第2話
■2日目夜
長旅では祖国の文字が恋しくなるらしい。
特に慱飯は、似通った隣国の文字でも僅かに読み解くことができるのならば触れてみたいという思いが強くあった。
無銭で泊まれる宿だと思えば、多少騒がしい住民が同居しているとしても問題はない。隙間が吹くこともなく暖かい食事も手に入るのだから、儲けものである。
加えてマリアは慱飯が持つ商品をいくつか気に入って購入していた。そういった手前あまり無碍にすることも憚られた。
「...無理だろ、コレ」
慱飯は、この翻訳に酷く苦戦していた。
薫の言葉は複雑である。読み方も違えば形さえまるで違うものもある。過去の記憶を総動員したとして、合っているかすら保障がない。加え、目の前には漢字以外にもやたら画数の少ない記号が並んでいる。
知識としてこれが平仮名であることは知っていたが、知らない単語まではどうにも出来なかった。
本だ、本が欲しい。できれば辞書のような本が。
言葉を訳すような書物は意外と貴重であった。
なんせ、読み書きが出来る事人間は重宝される世の中であるのだ。
さらに外国語を覚えようとする輩は、あまりいない。
「はぁ...少し休むか」
集中が途切れると、一気に周囲の音が耳に音が帰ってきた。獣の声がやたらと目立つ。
彼はグッと体を伸ばす。凝り固まった全身の血液が流れる感覚が心地よい。
「何でこんな書いたかなあ...」
いつまでも座り続けると、肩も腰も痛みが走るようになる。引き受けた手紙は14枚ほどで、びっしりと細かく書かれている。これを見るだけでも目眩がする。
わかるところだけ別の紙に書き取ってみてみても、まるで意味が分からない言葉の羅列になってしまうのだ。たった1日で仕事を引き受けた後悔が帰ってくる。
(なるべく早く終わらせて、町に商品を売りに行きたいよ)
彼は行き詰まってしまうと、自分の泊まっている部屋を出た。この家は光を取り込む仕組みが一般的なものよりもかなり少ない。
窓と言っても最小限のもので、記憶のあるかぎり廊下と、あの人形の部屋が例外的に明るいのだ。部屋には基本窓はない。あっても遮光カーテンで閉じられている。
家の中は昼間でも全体的に薄暗く、気分が滅入る。
彼の部屋を出てすぐ、右手にある窓のカーテンを開ける。
朝は日の光で暖かな雰囲気を纏っていた白い廊下は、今は月の光を燦々と取り込んで青く輝いている。舞い散る埃はキラキラと、揺蕩う空気に身を任せていた。
しばらくうっとりと眺めているとふと気づく。
人形部屋の扉が開いている。
慱飯の記憶の中で、明るい百合の花がちらちらと顔を覗かせた。
あの時は昼間であったが、夜にはどんな景色が待っているのだろうか。
(もしかしたら人形が動くかもしれないし)
大昔に聞いた怪談話を思い出して、苦笑した。
周囲を見ても、アイザックもマリアも姿を表す気配さえなかった。心臓の音さえ聞こえる気がした。
未知への興味は、顔と体に熱を持たせる。自らが盗人にでもなったような気持ちで、自分を落ち着けるためにトントンと胸を軽く叩いた。
(好奇心は猫をも殺す...なんてね)
言葉を脳裏に浮かべながら、"もしも"を期待した胸を落ち着かせ、息を潜ませる。疲弊し乾いた目で何度も瞬きを繰り返した。
ドアの隙間からは、やはり月灯りが溢れていた。
(うっわ、高そ....)
