第4話

■3日目 夜


「人の評価が全く違う人なんているのかな」


 月も高く登る頃、慱飯は昨夜と同じく百合の部屋へと足を運んでいた。


 理由は簡単。単に話し相手が欲しかったのである。

 

 アイザックは相変わらず食事時以外は捕まらず、マリアは落ち着きなく話すためにまるで翻訳が進まない。加えて彼の部屋は朝の僅かな時間以外は一日中薄暗く、気を病んでしまいそうだった。


「来て早々何の話だ」


「昼間の話だけど」


「私は日が出ている間は眠っているんだよ、詳しく話してくれ」


「え、じゃあ昨日の告げ口の話は?」


「半分うーそっ」

 

 肘あてに肘をついて、困惑する慱飯をみる百合は大変楽しげであった。

 慱飯は昼間のブレンダンの来訪と、マリアから離された薫について百合にすっかり話してしまう。


「穏やかな気性と、激しい気性を持った女か」


「あんたは葛木薫にあったことないの?」


「ない。私はここから動けないからな」


 百合が視線を落とす。視線の先にある慱飯の手の中には、いくつかのノートが開かれていた。


 中には紙切れを貼り付けたり、そのまま直に書いたりと乱雑な印象を受ける。しかしながら、この国の言葉と連動するように別の言語が書かれていた。

 翻訳に苦労していた慱飯には大変有用なこの本は、薫の所有物である。


「翻訳は進みそうか?」


「ぼちぼちかな。これの中身を照らし合わせていくのは時間がかかると思う」


「薫の字が汚いから?」


「はっきりいうね。内容はほとんどが簡単な一般用語だから助かってるけど、読み書きが怪しい外国人だろ?これで達筆だったら恐ろしいよ」


「確かにな」


 乾いた音をたてて、慱飯がノートを捲る。積まれたノートは外見はほとんど同じものだが、使い込まれているのか所々に皺や劣化が目立っていた。

 パラパラ中身を捲ると、時々薫の国の言葉で何やら長文が書かれていることがあった。日記だろうか、それとも覚え書きだろうか。手紙の落ち着いた文字と見比べると、殴り書きのように見えてしまう。


「そういえば、それはどこから掘り出してきたんだ」


「俺の部屋」


「え?」


「俺が泊まってる部屋。元々薫さんの部屋なんだってさ、クローゼットの奥深くにこれがあった」


 百合は僅かに顔を顰めた。

 何故わざわざ見ず知らずの旅人を、鬼籍に入った友人の部屋へと泊まらせたのだろうか。気持ちのいい話ではない。


「君を案内したアイザックは一体何を考えていたのだろうな」


「…ああ、そういえばあの人に案内されたんだっけか。泊まれる部屋がなかったんじゃないの?」


「それはそうだが、君の話を思い返すとあれの行動には時々違和感を感じる」


 慱飯は顔を上げないまま、百合の話に相槌を打つ。


「まあ、確かに」


「薫はここに暮らしていたのだろう?アイザックが語学に堪能であるならば、薫に文字を教えればいいと思うがね。ブレンダンが薫に言葉を教えるよりも効率はいいだろうに」


「はは、そうしてくれたら俺もこうして難儀することはなかったろうにね」


 百合は頬杖をついて、目を閉じて考えに耽る。蒼い光の中には、慱飯のページを捲る乾いた音がパラリ、パラリと響いていた。僅かな時間の後、気だるそうに目を開いて、一言呟いた。


