言いながら蓮は胸の下から生えてますと言わんばかりに長い脚を惜しげもなく晒して窓の桟を跨いだ。こういうことは初めてじゃない。今日はズボンだがコイツは例えスカートでも同じように脚を上げるのだ。とりあえず執筆中だった小説のウィンドウは隠しておくか。
「ちなみに京子さんはもう寝た」
「え、マジ? 早くない? まだ九時過ぎよ」
岩見。どうやら賭けは僕の勝ちだったようだな。だがまぁ、お前は食べ盛りだからデザート一週間分はナシにしてやる。貸しひとつだぞ。
「ここのところお前が合コン三昧で帰りが遅いことが多いからプリプリしてたぞ。それで悪酔いして僕たちに絡み酒するくらいだったんだ。だから早めに風呂に入って寝てもらった」
「あー……そゆことね。助かったわ」
「お前にも貸しひとつな」
「相変わらずケチくさい男ねぇ」
「バカ言え。今日みたいに何度フォローしてやったと思ってる。そろそろツケを返してもバチは当たらんぞ」
「はいはいそのうちねー」
そう言って恩知らずの蓮は僕の部屋を素通りしようとした。一応履き物は脱いで手に持つ程度の良識はあるみたいだがそれにしたって無礼な奴だ。しかしそう思ったのも束の間、蓮はよろめいて僕にしなだれ掛かってきた。
「おい、重いぞ。それに酒臭い」
「レディになんて言い草よ。アンタそんなんだからモテないのよ」
「ほっとけ、いいから離れろ。僕はまだやらなきゃいけないことがあるんだ」
「やらなきゃいけないことって?」
「やらなきゃいけないこととはやらなきゃいけないことだ」
「……アンタよくめんどくさいヤツって言われない?」
蓮が呆れた眼差しを向ける。その目で見たいのは僕のほうだよ。おまけに何を勘違いしたのか蓮は「あ、分かった。エロ動画でも見てたんでしょ。自家発電中だ」とデリカシー及び品性のカケラもないことを宣う。黙っていれば美人なのにこの女は本当に……。
「下半身に脳を支配されたような薄汚れた若者と僕を一緒にするな」
「アンタの彼女は彼氏になかなか抱いてもらえなくカワイソーね。そもそも死ぬまで彼女出来なさそうだけど」
「口の減らない女め。そういうお前こそ今日はどうだったんだ。戦果は上げられたのか」
こんな時間に帰るくらいだ。聞かなくても分かるがな。案の定、蓮は「アタシだけお持ち帰りされませんでしたけど何か?」と開き直りやがった。
「良かったじゃないか」
「どこがよ。ケンカ売ってんの?」
「知り合ったその日に抱く前提で女を連れて帰るような軽薄な男と縁が出来なくて良かったなと言ってるんだ」
「……アンタってホントワケ分かんない」
「分かれ。そしていい加減重いから離れろ」
ほぼ全体重をこちらに掛けている蓮を力尽くでどかそうとしたのだが、合気道の技でも決められたかのようにいなされてバランスを崩した僕は押し倒されてしまった。なんたる不覚。しかもあろうことか蓮は僕の腹より下のあたりで馬乗りになったのだ。速い話が、ちょうど股間の辺りだ。服を着ているとは言え他人に見られるとマズい体位であることは言うまでもない。
「おい、降りろ」
「アンタはアタシのこと、抱ける?」
「……は?」
「いいから答えなさいよ」
コイツ、やはり酔ってるな。それに加え、らしくないことだが少し傷心のようだ。合コンで何があったかは想像に難くないが、同じ家で暮らしている身内のこんな姿は見たくなかった。
「さっきも言ったが、僕はそんなふしだらな男じゃない。嫁どころか恋人でもない女を抱くような真似をすると思うか?」
「答えになってない」
確かにズルい回答だったとは思う。だがそもそもこんな質問をするほうが悪いというものだ。
「そういえばアンタ、さっき急いでウィンドウ閉じてたでしょ」
僕は舌打ちをしたい衝動をこらえた。妙に感が鋭いな、くそったれ。
「やっぱりエロ動画でも見てたんだ。ナヨナヨしてても男だもんねぇ」
「ナヨナヨは余計だし見てないと言ってるだろう」
「でもアンタ、今おっ勃ててるじゃない」
「それはお前がそんなところに座ってるから血が集まってだな……あぁもうめんどくさい。エロ動画見てたってことでいいからさっさとそこをどけ」
これ以上は色んな意味で体が持たん。だが身を起こそうとしたこちらとは対照的に蓮は身を寄せて僕の胸ぐらを掴んだ。凹凸の少ない整った顔が目と鼻の先にまで近づき、吐息が肌に触れる。コイツ、こんなにまつ毛が長かったか。澄んだビー玉みたいな目しやがって。
「暑そうね治。顔、真っ赤よ」
「……エアコン付けてないからな」
酷い言い訳だ。日頃から無駄に凝った文章を書いているくせに肝心な時に役に立たなくてどうする。
「ねぇ。アタシって男から見てどうなの?」
「……僕に聞くな」
「魅力、ある?」
僕からは絶対にしない匂いが蓮の首すじから香ってくる。おまけにこれだけ密着していれば服の上からだろうが否応なく感じるものまで。
これは拷問だ。僕は決して望んじゃいない。だというのに体温は上がり続け、心臓がうるさいくらいに胸を打ちつける。これだけ激しく脈動していれば脂肪に包まれたコイツの双丘にも伝わっているに違いない。それを分かった上でしっとりしたこの表情を向けるのだからやはり悪魔みたいなヤツだ。
あと数分こうしていれば僕は間違いなく蓮の背中に両腕を回していただろう。そうなってもいいとさえ思い始めていたくらいだ。中身はどうあれ、蓮は魅力的な容姿をしているから。
だがそうしなかったのは、この場においては救世主とも邪魔者とも言えるもう一人の入居者が現れたからだ。
「治さーん。一緒にスマブラやりませんか――」
最近は遠慮せずにノックすらしなくなった岩見が重なった僕と蓮を見て固まる。何を隠そう岩見は男子高校生。最も性に興味のある時期と言っても過言ではないから刺激が相当強かったんだろう。
「ふ、不純だーっ!」
そう言ってドタドタと走り去っていく岩見。今度ラーメンでも奢ってやるか。恐らく誤解もしただろうからそれを解かなくてはな。
「おい蓮。この落とし前はどうつければいいんだ」
「健全な男子高校生の教育にはちょうどいいんじゃない?」
蓮は気勢を削がれたのか、それとも酔いが覚めたのか、掴んでいた胸ぐらを離すや否や何事もなかったかのように立ち上がり、「風呂入って寝るわ」と。さっきまでの熱が嘘みたいに冷えた僕は窓から入ってくる涼風と相まって温度差で風邪をひきそうだった。
嵐が去ったあとの部屋は時計の秒針の音ですらうるさく感じられるほど静寂に包まれている。ネズミのような小動物のそれより早かった僕の鼓動はすっかり落ち着き、今では壊れた古時計もかくやというほどだ。
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