第5話
■4日目 夜
「本読んでいるところ、初めて見たよ」
「読む以外に、これで何をするんだ」
「さぁ、落書き?」
「打撲武器としても使えるかもな」
「凶器じゃないか、やめてよ」
じと、っとした瞳で百合に睨まれると、慱飯は笑って肩をすくめて見せた。
場所は百合の部屋。帰宅したのち、夕飯を終えると慱飯は彼女の部屋へと籠っていた。この日は珍しく、いつもの時間になっても彼女は眠ったままであった。
百合が目を覚ますと、すぐに目に飛び込んできた彼に驚き、目を丸くした。彼女は年齢は分からないが、幼い顔をしているせいか、やけに愛らしい表情だ。
そのことを慱飯に指摘されて、現在は拗ねている最中である。
「ごめんって。もう本ばっかりに構うのはやめてくれよ」
「二度と馬鹿にしないと誓うか」
「馬鹿にはしてないよ」
「それに、部屋の主人が寝てる最中に忍び込むのもどうかと思うぞ」
「ああ、それはごもっとも」
ヘラヘラしている慱飯が癪に触ったのか、百合は眉を顰める。
「…ご機嫌だな?」
「ご機嫌ではないかな、笑うしかないんだよ」
慱飯はほったらかされていた木箱を机がわりに、手紙の内容を別の紙に書き写していた。机の上の手紙には、最初よりは翻訳がいくらか進んだ様子が垣間見える。それでも、調子がいいとは言えない状況だ。
「全然進まない 」
「手紙の内容は?」
「マリアさん曰く、遺書だろうって」
家に帰って早々に、慱飯はマリアに捕まっていた。内容はアイザックのこと、街の様子、ブレンダンの様子。
話の流れでマリアに手紙があった場所を質問すると、顔を陰らせて「彼女の死体の隣」と答えてくれていた。
手紙も、恐らく関係しているものであると。それ以上は、慱飯も追求はしなかった。
「何、死体の隣にあったのか?」
「そうだってさ」
「死体はどこにあったんだ?どういう死に方をした?」
「そんなこと、聞けるわけないだろう」
「死んだ状況が分かれば、彼女の心境に近づけるかと思ったが」
「ああ、確かに。葛木薫の心境さえわかれば、すぐにでも手紙を終わらせることができたかもしれないのに…」
百合は考え事をやめて、文字と格闘する慱飯に目を落とす。
「君は手紙の翻訳が楽しくないのか?」
「…楽しくは、ないね。それに焦るんだよ。いつまでもここにいるわけにはいかないからさ」
疲労が溜まっているのか、連日百合と会話を続けるせいで寝不足が祟っているのか、彼は力のない表情である。
「もし翻訳を頼まれなかったのなら、君は今頃どこにいたんだ?」
「この先の、ここより少し大きな街の中だろうね。正直、ブレンダンさんがいる町は予想よりも大きかったけど、そこよりも大きな場所さ。」
「そこで何をするんだい」
「商会に行くんだよ。内容はまぁ…お金のやり取り」
「こんなところで油を売っていて、いいのかい」
「油を取られたからここにいるんだろ」
百合が笑って肩をすくめた。
「時は金なりと言うだろう?商機がどんどん溢れていくような気がして、体が落ち着かないんだ。」
「…なら、何故旅商人なんてやってる?どこかに定住でもして働けばいいだろう。そうすれば、そんな不安に駆られることもないだろうに」
「…」
慱飯は、すっかり黙り込んでしまった。布一枚擦れる音すら聞こえないほどに、重い静寂が横たわる。
「帰りたいんだよ」
「え?」
「帰りたい、自分の国に」
遠いけど。
あとの一言は、百合に聞かせるつもりがないほどに小さな小さな声であった。
「金を稼ぎつつ、ずっと東に向かう必要がある。俺の国は東にあるから」
「国に帰ったとして、居場所はあるのか」
「知らないなぁ」
「知らないとはなんだ。どの地域に住んでいたのかも分からないのか?」
「分からないね、もう随分昔に離れちゃったから」
「お前はなぜここにきたんだ?」
「成り行きだよ」
「成り行き?」
ぼうっとした表情のまま、慱飯がいう。
「ああ。西人は東人を歓迎してたんだ」
「えっ?どうしてだ?」
「まあ色々理由はあるんだけど…東人狩りが一番かな」
「なんだ、それは」
「昔...つっても、30とか40年ぐらい前の話。西と東は戦争をしててね。どちらも疲弊した状態で、いい加減嫌になった国々が終戦を提案したんだ」
「うん」
「両側とも納得して、終戦が締結。西と東は文化交流しよって話になった」
「文化交流...」
「ああ、それで両国に流れた人が結構いた。でも...」
百合は真剣な表情で慱飯の話に耳を傾ける。
「東人は、性格は神経質で職人気質なやつが多いらしい。技術的には高かったんだけど、排他的な雰囲気もあった」
「小さくて、力がないけど、働き者の東人...」
「うん、そうさ。西側にさえ連れてくれば、権力も持たない、筋力もない、金もない技術だけもった、小さな人間。末路は予想できるだろう?」
慱飯の目は、いつの間にか閉じられていた。眉間には力が入り、僅かに声が震える瞬間には必ず口を噛み締めて、一度唾を飲み込んでいるようだった。
壁に寄りかかり、いっそこのまま眠ってしまうのではないかと言う体制ではあったが、その体には無意識か、緊張が走っている様子がわかる。
「東に流れた西人についてはよく知らないけど、一番流行ってたのは10年も前さ。規制が馬鹿みたいに緩かったんだよ」
「国々のトップは問題視しなかったのか?」