人形は姿を変えず、相変わらずそこで眠っていた。音が鳴らないようにゆっくりと扉を開け、滑り込んだ。人形に近づくと、それが本物の人間のようにさえ感じられた。
顔の彫りはアイザックたちに比べて浅く、東人をモチーフにしていることがわかる。作られているはずの肌が妙に生々しく、思わず慱飯はそれの頬に手を近づけた。
「っ…!」
反射的に手を引っ込める。陶器かと考えていたその肌は、柔らかく氷のように冷たかった。慱飯は自身の指とその肌を交互に見比べて、訝しげに眉を寄せる。
(冷たいけど、人肌の感覚とそう変わらない)
これは何から出来ているのか、皆目見当がつかなかった。
次に目をつけたのは、左目と頭から生えている百合の花々。本物であるはずがない。だが、こちらも瑞々しく思える。蒼い葉と真っ白な花弁は月の灯りを一身に受け、喜ぶように光を反射している。
黒い髪は、ざらりとした感覚を指に返してきた。直接光が当たっているからか、傷みが激しいようだった。
「まさか、本物じゃないよね…?」
慱飯がつい言葉を溢したことも無理はない。
後ずさろうとして、乱雑に積み上げられた本に足を取られた。気づいた時には手遅れだった。そのまま、ドン、という重たい音を響かせ倒れ込む。
「ぐっ...」
思わず声を上げそうになり、慌てて歯を噛み締めた。鈍い痛みに顔を歪ませながら、身を起こして家の住人が起きてきやしないかと僅かに開いたままの扉に耳を済ませる。
しばらくして、何の音も聞こえない事に安堵して、胸を軽くトントンと打った。知らずのうちに止めていた息を吐き出すと、一気に彼の体から力が抜ける。何気なく振り返ると、慱飯の動きが止まり一気に体が強張った。
人形の目が開いている。緑色の瞳が、じっとりと転んだままの慱飯を見下げていた。
「忙しいやつらだな…」
人形だと思っていた何かの口が動く。想定していたよりも低く、掠れたような声だった。
「幽霊をみた様な顔をするな、失礼だろう」
窓から吹いた風がソレの頬を撫で、慱飯の目にはその光景が酷くゆっくりに見えた。そこで初めて窓が開いている事に気づき、少しの間意識が右へと向く。
出窓から余すことなく入る月明かりは、穏やかに2人を照らしていた。瞬きを一つ落とし、視線を戻す頃には慱飯の体からは僅かに緊張が抜けていた。
「人形が喋った!」
「人形じゃないよ」
「人間か?」
「私はそう思っているが、やっぱり君には幽霊にでも見えてるのか」
「とても人には見えない」
「タンパン君はよっぽど怖がりなようだな」
くすくすとソレが笑う。その仕草が本物の女性のようだ。慱飯には本当に何の変哲もない人間と話している様な錯覚と僅かな安堵を覚えたが、同時に彼女の言葉に疑問の表情を浮かべる。
「どうして名前を知ってる?」
「話してただろ?朝、マリアと一緒に」
「あの場に君はいなかったじゃないか」
「いる必要が無い。花は告げ口が好きでね、私にいろんなことを教えてくれるんだよ」
ソレは自らの頭に生えた百合の花を撫でる。慱飯は言動と行動の意味が一致せず、眉間に皺を寄せ首を傾げた。
「百合の花があればね、私の耳に届くんだよ」
「…本気で言ってる?」
「君が家に来た時も聞いていた、道に迷うだなんて災難だったな」
ソレが面白がるようにニヤリと目を細めて慱飯を見つめた。彼の中に浮かんだのは、ずっと会話を聞かれていた不快感と得体のしれないモノへの嫌悪感。
花の告げ口などまさかとは思うが、朝に見た限りでは、1日中彼女の姿を家の中で見ていない。それどころか、寡黙なアイザックも饒舌なマリアもこの人形モドキの話に一切触れることがなかった。
「盗み聞きなんて、趣味が悪いぞ」
「君だって、手伝うなんて理由をつけて人様の手紙を見ようとしているだろう?同じだよ、タンパンくん」
「あれは仕事だし、ここでは良くしてもらって...まて、何でそんなことまで知ってる?リビングに花なんてなかったぞ」
「アイザックに聞いた」
「花の告げ口関係ないじゃないか!」
苛立った様子の慱飯に、百合はニヤニヤしながら答える。
「嫌なら逃げれば良いだろう?酷いため息をつくぐらい苦戦しているくせに」
「…俺の部屋にも花はないはずだけど」
「この家にいる限り、私はどこでも聞いているよ!気をつけることだね」
初めに感じた清楚な雰囲気はどこへやら。
ニタァと口を三日月に曲げて笑う人形もどきに、慱飯は多少苛立ちを覚えた。