「…君が私に協力を求めたのは正解だったかもしれないな。」


「ああ、ここは明るくてノートが読みやすいよ」


「違う。アイザックは、思ったより薫に良い印象を持っていないだろうということだ。ついでに、君にも」


「タダ飯食ってる身だからね、マリアさんの依頼とはいえあまりいい気はしないだろうよ」


「君は引き留められてここにいるのだから、そこは気にしてはいないだろうさ。ただ君が妙にアイザックと顔を合わさないのは避けられているのではないかと思ったんだ」


「そう?」


「葛木薫は感情の波が激しい面倒な人物だったようだし、君と同じく東人だろう?重ねて見られていても不思議じゃないと思うがね」


「見たこともない相手と重ねられてもなぁ…」


「私がアイザックに協力を求めることを勧めないと、その意味もすぐにわかると言ったのを覚えているかい?」


 思い出すように、空を見ながら慱飯は「ああ」と声を出した。


「言ってたっけ、そんなこと。」


「昨日の話なんだが…?」


 呆れた顔で慱飯を見る百合に、彼自身は肩をすくめて見せた。


「考えることが多くて」


「…まあいい。彼は時折、薫について話していることがあってね」


「話す?誰と?」


「それは知らんが...ただ内容が内容だからね。あまり気分がいいものではない。だからこそ、元々薫について聞くのは不利だと思った。君と薫を重ね合わせるような幼稚な真似はしないと信じたいが…あれについて少し不安に感じてきたな」


「でもあまり避けれるのは困る。俺、町に行きたいと思ってるんだ。」


「そこでなぜ困るんだ?」


 慱飯がここで、初めて顔を上げた。

 真剣な表情に、百合は少し驚いて彼の顔を見つめる。


「…道がわからない」


 そういえばこの慱飯という男、そもそもこの森で迷いに迷って辿り着いた先がこの家である。

 そんな男がとても1人で抜けられるとはとても思えない。不意に緊張が途切れたせいか、百合の喉から小さく笑い声が漏れた。


「真面目な話なんだよ」


「それはそうだけど、ははは、多少は気まずそうにしたりするものだろ?君ときたら真剣に間抜けなことをいうものだから、ふふっ」


「ご自慢の耳で訳は知ってるだろ?あまり笑わないでくれよ」


「わかった、わかったよ。悪かった。そうすねないで、タンパン君」


 百合の声色は穏やかで、この会話を楽しんでいることがよくわかる。彼らが去った後、手を伸ばして本を取る。明日は自分の部屋にまたやってくるだろうか。本を読みながら、彼女は次を待ち望んでいた。


