第6話

 思ってもみなかった事実が明るみになったことで俺は目が点になった。

「ち、ちょっと待ってよ。その前にキミの名前教えてくれない?」

「なんですか急に。男の人へ軽率に名前を教えるなと言われてるんですけど……」

 しっかりしてるなぁ、もう!

「だったら苗字だけでも」

「それならまぁ……若松です」

「やっぱり。苗字違うじゃん。蓮さんの苗字って日比野だろ?」

「姉は自分の母の姓を名乗ってるだけです」

 あ、そっか。腹違いの姉妹だって聞いたばかりだわ。にしても蓮さんが家出した姉とはねぇ。言われてみれば顔立ちが似てるような。


「じゃあキミが蓮さんに付き纏ってるのって──」

「言いがかりです。私は付き纏ってなんかいません。父から姉を捜して連れ戻してくれと頼まれてるんです」

「……えっとさ、聞いていいか分かんないけどなんか複雑な家庭なの?」

「あなたが知る必要はありません」


 こんなのもう絶対複雑な家庭じゃん。まぁ、腹違いの姉妹ってことはお袋さんが二人いるって意味だもんなぁ。真っ先に考えられるのは蓮さんのお袋さんがもう亡くなってて、再婚したあとに妹ちゃんが産まれたってところか。でもそれだと家出の理由には繋がりづらい気がする。


 だけどその答えに辿り着く前に妹ちゃんは腕時計に視線を落として「あまり遅くなると父が心配しますから今日はここでお暇させて頂きますが、このことはくれぐれも内密にお願いしますよ」と念を押して去っていった。

 興味本位で蓮さんのバイト先に行っただけなのにこんなことになるとは。なんだか厄介な問題に足を踏み入れちゃった気がする。せめて俺がここで暮らす間くらいは平和であってほしいんだけど。


 *


 提出が明日までの課題に時間を取られたせいですっかり遅くなってしまった。もう寝ないと。だが悲しいかな。育ち盛りの悲しい性で小腹が空いてしまったのだ。このままじゃ空腹で寝られないだろうから何か摘むものはないかと冷蔵庫へ向かうとどうしたことか、台所の灯りがついてる。京子さんが消し忘れたのかな。

 と思ったら違った。京子さんはレースの埃よけがかけられた夕飯の前で物憂げに頬杖を突いていたんだ。


「寝ないんですか?」

 そう聞くまで俺がいたことに気付かなかったのか、京子さんは少し肩を跳ねさせた。

「そういうタカシくんこそ」

「俺は今から寝ます。課題やってたらちょっと遅くなっちゃって」

「そうだったの。エラいわねぇ」

「いや、むしろ逆っす。後回しにしてたからこんなギリギリになっちゃったんで。そのせいで小腹まで空いちゃうし」

「食べ盛りねぇ。おむすびでも作ろうかしら」

「え、いいんですか?」

「お安い御用よ。私、たくさん食べる人……たくさん食べる子が好きだから」

 そう言って京子さんはいそいそと俵形の塩むすびを二つ作ってくれた。アツアツだったからまだ炊飯器の電源を切ってないらしい。


「それはそうと京子さんっていつもはもっと早くに寝てません? もう日付変わりますよ」

「そうなんだけどまだ蓮ちゃんが帰ってきてないからねぇ。遅くなるって連絡もらってたけど何時とまでは言ってなかったし、帰ってきた時にご飯が冷めてたら寂しいじゃない?」

「あぁ、それで炊飯器の電源入れっぱなしだったんですね」

「あら、男の子なのに鋭いわね」

「え、えぇ、まぁ。俺の家、母さんいなかったから夕飯とか全部自分で作ってたんです。父さんは父さんで仕事で帰りが遅いから夕飯はレンジで温め直して食べてもらってたんですけど、食べ終わったら炊飯器のコンセントくらい抜けって言ってるのにしょっちゅう忘れるんですよ。電気代がもったいないからって怒るんですけど父さんはその度に『スマンスマン』ってヘラヘラしてて……」

 思い出したらまた腹が立ってきた。おっちょこちょいと言えば聞こえはいいが、実際はただのドジだ。ただ、こういった家庭的な話はウケが良かったみたいで京子さんは口を覆ってウフフフと笑っていた。


「ウチの主人とそっくり。どうして男の人って家のことになるのスイッチが切れちゃうのかしらねぇ。仕事だとシャキシャキしてるのに」

 ウチの主人。でも見たところ京子さんは独り身だ。家族写真なんて見たことがないし、子どもがいるとも聞いてない。

「その点タカシくんはしっかりしてて偉いわ。朝寝坊もしないし、好き嫌いも少ないし」

「いや、俺なんて全然……。むしろ親元を離れられて清々してるっていうか──」

 そこまで言ったところで玄関から物音がした。もしかしなくても蓮さんが帰ってきたみたいで、ドタドタと可愛くない足音をさせながら台所までやって来て何を思ったのか「うぃ〜、たっだいまぁ〜」と俺にしなだれかかってきた。