「当然問題になった。差別も本来禁止されている。今は正式な理由がない限り、西人が東人を無理矢理連れて行くことはできないよ。勿論、逆もね」
うん、と百合が相槌をうつ。
「葛木薫が羨ましい」
彼の赤い赤い目が、眠たそうに開かれる。
「羨ましい?」
「ああ、だって、ここは平和だろう?戦争は昔のことになって、町は随分食べ物に溢れてて、差別もなくて人間に余裕がある。…ここはもしかしたら、流行りが届くのが遅いだけなのかもしれないけどね」
「…ブレンダンが持ってきたのも、食べ物だったか」
「ああ、なんだっけ?今は初夏だから...」
僅かに考えていたが、よく頭が動いていない様子の慱飯は直ぐに肩をすくめた。
「まあ何にせよ、ブレンダンは良い男だな」
「随分良質な働き口があって、心配してくれる家族もいて、帰る家があって、言葉を学べる環境にあって、町の雰囲気だってそこまで悪くはないはずなのに。薫は何で死んだんだろうな」
「事故の可能性もあるぞ。この森からは時折、獣の声もするからな。1人でふらりと家を出て、そのまま襲われた可能性もある」
「ありえないでしょ、遺書あるんだよ。どうせ死ぬなら報告はしっかりすればいいのに、自殺なんて見つからなかったら、腐る一方だ」
「....わざわざ死ぬのに報告がいるのか?」
小首をかしげる百合に、慱飯は思わず笑い声を上げた。
「あっはっは、そりゃそうだね、いらないか。俺が旅商人やり始める時に世話になった恩師の口癖が、報告だけは絶対しろ、だったのさぁ。その考えが抜けなくて」
「恩師がいたのか」
「流石に1人じゃ文字は学習できないからねぇ、薫のように、必死に教えてもらったよ」
慱飯は、薫のノートを手に取るとパラパラと捲る。汚い文字ではあるが、慣れない子供が必死で書いたような、微笑ましい文字である。小さく薫の国の言葉でメモ書きされている部分を指でなぞりながら、慱飯はその文字を目で追った。
「マリア・ゴーチェ、アイザック・ゴーチェ、ブレンダン・フゥファニィ…」
「なんだ」
「はは、みんなの名前が書いてあるんだよ。薫の国の言葉ではこう書くんだな。ただ、個人情報そのまんま。盗み見している気分だ」
「実際盗み見ているんだろう」
「確かに。違いないや」
外の雲は次第に晴れて、月灯りが顔をだす。天候が変わったのに気がつくと、わざわざ出窓へ移動して、全身に光を浴びる慱飯。
心地良さそうに目を細める彼を、百合は可愛らしいものを見る目で見つめていた。
「葛木薫なんだがね」
「うん」
「心の病を患っていた可能性がある」
窓に顔を向けたまま、慱飯は瞳だけを動かして左にいる百合を見つめた。
僅かに、顔は顰められている。
「激しい気性と、大人しい気性があること。
周囲の人間の言い方から察するに、この気性の波が交互で起こっていること。
“元気すぎ“が原因で仕事は厨房に1人隔離されていること。この時は多弁で過食、かつ感情の起伏が激しいこと。
“体調不良”で一定期間休みが必要なこと、この時は全くと言っていいほど会話がなく食事を取らず、一歩も動けない状態であるということ」
百合は指折り数えて、薫の特徴を上げていく。
「病を断定するには流石に要素やエピソードが少々足りないが、そのノートの細かさを見るに、仕事を自主的に止めるような人間ではないだろうな」
「はあ…そうなんだ?」
「わかってないな?」
「この家は、あんたの部屋以外だとほとんどが薄暗い。いつまでもいたら、精神が病むかもしれないよ。けどさ?」
薫に対する不信感は、慱飯の声色から読み取れる。彼がそういった感情を持つのは不思議ではない。
彼も含めたほとんどの人間にとって、精神疾患などは病とすら認識し難いものであった。
百合は世間を知らない。そのために、飽くまで本で得た知識をなぞっていく。
「私も当人ではないから、彼女が何を考えていたのかは分からない。ただ、彼女が死んでしまったのは、心を病んでいたと考えれば自殺の路線はありえるだろ?」
「自殺しかないんじゃないっけ」
「はは、一番高いというだけさ。いろいろな可能性を考えなければね。
そして活発な状態があるのなら、その時の弾みで…ドーン」
百合は、己の口蓋に銃を構えるような動作をした。銃にもよるが、確かにそこから打ち込めば、自殺も容易である。頭の骨が硬い分、大して弾け飛ぶこともないだろう。良いところで銃弾がスポンと脳と骨を破り抜ける。
ナイフなどでは躊躇することを考えると、随分綺麗な死体の完成するだろう。
「うっわぁ…嫌なこと想像させないでよ…」
脳裏に浮かんだ光景を頭を振ることで消そうとする慱飯。彼の顔は思い切り顰められていたが、百合は愉快そうにケラケラと笑った。
「君、もう寝たほうがいいんじゃないか?今なら良い夢でも見られるかもしれないぞ?」
「ほんと、最高な夢が見れそう」
まったく…とため息まじりに慱飯は頭を掻いた。いつもより早い時間であるが仕方があない。周囲のメモ書きや翻訳の写しを回収して扉に向かおうとする。
しかし、ふと何かを思い出したように彼は振り返った。
「そうだ、俺あんたに聞きたいことがあってさ」
「なんだ?」
百合は小首をかしげる。
「あんたはなんで読み書きができるの?」
そんなことか。と彼女は笑った。
「決まってるだろ、アイザックが教えてくれたんだよ」
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