自分の会話を一字一句聞かれているとなれば、いつ口を滑らせてしまうかと気が気ではない。この家では安らぎがないことが保証された瞬間である。
全く歓迎できるものではなかった。
「俺はもう帰るよ、そしてもう二度とここへはこない。」
「気分を害したかい?」
「それはもう。最高の気分さ」
「良いね。それじゃあこう言っても君はもう二度とここへ来ないか?」
慱飯は立ち上がると、無視して扉へと歩き始めた。
「手紙の翻訳を手伝ってあげよう」
そして、ぴたりと止まる。彼はゆっくり人形モドキの顔を見た。
いつの間にか安楽椅子の肘掛けに頬杖をついている。青い月の灯りに照らされた緑の瞳が、相変わらず楽しげに慱飯を見つめていた。
「なに、なんだって?」
「翻訳を手伝うって言ってるのさ」
「君に手紙の言葉が分かるっていうのかい?」
「疑い深いね、タンパン。まずは見せてみるのも良い案だとは思わないか?」
駆け出しとはいえ、慱飯は商人である。
気味の悪い感情と、仕事が進む可能性を天秤にかけることは造作もなかった。
結果として、慱飯は少しの間考えを巡らせたのちに手紙を懐から出して彼女に手渡した。
「大事に忍ばせているんだな」
「これが盗まれると仕事にならないからね」
「なるほどね、オイルが盗まれたら、ランプはただの重い荷物だからな」
慱飯は目を閉じて、手紙を眺め始めたソレに気づかれないように胸を軽く叩いた。ちょっとイラッとしたのである。
窓に近づいて傾き始めた月明かりを身に浴びながら、ふと湧いて出た疑問を問いかける。
「そう言えば、あんたは名前なんていうの」
慱飯に一瞥もくれないまま、ソレが答える。
「百合だ」
「それは花の名前だろう?」
「ああ。私もこの花々の名前と同じなのさ」
「君ほど名が体を表す人は見たことがないよ」
物は言いようである。単調だね、という一言を仄めかしたのは、先ほどまで揶揄われたことへの腹いせであった。
(あれ、言い返してこないぞ)
急に静かになった百合に違和感を感じて、慱飯は振り返りそして目を見開いた。百合が慱飯をじっと凝視していたのである。
先ほどまでの揶揄うような雰囲気は消え失せ、僅かに驚いた様な、もしくは真意を探そうとするような表情であった。
「良い名前か?」
「あ、ああ。良い名前だと思うよ」
「そう」
やりとりはそれだけであった。けれど百合は嬉しそうに微笑み、手紙への解読に戻っていった。
予想外の反応に、慱飯は一気に居心地が悪くなる。そんなに純粋な顔で喜ばれるとは思わなかった。バツが悪そうに目線を逸らし頭を掻く彼を気にせず、百合は手紙を読み進めていく。
「あんたはこれが読めるのか?」
「大して読めないから困ってるんだろう、君は?」
「うん、読めない」
鳩が豆鉄砲を食らった様な顔で、慱飯は百合を見つめた。百合はにっこり笑って慱飯を見返す。
「でも、拾える単語で僅かな内容はわかるかもしれない」
「馬鹿言うんじゃない、単語を拾うことなら俺もやったさ。でもどうしてもその手紙を理解できないんだ。何故君にはわかるんだい?」
「君と私では持ってる情報が違うんだよ。この手紙の主と、マリアの関係とかね」
朝のマリアの言動を思い出す。くだらない言葉を除けば、いくつか言っていたような気もする。
「大事な…お友達だったかな」
「そうそう。手紙の主についてなら、きっと彼女が知っている。一度聞いてみたらどうだい?」
「マリアさんに?」
僅かに眉を顰めた慱飯は、彼女の顔を浮かべる。できることなら、あの圧が強いマリアと直接会話することは避けたい。もう1人の住人の顔を浮かべて、あわよくば彼に聞きたいと考える。
「アイザックは期待できないからね」
けれど、百合が釘を刺す。慱飯は思わず彼女の方へと目を向けるが、いつの間にかにやついた顔へと戻り彼の反応を楽しんでいる様子だった。手紙を受け取りながら彼は理由をきく。
「何故アイザックさんはダメなんだい。」
「言わずともすぐに分かるさ。」
これ以上は何を質問しても、百合から答える気はない様だった。慱飯は一つ礼を彼女に伝えると部屋を後にする。明日はあの饒舌すぎるマリアと話をしなくてはならないのだから、気が重く感じられた。
またおいで、という一言を背に聞きながら、慱飯はそっと扉を閉じた。
月明かりはとうに傾き、空は白み始めている。
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