第7話
☆ 三島治
何時間も同じ姿勢でパソコンの液晶を見続けていると体が凝り固まって節々が痛みを訴える。何を伝えたいのか分からない駄文を前にしているせいでその痛みが何倍にも膨れ上がったような錯覚さえ覚えた。
「ふぅ……」
今までに落選した回数は数知れず。小学生のころは図書室が唯一の友達で中学の頃から物書きに目覚めて十年も経つがまだ結果らしい結果を残せていない。一度だけ名の知れた出版社が主催する新人賞の最終選考に残ったくらいだ。
その時大賞を受賞し、デビューした作家が二人いたがいずれも二冊目を出版してから名前を聞かなくなった。聞けば、デビュー作も二作目も惨憺たる売り上げだったそうだ。
「やはり純文学はもう流行らないか」
世間で話題に上がるのはミステリやサスペンスといった広義のエンタメ小説、それからライトノベルばかりだ。日本人の読書離れが叫ばれて久しい昨今、美しい文章そのものを楽しもうという気概のある連中は絶滅危惧種となってしまった。
いい加減僕も路線変更をするべきか、それとも己が道にこだわり続けるか。その悩みは自身の文章にまで表れている。だからこんな駄文が出来上がるのだ。昔の作家なら原稿用紙を丸めてゴミ箱に投げているに違いない。だが今はキーひとつで全て消し去ることができる。まったくもって文明の利器という奴は……。
そんな風に自己嫌悪に陥っていると不意に扉がノックされた。誰だこんな夜更けに。まぁ、おおかたタカシが眠れなくてゲームの遊び相手になってくれとせがみに来たのだろう。明日は日曜だしな。
タカシがここに住み出してざっと二ヶ月が経った。初めはガキなんぞ鬱陶しいだけだと思っていたがなかなかどうして愛い奴なのだ。蓮にもあれくらいの愛嬌があればいいのだがな。
だが僕の予想は外れた。返事をしたあとに扉の向こうから聞こえてきたのは京子さんの「おうどん作ったんだけど食べる?」という声だった。当然ながら僕の頭には無数の疑問符が浮かぶ。頼んだわけじゃないのにうどんを作ってくれたこともそうだが、こんな時間まで起きていることがなにより不思議だった。時計の針が示しているのは二時二十二分。草木も眠る丑三つ時というやつだ。
それはさておき言われてみれば腹が減っている。晩飯を食ってからざっと八時間も経っているのだから当然といえば当然なのだが……。
「と、とりあえず入ってください京子さん」
「あ、そう? お邪魔しまーす」
軽やかな旋律を奏でながら戸が開かれ、寝巻きに割烹着という奇怪な組み合わせの京子さんが姿を現す。うどんを乗せたお盆と共に。
「はいどーぞー」
「ど、どうも。それにしてもどうしたんですか京子さん、こんな時間に」
「いやぁ、それがね。眠れなくてちょっとお散歩に行ってきたのよ。そしたら治くんの部屋の明かりがついてるのが見えたから、今日も頑張ってるんだなぁって思っていてもたってもいられなくなったの。治くん、今日の晩ご飯あまり食べてなかったでしょ? 腹が減ってはなんとやらよ」
京子さんはポワポワしているようでその実、周囲をよく見ている人だ。僕は元々少食なのだが確かに今日はあまり食べられなかった。昼過ぎに新人賞の落選を知ったからだ。もう何度も落ちているのに当日はいまだにヘコむ。
「ちょっと……提出するレポートに行き詰まって食欲が湧かなくて……」
「あらそう? 治くんっていつも難しい顔してパソコンと睨めっこしてるもんねぇ。頑張ってて偉いわ。でもご飯はちゃんと食べないと」
「気を付けます」
なぜ俺はくだらない嘘など吐いたのだ。取るに足らないプライドのくせに。小説を書いていることは決して恥ずべき事実ではないのに。
京子さんのうどんは薄味でしつこくなく、ウォータースライダーを滑り降りるかの如く喉を通り抜けていく。添えられたネギとかまぼこが胃にストンと落ちる感覚があるくらいには空きっ腹だったらしい僕はものの五分で完食した。ちなみに京子さんはうどんをすすっている間ずっと目の前にいたので若干恥ずかしかった。
「すごい食べっぷりねぇ。よく噛まないと喉に詰まっちゃうわよ?」
くつくつと笑う京子さんを見ているとこちらも自然と笑みが浮かんで嫌なことを忘れられそうになる。だが同時に焦りも感じる。平穏は毒なのだ。危機感を持たなければ生物は退化する一方。僕はこのまま何者にもなれずに毎日を消費するだけして人生を終えてしまうのではないかという恐怖に近い不安がいつも付きまとうのだ。それは日を追うごとに大きくなり、眠れない夜が増えた。
「治くん」
「はい?」
「何も心配いらないわよ」
「えっ?」
「治くんが頑張ってるのは私が一番よく知ってるから」
それだけ言うと京子さんは「じゃあ私寝るから〜。おやすみ〜」と部屋を出ていってしまう。僕は何かに唆されるように、あるいは反射的に「待ってください!」と呼び止めてしまった。
「なぁに? あ、もしかしてまだ食べ足りない? おむすびでも作ろうかしら」
「いえ、そうじゃなく」
「あらそう? じゃあ果物でも切ろうかしら。ちょうど頂き物のメロンが手に入ってね」
「違うんです京子さん」
歌うように色々な提案をしてくれる京子さんの言葉を遮るのは心苦しい。だがそれではいつまで経っても僕はこの人に甘えてしまう。余計な心配をさせたくない、笑顔を失わせたくないという大義名分を悪用して。
「違うってなにが?」
「僕は、その……」
