名前を呼んで

時系列は結婚してすぐの頃です。


―――――――――――――


 それは、いつもの朝のこと。


「シュヴァルツ様、朝食の卵料理は何にいたしましょう?」


「オムレツ、ひき肉入りで」


「畏まりました」


 頭を下げて踵を返そうとする私から視線を離さず、彼は、眉根を寄せて一言、


「ミシェルは、いつまで俺を『様』付けで呼ぶんだ?」


 ……はい?


◆ ◇ ◆ ◇


「そりゃあ、ミシェルが良くないなぁ!」


 みんなで囲う朝食の席。ちぎったパンを口に放り込みながら、アレックスが笑う。雑談がてらにシュヴァルツ様が先程の件を持ち出したら、庭師の回答はこうだ。


「結婚して一ヶ月も経つんだから、そろそろ呼び捨てしてもいいんじゃないの?」


 そうは言われましても……。


「家長は敬うものですし、実家では母は父に様を付けて呼んでましたし……」


 私は必死で弁明するけど、


「我が公国の君主ご夫妻はお互いを呼び捨てしてましたぞ」


 涼しい顔のゼラルドさんに退路を絶たれてしまう。


「でも、出会った時から、シュヴァルツ様はシュヴァルツ『様』ですし。身分的にも相応な呼び方かと……」


 もごもご言い訳する私に、


「身分的って、ミシェルさんは元々子爵令嬢だったじゃない」


 スープを啜りながらトーマス様が追い打ちをかける。


「しかも今は二国のお姫様だよ? 立場を考えたら、爵位のない将軍より格上。ミシェルさんこそシュヴァルツ卿に『様』付けされる方だよ」


「そうだな、『ミシェル殿下』と呼ぼうか?」


 悪ノリするシュヴァルツ様に、私は頬を両手で挟んで「やめてください!」と絶叫する。ただでさえ公女とか王女とか荷が重いのに、敬称付きで呼ばれたら更に身の置き場がなくなってしまう。というか、トーマス様も義父なのだから私を『さん』付けしなくていいと思います。


「今まで不都合がなかったから、現状維持ではダメですか?」


 上目遣いで恐る恐る窺う私に、シュヴァルツ様は「ほむ」と腕組みして、


「不都合はないが、心情の問題だ。せっかく夫婦という新しい関係になったのだから、以前より距離を縮めてもいいだろう」


「……っ!?」


 真っ赤になって俯いてしまう私に、


「なんか、いきなりパンの甘みがましたんだけど?」


「いやはや、一気に気温が上がって暖炉要らずですな」


「このテーブルの五人中三人が独り身なの忘れてない?」


 庭師と家令と大旦那様が銘々に揶揄する。うぅ、朝から恥ずかしすぎる……。


「とにかくさ、一度言ってみれば? 呼び方なんて慣れなんだしさ」


「そうですぞ。某の時と同じで、呼んでしまえば案外しっくりくるやもしれません」


 勝手なアドバイスで背中を押してくるアレックスとゼラルド。いえ、ゼラルドの時もかなり苦労したんですからね!

 ちらりと顔を上げると、真っ直ぐ見つめるシュヴァルツ様と目が合った。

 ……よし。

 心の中で気合を入れる。

 伴侶の願いを叶えるのも、つっ、つっ、妻の役目ですからね!


「え、ええと……シュ……」


 みんなの視線が集まる。


「シュ、シュヴァ……っ」


 彼がゴクリと唾を飲む音が聞こえる。


「シュヴァ、シュヴァル……」


 あとちょっと! 皆が歓喜に瞳を輝かせた……瞬間!

 ブツッ。

 私の意識は途切れた。


「わー! ミシェルが頭から湯気出して倒れた!」


「衛生兵! 担架を!!」


「アレックスちゃん、揺すらない!」


「皆、落ち着け! 心拍はある。頭は打ってないな? 俺がベッドに運ぶ。ゼラルドは医者の手配を!」


 ……こうして私は極度の緊張から気を失い……。

 起きた時には、呼び捨て問題は有耶無耶になっていたのでした。

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