■4日目 昼


 慱飯の願いは、驚くほどに簡単に達成された。

 道の案内をしてもらうだけであったので二つ返事で了承されたのである。僅かでも嫌な顔をされることを想定していた慱飯は、若干拍子抜けしながらもこの結果に喜んだ。

 彼が聞かれたのはたった一言。


「翻訳は諦めたのか?」


 それだけである。

 慱飯が否と答えると、それ以上は追求すらされなかった。相変わらず、この寡黙な男の意図がわからない。


 町は意外にも大きなところだった。周囲が森に囲まれているために、食糧にはほとんど困らないだろう。市場には果物が多く並び、賑わっている様子である。

 流行が届くのが遅いためか、身につけている服は少し古臭い。


 しかしながら、それが大多数となっては全く違和感を感じない。生活に余裕があるのか、全く知らない旅商人である慱飯も大らかに受け入れられた。


 アイザックは、帰りの時間と集合場所だけを伝えると早々にどこかへ消えていった。昨日のブレンダンの話からすると、どこかに文字を教えにいったのだろう。

 慱飯も自由に乗っかって、ついでに持ってきた商売道具を背負い直すと、どこか商売できそうな場所はないかと探し始めた。


 キョロキョロと探していると、一軒の店が目に入る。町の中心から少し離れた路地裏で、僅かに薄暗さを感じるそこはどうやら飯処のようである。


 朝、アイザックに聞いた例の店は意外とすぐに見つかった。


 店に入ると、数人の客が飯を食いながら談笑をしている。店の内部は見た目通り狭い。荷物を減らしてきてよかったと、慱飯は胸の内で安堵の息を漏らした。

 声をかけると、聞き覚えのある声が返ってくる。


「いらっしゃいませ〜…あれ?」


 出てきた店主は、慱飯の姿を見て驚きの声をあげる。


「タンパンさん!」


「昨日ぶりですね、ブレンダンさん」


 仕事着を身につけたブレンダンは、花が咲いたように笑った。相変わらず、穏やかな雰囲気を持つ人物である。


「今日は翻訳はお休みですか?」


「いいえ、実はその翻訳のために足を運んだのですよ」


「俺の店に?」


「ええ。彼女がお世話になったお店は、一体どんな場所だろうと思いまして。

そうだ!ブレンダンさん今日のおすすめは?」


「はは、わかりました。今日はこの料理がおすすめですよ」


 ブレンダンが作った料理を口にしながら、慱飯は店の様子を見渡した。常連らしき客が時折ブレンダンと談笑する様子が見られる。


 一人の男が、慱飯の対面に腰掛ける。力仕事をしているのか立派な体格をした中年の男だった。


「よお、にいちゃん。あんたブレン君と友達かい?」


「ええ、昨日初めてお会いしましたが、彼はいい人ですね」


「そうだろうそうだろう、あの子はいい子だからねぇ」


 厨房で料理を作るブレンダンを我が子のように優しげに見つめるのが、慱飯にとっては印象的であった。


「彼の人の良さには救われています。料理の腕前も確かなようで」


「ああ、親父さん譲りの腕前なんだよ、昔は皿を割ってゲンコツ食らって泣いてたのさ。想像できるか?」


「いいえ、全く。だって今は、あんなに穏やかに笑うんですから。」


「ああ、ブレン君の笑顔は町一番だからな、あの顔を見て釣られねぇやつなんていないんだよ!」


「ちょっと、ダニエルさん。やめてくださいよ。あんまりタンパンさんに変な話するのは!」


 いつの間にか後ろに立っていたブレンダンに気づき、ダニエルと呼ばれた彼は事実だろう!と快活に笑って見せた。

 ブレンダンも呆れた様子だったが、すぐに他の注文に呼ばれて消えていった。


 怒られちまった、と彼は頭を掻きながら向き直る。


「あんた、タンパンって言うのか?」


「ええ。ダニエルさんとお呼びしても?」


「んな堅苦しい呼び方するなよ、ダニエルでいい。後、その硬い言葉遣いもやめてくれ」


「ああ、わかった。郷に入れば郷に従えと言うからね。そうさせてもらう」


「はは、物分かりがいいやつは好きだぜ。前のやつは喋りゃするが、何が言いたいのかよくわからん時が多かったからなあ。おまけにキレる時がよくあった」


 その言葉に、慱飯の耳が反応する。


「前のやつ?」


「ああ、前の東人な。言葉が苦手とか言ったっけか。ブレン君が教えてるそうだったけど、聞いてみたら発音も下手だし文字も拙い。だから、時々俺らも加わって教えてたりしたんだよ。ここは基本、暇を持て余した常連しか来ないからなぁ」