「ちょ、なんですか蓮さん重いって。ってか酒クサッ」

「今日もロクな男捕まえらんなかったわ〜チクショウメ〜」

「知りませんよそんなの。離れてくださいって」

「なんだよぅ、ツレないわねぇ」

 完全に悪酔いしてる。いったいどれだけ呑んだのやら。

「そんな風に絡み酒してたらイイ男だって離れていきますよ」

「言ったなぁ。ガキンチョのくせに。童貞のくせに」

「う、うるさいなもう。勝手に決めつけないでくださいよ」

「え? 童貞じゃないの?」

「童貞ですけど……」

「なーんだ、やっぱり」

 蓮さんは勝ち誇ったかのように俺の背中をバンバンと叩いてくる。めちゃくちゃ鬱陶しいんだが乱暴に振り払うとこの悪魔のことだ。何をしでかすか分かったもんじゃない。けど思わぬ形で俺に味方が現れた。


「蓮ちゃん」

 あれだけ騒がしく俺をもみくちゃにしていた蓮さんの動きが急に止まった。声の主は間違いなく京子さんなんだけどいつもと質が違ったからか。なんていうかドスが効いていて、これにはさしもの蓮さんもビビったみたいだ。

「あ、あははー……どうしたのよ京子さん。そんなに怖い顔して……」

「そんなことより、何か言うことは?」

「い、言うこと?」

「今何時だと思ってるの」

「うっ……じ、十一時四十分です、けど……。でも今日は遅くなるって」

「限度があるでしょう。遅くなるって言ってもおおよその時間すら伝えないのは良くないわ。もったいないから夕飯がいらないのなら予めそう言ってほしいし、そもそも私は若い女の子がこんな時間まで外で遊ぶのも感心しないわね。何かあったらどうするの」

「か、過保護すぎじゃない? アタシ一応大人よ?」

「三食昼寝付きでなにが大人なもんですか」

 あちゃー。京子さん、口調こそ穏やかだけどプリプリしてるなぁ。格安で住まわせてもらってるから蓮さんも強く出られないみたいだ。


「とにかく、今後似たようなことがある時は時間と夕飯がいるかどうかも連絡すること。また同じことを繰り返したら御夕飯抜きですからね。分かった?」

「はーい……」

 蓮さんはすっかり小さくなってしまった。しかし凄いなぁ京子さん。こんなに優しい人なのに凶暴な犬も同然な蓮さんを完全に手懐けてるんだから。今度コツでも聞いてみようかな。

 その後、蓮さんは残った夕飯をものの十分程度で綺麗に平らげてしまった。かなりの量のお酒を呑んでるはずなのによく入るもんだ。


「蓮ちゃん、私もう寝るから今日は自分でお皿洗ってね。タカシくんもあんまり夜更かししないこと。それじゃ、おやすみなさい」

「おやすみなさーい」

 あくびをしながら自分の寝室へ向かう京子さんを見送ると台所はさっきまでの喧騒が嘘みたいに静かになった。

 俺は事あるごとに蓮さんにけちょんけちょんにされてるから珍しくシュンとした姿を見ると日頃の恨みを晴らしたくなってきた。だから意趣返しだと言わんばかりに「怒られてやんの」とからかうと目にも止まらぬ速さで肘打ちが飛んできて俺の脇腹へクリーンヒット。うん、悪いことはするもんじゃないな。


「いてて……。そういえば蓮さん。例のストーカーの子がウチに来ましたよ」

「……あっそ」

「なんか蓮さんから聞いてた話と全然違うんですけど。あの子、蓮さんの妹さんなんでしょ? なんで嘘なんか吐いたんですか」

「妹なんかじゃないわよ」

「そんな言い方酷くないですか」

「酷い、かぁ。アタシの境遇のほうがよっぽど酷いと思うけどね」

 なんだろう。京子さんに怒られたからか、今夜の蓮さんはしんみりとしてる。目も湿っぽいし、表情にもイマイチ覇気がなかった。それはそれとしてこの空気で境遇について聞いてもいいんだろうか。


「聞きたいって顔に書いてるわよ」

「え、マジっすか」

 どんな顔してたんだと慌てて顔をペタペタ触ってみたけど鏡がないから分かりゃしねぇ。そんな俺の姿を見て蓮さんは眉尻を下げて少しだけ笑った。

「アンタ、ウチの妹を見てどう思った?」

「どうって、めちゃくちゃ美人だなぁと。言葉遣いとか所作って言うんすかね、そういうのを見てるとイイトコのお嬢様みたいな感じっす」

「ふーん。意外と見る目あるのね、アンタ」

「意外とってのは余計っすけど……イイ線いってました?」

「うん。父親……まぁアタシの父でもあるんだけど、妹は貿易会社の社長の娘だからね。家には執事やメイドがたくさんいて面倒見てもらってさ、幼いころから色んな習い事もさせてもらってるの。親族の集まりにもしょっちゅう顔を出してて昔から忙しそうだったわ」