勢いだけの決意は長続きしない。僕はしばらく口ごもったあとに「いえ、なんでもないです」とこぼすのが精一杯だった。
「うどん、美味しかったです。ごちそうさまでした」
「はぁい、お粗末さまでした」
言えなかった。僕は意志薄弱で到底先行きのない哀れな男だ。だというのに京子さんはなんの疑問も持たずにお盆を持って去っていく。
「おやすみなさい、京子さん」
「はい、おやすみ。治くんもあまり夜更かししちゃダメよ?」
戸が閉められると腹が満たされたこともあって急速に眠気が訪れた。頭も回らなくなってきたし、自己嫌悪に陥った精神を落ち着かせるには寝るべきだ。あぁそうだ。寝て忘れようと思って布団を敷きかけたのだが、よくよく考えれば京子さんが去る足音が聞こえなかったことを思い出した。ひょっとしてまだそこにいるのでは。
その予想は当たっていて扉越しにくぐもった声が耳に届く。
「治くん。いつか言える日が来たらまた教えてね」
ほどなくしてペタペタと素足で床を進む足音と、盆の上で箸が踊る音が聞こえた。
……やっぱり今日はもう少しだけ頑張るか。いや、今日"は"じゃない。今日"も"だ。赤字にしかならないのに僕をここへ住まわせてくれる恭子さんに報いなくては。
結局僕は徹夜して翌朝を迎えた。朝だと気がついたのはカーテンから漏れる光とまたしても襲った空腹だ。このままでは腹が減って眠れないので何かつまむ物をと台所に降りると京子さんが忙しなく朝ごはんの支度をしているところに遭遇した。朝の五時半は主婦にとって既に始業時間を過ぎているらしい。
「あら、どうしたの治くん。こんなに早起きなんて珍しいわね」
「あ、いや、早起きというか徹夜明けなんです」
「あらそう。でも体に良くないわよ?」
「それは重々承知してるんですが京子さんが作ってくれたうどんで元気が出て作業が捗ったというかなんというか……」
なんだか照れ臭くて素直にお礼が言えなかった。一方の京子さんはというと何やら目をパチクリとさせて不思議そうにしている。
「どうしました?」
「うどん……ってなんのこと?」
「はい? え、いやだって昨日作ってくれたじゃないですか。眠れなくて夜中に散歩してたら僕の部屋の電気がついてたからーって」
僕の口の中にはまだ昨日の──厳密には今日の──うどんの味が残ってる。だというのに京子さんは訝しげに首を捻った。
「私、昨夜はいつも通り十時に寝たわよ?」
「えっ……」
「久しぶりにトイレにも起きなくて朝までぐっすりだったの」
どういうことだ? 体から血の気が引いていくぞ。まさか僕が見たのは幽霊的なものだったのか? この家は京子さんの先祖から引き継いだ歴史ある木造の日本家屋、端的に言えば……いや、言っては悪いがボロいのでそういった話はかなりリアリティがある。だが今まで心霊現象に遭遇したこともなければ違和感を覚えたこともないのに、と考えていると「なーんちゃって」と京子さんがイタズラっぽい笑みを浮かべた。
「き、京子さん?」
「さっきの話は嘘ー。お散歩もしたし、おうどんも作ったわよ。あれで治くんの仕事が捗るんならお安いご用ね」
なんだよもう。怖がって損したじゃないか。そうだ、京子さんはたまにこういうことをするお茶目な人なんだった。
「それじゃあ治くんは今から寝る感じ?」
「えぇ、まぁそんなところです」
「そう。じゃあ起きた時にまた何か軽いものでも作ってあげる」
「や、それは悪いですよ。コンビニで適当なモノ買ってきます」
「でもちゃーんと栄養あるものを食べないといい仕事ができないでしょ? それにお金がもったいないわ」
「それはまぁ……否定しませんが」
「だったら私に任せて。私はみんなが美味しそうにご飯を食べるところを見るのが好きなだけだから」
この人は本当にお人好しだ。もしも僕に病弱な恋人がいて、手術をするために大金が必要なんですと嘘を吐いたら一も二もなく用立ててくれるだろう。その嘘がバレた時は『それじゃあご病気の彼女さんはいないのね? 良かったぁ』と安堵の息を漏らすに違いない。そういう人なんだ。
僕は途端に嘘を吐き続けていることが申し訳なくなった。こんなにも良くしてくれている人に隠し事をするなんて恥ずべきことだ。
京子さんは既に調理に戻っている。これ以上の長居は邪魔になるからとっとと戻ろう。その前に言わなければ。
「京子さん。そのままでいいので聞いてください」
「なにー?」
「僕、本当は小説家を目指してるんです」
リズム良く野菜を刻んでいた手が止まった。自然と目に入った京子さんの手は水仕事で荒れていて、キーボードを叩く程度のことしかしない僕の貧相な青白い手とは正反対だ。
やがて京子さんは僕に向かって微笑んで「それじゃあ治くんが本を出すまでは死ねないわね」と言ってくれたんだ。京子さんは決して若くない。この下宿を初める前に長年連れ添った旦那さんを病で亡くし、以来身の回りのことを一人でこなしながら僕たちの世話を焼いているから自分のことは疎かにしがちだ。定期的に白髪染めをしているらしいが髪は全体的に灰色がかっていて、ハンドクリームの類を使っているところも見たことがない。蓮はその手のモノをアホほど持っているのに。
だから僕は京子さんがもっと自分にお金と時間を使えるように早く結果を出さねばと心に誓ったのだ。
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