 なあ、みんな!とダニエルが声をかけると、暇じゃねぇよとヤジが帰ってきた。

 仲が良くて何よりである。


「その東人のことで、何か覚えていることはありますか?」


「にいちゃん、気になるか?でもよ。俺らもあんまり知らねぇからな。ブレン君に聞いた方が早いと思うぜ。時々いたり、いなかったり」


「はあ」


「体が弱いらしいってのは聞いてたけどな。よく寝込むんだとよ。…そういや、今日は来てねぇな。おうい、ブレン君。カオルちゃんは今日どうしたんだよ!」


 ブレンダンの動きが、一瞬だけ止まった。

 振り返る頃にいつもの笑顔に戻っていたのは、彼の経験がものをいったのだろう。


「ああ、彼女なら国に帰りましたよ!」


「えぇ?そりゃあ突然だな。挨拶くらいしてくりゃ盛大な送迎会でもやったのにな。あいつはよく食うやつだったから」


 お前が飲み食いしたいだけだろう!と周囲の常連からヤジが飛ぶ。

 ブレンダンは彼らと一緒に笑っていた。若干、引き攣っていはいたが。


「お前さん、タイミングが悪かったな!」


 ダニエルは慱飯に振り返り、ニッと笑ってみせた。

 慱飯は応じて微笑み、首を横に振る。


「話が聞けただけでも満足だよ。ここに東人はなかなか見ないからね。同郷ならば話ぐらいはしたかったものだけど。」


「そうだなぁ。ここは田舎だから、都会に行けばもっといるだろうけど。そういやお前さん、なんでこんな山奥に来たんだ?」


「俺は一介の旅商人だからね、こうして新天地でのんびり話をするのは旅の醍醐味だろう?行く先行く先その時の気分さ」


 ここに来た本来の目的は、次の目的地へ行くまでの休み所としてである。

 嘘は言ってないのだ、半分くらいは。


「ははは、いいねぇ旅商人か。どんなの売ってるんだい?」


「今は持ち運べるようなものしかないよ。アクセサリーとか、そこらかな。これとか奥さんにどうだい?」


 しばらく、ダニエルと慱飯の持つ商品について語り合う。

 妻がきっと喜ぶぞ、と首を上下にカックンカックン振る赤べこを満足そうに購入した彼を見ていると、微笑ましくなる。


「ダニエルは、いつからここの常連なんだ?」


 話が一区切りついたところで、慱飯から話が切り出された。


「ああ、親父さんの代からさ。俺だけじゃない、他の奴らはみんなそうだ。親父さんが若い頃から、結婚して、子供が産まれて…その1人息子がブレン君なんだよ。」


「ああ、だからあんたの目はあんなに優しげだったのか」


「はっはっは、そりゃそうだ、母ちゃんの腕の中で泣いてた、あのふくふくした赤ん坊が今じゃ1人でしっかり店を回してるんだぜ。全く大したもんだよなぁ。」


「…1人で?」


 慱飯の返しに、穏やかにブレンダンを見守っていたダニエルは、ハッと気づいた様子で振り返った。声を落として、慱飯にささやくように言葉をつづける。


「…まあ、あの年齢で、何から何まで1人きり。それも突然そうなっちまったんだから、なんだ、ほら、わかるだろ?ブレン君も、色々苦労してんのよ」


「彼が“こうなった“のは、いつ頃ですか?」


「ん?あれはなぁ…カオルちゃんが店にくる前のことだよ。」


 ダニエルという男は、口の軽い男らしい。彼は思案するように顎をさすりながら、口を動かしていく。


「ある日突然、パッタリ両親が帰ってこなくなってな。あの時は確か…そうだ、日曜日だったことはよく覚えてる。普通はこの町、日曜日は休日だからな。ブレン君の店に行こうと思って、そうだ、今日はやってない。って思い直したんだよ」


「ええ」


「そんで店主...親父と奥さんにあってな。確か、森に料理のための獣を狩りに行くとか言ってたな」


「獣?」


「ああ、親父さん、店主である前に猟師だからな。あ、もちろんブレン君もだぜ。自分で獣とって、自分で捌いて、料理は奥さんが担当して、他の雑務もブレン君が手伝ってて…そういう家だったんだよ。奥さんの料理は美味かったなぁ…」


 ブレンダンが森を単身で移動できたのも、その名残だろうか。昨日の猟銃を持った彼が脳裏によぎる。


「食べてみたかったですね」


「だろ?まぁ名残惜しいが…きっと獣にでもやられちまったんだろうな。凄腕…ってわけでもねぇ。俺らと大差ない人たちだから、そういう危険性は当然あるんだ。帰ってこなくなってからは、まあ当然だが塞ぎ込んじまってよ、明るくなったのは…アイザックさんと会ってからだな」


