スパイスクッキー
※時系列はガスターギュ夫妻が結婚してすぐの頃。
※ゼラルド視点です。
――――――――――――――――――――――――
『どう? 今度の味は?』
『んー。まだちょっと甘すぎるな』
『えぇ!? クローブをこの前の倍量入れたのよ? ゼラルドの味覚って変!』
『そんなの好みの問題だろ』
『もう! 次は絶対美味しいって言わせてやるんだから!』
海を臨む丘の上、潮風に髪を揺らしながら、彼女が「べーっ!」と舌を出す。
永遠に続くと思っていた、幸せな時間……。
◆ ◇ ◆ ◇
「うぇっ! なにこれ!?」
素っ頓狂な叫び声に目を開ける。
今まで聞こえていた潮騒の音は消え、穏やかな風がカタカタと窓を揺らすばかり。ここは……ガスターギュ邸の
幸い、まだ午後の業務が始まったばかりの時刻だ。
手鏡を覗き込んで髪と口髭を整えて、蝶ネクタイを締め直す。家令たるもの、常に身嗜みには気を配らねば。
部屋を出ると、姿勢正しく階段を下りていく。昼寝して仕事に遅れそうになったなど、おくびにも出さない。
いかなる時も冷静に。それが軍人の在り方だ。
思い返せば六十年の人生をほぼ誰かに仕えて生きてきた。
軍人の家系に生まれ、忠義を尽くしてきた国は崩壊し、新天地で出会った新しい主君も亡くし、絶望の果てに辿り着いたのが……このガスターギュ邸だった。
当主であるシュヴァルツ様はお若いのに将軍職に上り詰めただけあって豪傑でありながら思慮深い人格者だ。社交嫌いで破天荒なところが玉に瑕だが、それを上手く舵取りするのが家令の腕の見せどころだ。
そして奥方のミシェル様。初めは頼りない印象もありましたが、数々の試練を乗り越え将軍夫人として立派になられた。
シュヴァルツ様とミシェル様が結ばれたことは、我が人生において最良の出来事。しかもミシェル様は亡き祖国の姫君だったという事実まで発覚し、この運命の巡り合わせはどんなに神に感謝したことでしょう。
仲睦まじいお二人を見ていると思い出す。
今でも鮮やかに胸に焼き付いた太陽のような笑顔。
「コートニー……」
何も言えずに離れてしまった、幼馴染で初恋の人。だからこそ、つかず離れずのシュヴァルツ様とミシェル様に自身の経験を重ねてもどかしかったのでしょう。
彼女とのことは後悔しかない。だからこそ、コートニーが繋いでくれた命であるミシェル様と、その伴侶である我が命の恩人シュヴァルツ様に誠心誠意お仕えしよう。
それが、無為に生き残ってしまった某の贖罪だ。
一階に着くと、厨房からギャーギャー
「何を騒いでいるのですか、アレックス。二階まで響いていますぞ」
某の苦言に、赤毛の庭師は眉間に皺を寄せた顔で振り向いた。
「ゼラルドじーさん! ミシェルが妙なモン作ったんだ。こっち来て食ってみろよ」
唇をひん曲げて訴える。この子は何度注意しても口が悪い。
「妙な物とは?」
確かに、厨房には独特な香ばしい香りが漂っている。我が家の女主人は高級料理店のシェフ顔負けの腕前なので、滅多に失敗はしないはずなのだが。
ミシェル様はミトンをはめた手で天板を持ち上げ苦笑する。
「スパイスクッキーです。母のレシピで作ったのですが、アレックスの口に合わなかったようで」
隣でアレックスが「合うやつなんていねーよ!」と抗議する。
某は星型のクッキーを一つ口に入れてみた。齧るとサクリと崩れ、舌の上にしびれるような刺激が走る。鼻に抜ける濃厚な甘い香り。クローブ、カルダモン、シナモン、ケッパー、ジンジャー。複雑に絡み合った個性の強いスパイス達。
「これは……」
我知らず手が伸びる。いくつものクッキーを頬張りながら、某はいつの間にか泣いていた。
「じーさん? 辛いのか!? 無理せず、ぺってしちゃえよ!」
「ゼラルド、お水を飲んでください!」
オロオロするアレックスとミシェル様の声にも、止められない。
「……美味しい」
どめどなく涙が零れる。
「今まで食べたクッキーの中で、一番美味しいです」
何故、あの時言わなかったのだろう。
いつでも伝えられると信じていて、一番大切な言葉を言えなかった。
コートニーの気持ちは届いていたのに。こんなに傍にあったのに。
自分の想いも、四十年経った今でも変わらないのに。
過去は取り戻せない。後悔はいつだって胸に
だから……。
(コートニー、そしてアンジェリア様)
いつか某がそちらへ行った時は、あなた方の遺した宝物の話をたくさんいたしましょう。
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