「はぇ〜。本当にいるんすねぇ、そういうの。執事やメイドさんが一人いるだけでも凄いのにたくさんて」

「まぁね。手前味噌だけどウチの屋敷って土地も建物もめちゃくちゃ広いから一人や二人じゃ掃除なんかとてもじゃないけど間に合わないのよ」

「そのメイドさんって住み込みなんです?」

「人によりけりね。通ってる人もいれば住んでる人もいる。ベビーシッターの人もいたわ。メイドにも家族や子どもがいるからね。で、アタシのお母さんはそこのメイドだったの。ちなみに妹の母親はお父さんの許嫁」

「ん? ってことは……」

「そ。めかけの子なの、アタシは。対する妹は由緒正しき血統のサラブレッドってわけ」

「え、えーっと……すんません。俺、こういう時なんて言えばいいか分かんなくて……」

「気なんて使わなくていいわよ」


 軽い世間話のつもりで始めたのにこんなヘビーな生い立ちを聞かされるとは予想外だ。自分の母親がメイドで妹ちゃんの母親は父親の許嫁。そういうからには多分、妹ちゃんの母親もお嬢様なんだろう。冷静に考えたらキツすぎる。そして父親がクズすぎる。

「それとアンタは多分勘違いしてると思うけど、悪いのはアタシのお母さんだからね。お父さんはむしろ被害者」

「へ?」

「お母さんってばお父さんに夜這いを仕掛けたのよ。で、妊娠したことは秘密にしてたの。妊娠二十二週を超えれば中絶手術は受けられなくなるから」

「うわ、エグッ……。そんなに親父さんのことが好きだったんですか?」

「さぁね。むしろ打算しかなかったんじゃない?」

「といつと?」

「アタシのお母さんってめちゃくちゃビンボーな家の子だったのよ。高校生の頃に親から富豪の愛人に売られそうになったこともあるくらい。さんざん虐げられてきた人生だっけど、貿易会社の跡取り息子の子を産めばワンチャン自分もイイ立場を与えられて人生大逆転できるとでも思ってたんじゃないかしら。天地がひっくり返ってもいちメイドがそこまで成り上がるのは無理なのにさ」

「どうやっても無理なんですか?」

「無理無理。だって考えてもみなさいよ。脈々と受け継がれてきた一族に下賎の者を混ぜられると思う? それも、娘を売ろうとした一家の血を」

「あー……」

「そもそもお父さんと知り合えたこと自体奇跡みたいなものなんだから」

「どうやって知り合ったんです?」

「空腹で生き倒れてたところをたまたま通りがかったお父さんに介抱されたんだって。確かその時、お父さんもお母さんも高校を出たばかりで十八歳だったはず」

「同い年なんですか。ドラマチックすぎません?」

「だから奇跡って言ったでしょ。まぁ、そんな奇跡は長続きしなくてね。お母さんは周りの目を気にしたのか、アタシを産んでしばらくしてからどこかに逃げちゃったの。それきり音信不通。生きてるのか死んでるのかすら不明ってわけ。以上アタシの生い立ち終わり」

 ヤベー、反応に困る。今日び昼ドラでもここまでドロドロにしねぇよ。


「ちなみに許嫁の人ってそのことは知ってるんですか? 自分の旦那に隠し子がいるってことでしょ? 普通なら気分良くないと思いますけど」

「さっきも言ったけどお父さんは被害者も同然だから気にしてないみたいよ。表面上そう繕ってるだけかもしれないけどね」

 本当はもうひとつ聞きたかった。その環境で蓮さんはどう育てられたのか。実の母親が雲隠れするくらいだから相当居づらかったんじゃないだろうか。子どもに罪はないのだから関係なく愛情を注がれたと思いたいけど、家出してるくらいだからその線も薄そうだ。

 にも拘らず、趣が違うとはいえ自分もメイドをやってる蓮さんのことが不思議でならない。


「じゃあ蓮さんが日比野って名乗ってるのは?」

「それは……意地みたいなものね」

 意地、か。けど俺には苗字が実の母親との唯一の繋がりだから残しているように思えた。考えすぎかもしれないけど。

「ちょっと話しすぎたわ。やっぱり酒は飲みすぎたらダメね。アタシ風呂入って寝る。アンタも子どもなんだから夜更かしはほどほどにしときなさいよ〜」

 それだけ言うと蓮さんはそそくさと自室に引っ込んでしまった。あとに残ったのは綺麗に平らげた京子さんの晩ご飯のお皿だけだった。

「洗ってねぇじゃん……」

 まぁ、今日ぐらい俺がやっといてやるか。ひとつ貸しだぜ、蓮さん。 


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