「アイザックさん?」


 ここで、彼の名前が何故出てくるのだろうか。


「あ、しらねぇのか?この町じゃ有名な人だよ。文字がなぁ、ほとんど読めない書けないやつらばっかりだから、そこであの人が教えてくれてたのよ。だいぶ前からな。子供を預かったり教育するのは教会が元々やってたんだけど…」


 慱飯の脳裏には、ブレンダンの言葉が蘇る。彼は宗教の口上を口にしていたはずだ。


「まあ、こんな山奥だろう?随分前の戦争で神父様がこなくなって、寂れちまってな。アイザックさんが教えて回ってくれたのよ。ブレン君にあいつを勧めたのは俺なんだよ。とにかく、気晴らしになればいと思って」


 そうしたらよ、とダニエルは嬉しそうに顔を綻ばせた。


「ブレン君、そりゃあ明るくなってな。文字を習うのが楽しいんだと。そんで、しばらくした後に店が開いてたんだ。びっくりして寄ってみたらな、カオルちゃんが一人で机磨いてたのは覚えてる。その後すぐにブレン君が奥からひょっこりでてきたんだ。なんでも、アイザックさんから預かったとか」


「彼女は、アイザックさんから預かった…?」


「ああ!そうさ。結構クセのある奴でな。ほとんど皿洗いで途中で作業を忘れてすっぽかすことも多かったが、花を飾るセンスはよかった。親父さんもブレン君も、そういう装飾は苦手だから」


 うんうん、とダニエルが頷く。


「けど、カオルちゃんはさっき言った通り体が弱いだろう?頑張ってたみたいだけど、その反動か休みがちになって。まぁ、詳細はよくしらねぇんだけどよ」


「薫さんの働きぶりはどんな感じでした?」


「どんな感じ…つっと、まあ調子がいい時は多分あの子の国の歌だろうな。それが時々厨房から聞こえてくることもあった。ま、元気すぎで注意散漫ですっころぶこともよくあったが…悪い時はもう顔色真っ青でよ、死んでんじゃねぇかってぐらいな顔してたなぁ…帰国したんだろ?元気にやってるかね、カオルちゃん」


 ダニエルは懐かしげに遠くを見つめていた。彼にとって、薫という人物も仲間の範疇にいたようだ。




 しばらくして客の波が引いてしまうと、残るは彼が食器を洗う音ばかりが響くようになった。昼間でも薄暗いこの家は、慱飯の部屋を思わせる。そういえばあの家は、特定の場所からしか光が入らず、常に全体的に薄暗い家であった。


「お待たせしました。」


 仕事着、エプロンを脱ぎながらブレンダンは慱飯の正面に座った。


「お店はいいのですか?」


「ええ、このくらいの時間からは、暇ですから…そういえば、翻訳のことで聞きたいことがあったとか?お力になれればいいんですけど」


 ブレンダンは、慱飯に微笑んだ。彼は常に笑っているのではないかと思えるほどに、微笑んだ顔以外をほとんど見ない。


「もう充分、力になっていただいてますよ。実はこの前仰っていたメモが見つかりまして」


「メモ!薫さんの書いていた、あれですか?」


 慱飯は少し懐を探ると、一枚のメモを取り出した。お世辞にもうまいとは言い難い文字であるが、それを見た途端ブレンダンの顔があからさまに明るくなる。


「これ、覚えてますよ!俺の名前を聞かれたんです。これからお世話になるから、どうしても発音とスペルだけは教えてくれって」


「彼女は、教わったメモをこうして大事に持っていたようです。」


 今度は荷物の中から、例の薫のノートを取り出した。多くあるうちの一冊である。ブレンダンはノートを手に取ると、慎重にページをめくっていく。


「ああ、これ、うちの料理の名前です。そう、これも…あれ?こんなの教えたかな」


「どれですか?」


「これです、これ…」


 彼が指し示したところには、花々が沢山書かれているのが印象的なページだった。文字だけではなく、イラスト付きで書かれているところがなんとも微笑ましさを誘うページである。ただ、一つだけ謎の単語も書かれているページがあった。

 その単語だけは、なぜか彼女の国の文字で細かく説明がきが書かれている。読めないことが、大変残念であった。


「花々はブレンダンさんが教えたのではないのですか?」


「いえ、俺は店に関することぐらいで…後は、日用品のスペルとか、アイザックさんの名前とか…」


「このトル・ブギーっていうのはブレンダンさんの常連さんですか?」


 ブレンダンは、一瞬驚いたような顔をして顔を上げた。僅かな時間の後、急に彼は声を上げて笑い出したものだから、流石の慱飯も驚いて鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。


「な、なんですか?急に笑って…」


「だって、だって、タンパンさんが変なことをいうから!笑うのは悪いと思ってるんですけど!」


「じゃあ、これはなんだっていうんですか?」


 笑いすぎで滲んだ涙を拭うと、今度は未だに漏れ出る小さな笑い声を抑えるのに苦労していた。   

 慱飯は自分が何かへんな事でもしたかと、若干居心地が悪く感じる。笑いが治まると、ブレンダンはようやく口を開いた。


「ブギーマンって知ってます?」


「ブギーマン?」


「ええ。夜中に、母親が子供に言うんです。“早く寝なさい。夜更かしする悪い子は、ブギーマンがやってきて闇の中に引き摺り込んでしまうから”って。よくある民話ですよ、俺も散々両親から聞かされて、メソメソと泣いたものです。おまけにこの家、暗いからずっと怖くて…」


「…ブギーマンとトル・ブギーって、確かに名前は似てますけど、同じものなんですか?」


 ブレンダンが考えるように右上を見上げる。


「地域性のもの…だとは思うんですけどね。多分、トルバランの派生か何かだと思いますよ。色々言われてるんです、トルバラン、とか、トル・ブギー、とか。よく考えるとなんでそんなに派生があるんでしょうね」


「なら、この町の人には馴染みがあるんですか」


 慱飯の言葉に、ブレンダンは首を横に振った。


「いや、ないと思いますよ。俺の家、俺が小さい頃にこっちに越してきたんです」


「え?元々どちらに?」


「東のほうらしいんですけど…あまり両親から昔の話は聞かされていなくて。でも、ここの町の人が同じことを言うときにはトルバラン、じゃなくて“クロックミティーヌ”って言うと思いますよ」


「…クロック、ミティーヌ?」


「手袋のブギーマンで、ベッドの下やクローゼットの中に引き摺り込んで…攫っちゃうそうですよ」


 わざと声色を低く落とし、ゆっくりと話されるとこの家の薄暗さも相まって、いい雰囲気ができてしまう。目元に暗い影など存在しないのに、幻視できてしまいそうだ。

 まさか、とは思うが夜中に思い出したらたまらない。ふざけた調子で軽く怖がってみると、ブレンダンは満足そうにふふふ、と笑って見せた。どうやら、人を脅かすのが好きな一面もあるらしい。


「まあ、大方マリアさんにでも教えてもらったんだと思います。この説明書きは読めないけど…トルバランについての民話のメモじゃないですか?アイザックさんは、そう言うのは全部マリアさんに任せていましたから」


「アイザックさんは、薫さんに教えたりしなかったのですか?」


「マリアさんは基本、よくお話しする方でしょう?だから、ついでに頼んでいると聞いたことがありますよ。アイザックさんは寡黙な方ですし...薫さんは少し彼が苦手なようでしたから」


 葛木薫。2面性を持ったこの女は、一体何を考えていたのだろうか。話を聞けば聞くほど慱飯の眉間に皺が寄っていた。

 彼がアイザックと合流して帰る頃にはもうすっかり辺りは暗くなってしまっている。


 誰かに話して、頭の中をまとめたい。


 彼の脳裏には、あの家で唯一気軽に言葉を話せる百合の花がちらついていた。

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