狡い女

如月姫蝶

狡い女

『いつまでも 三人一緒と 信じてた 信じるくらい 許されたくて』

 私は、下手な短歌を詠む。下手くそだけど、詠まずにはいられない。だってそれは、私が身につけることができる、たぶん唯一の宝石だから——


 私たちは、大きな河川にしがみつくように広がる下町に生まれ育った。そう。私は、一人ではなかった。

 五才のころ、河原で、補助輪を外した自転車を乗りこなす練習をした。

 子供用の自転車を二台も買う余裕は無い——そう、母からきつく宣告されていたから、一台で代わる代わるに練習するしかないと、私たちは思っていた。けれど、聖騎士まきしが助けてくれたのだ。

 聖騎士は、すぐ近所に住む、私たちと同い年の男の子だ。うちの母と彼の母が同じ店で働いているため、気兼ね無く遊べる幼馴染みだった。

 補助輪無しの自転車くらい、僕はとっくに乗れるようになったからと、先輩風を吹かせつつ、彼の自転車を私たちに貸してくれたのだ。

 私は、河原で、勇ましくペダルを踏み込んだ。

まいちゃん、大丈夫!?」

 砂利に車輪を取られて、呆気なく転んだ私に、聖騎士は駆け寄り、心配してくれた。

 するとすぐに、もう一人も転んだのだ。

「うわっ、あいちゃんも大丈夫?」

 私たちは運動が苦手だから、優しい聖騎士は駆けずり回ることになってしまった。


 愛と私は、双子の姉妹だ。かつて、私たちが母のお腹にいたころ、父は、「三つ子だったら、三人目はみいで決まりだったな」なんて、ゲラゲラと笑っていたらしい。けれど、母が臨月を迎えたころ、父は行方をくらませてしまい、それっきりである。


 鈍臭い私たちが自転車に乗れるようになるまでには、数日を要した。いつしか姉妹で、どちらが聖騎士により親切にしてもらえるか競争していたような気もする。


『曖昧な思いを 言葉にできなくて むずかゆいかさぶたのせいにした』

 私は、そんな短歌を詠んだ。五才の時に詠んだわけではない。ずっと後になって、ベッドの上で詠んだのだ。

 顔も知らない父のことなんて、もうどうだっていい。

 けれど、聖騎士が父みたいに、ある日突然姿を消してしまうのだけは、絶対に嫌だった。

 思いを言葉にさえしなければ、ずっと一緒に、友達でいられるような気がしていた。


 私たちは、中学生になっても、川縁にへばりつくようにして生きていた。他のどこにも行けないまま、十代のうちに、近隣の店か工場に就職する。そういうものなのだろうと思っていた。誰かが欠けてしまうくらいなら、そうなりたいと願ってもいたのである。

 夜に働く母たちが中学生を放し飼いにするようになっても、私たちと聖騎士は、あまり遠くに出掛けることもなく、三人で河原を散歩しながらお喋りする日々だった。


 その日、一際大きな水音を耳にした私たちは、夕闇に沈みゆく川面かわもを凝視した。

 子供が溺れかけているではないか。

「僕が行く。愛は通報して」

 聖騎士は、お気に入りのジージャンだけは、手早く脱ぎ捨て放り投げると、川に入り水を掻き分けたのである。

 愛の通報によって、救急車もパトカーも間に合った。

 子供は聖騎士が助けたし、我が子を沈めようとしていた母親は、警察に身柄を確保された。

 逮捕された母親は、生活苦ゆえの無理心中だと供述したらしい。けれど、川の水深は存外浅くて、子供はまだしも大人が溺れるには工夫と根性が必要なのだ。

 まさに無理のある無理心中だ。この界隈では、そう珍しくもないけれど……


 聖騎士は人命救助をした。愛は的確に通報した。その間、私は、彼が投げたジージャンを受け止めたままへたり込んでいた。

 昔は、愛も私も鈍臭いと言われていたけれど、今では、愛よりも舞のほうが重症だと言われるようになっていた。


『君が投げた ジージャン抱いた瞬間に それが無双の羽衣と知る』

 実は、私は、そんな短歌を閃いてしまって、それが体中でリフレインして、身動きが取れなくなってしまったのだ。

 馴染みのある聖騎士の匂いが、腕の中からふんわりと立ち昇り、私が彼に抱いてきた感情の名を、嫌と言うほど思い知らされた。

 その感情に身も心も委ねたなら、羽衣を纏ったように空だって飛べるかもしれない。

 けれど、羽衣は一枚しか存在しないのだ——

 私は、あまりに胸苦しくて、ジージャンを返すとき、聖騎士の耳元で、その歌を囁いてしまったのだった。


「東京に行くって、どういうこと?

 あたしたちと同じ世界には、もう住めないっていうの?」

「違う! どういうことかなんて、俺にもよくわからないよ……」

 ある日、愛と聖騎士が、言い争いながら部屋に入ってきた。聖騎士でも「俺」なんて言うんだと、私は驚いた。

「俺だって初耳だし、びっくりしたよ。母さんの遠縁に、東京で病院を経営してるような一家がいるなんてさ! しかも、後を継ぐはずだった娘が、医者じゃなくて投資家になっちゃったからって、なんで俺なんかに目ぇつけるかなぁ……

 今のうちから頑張れば医学部を目指せるなんて、急に言われても……」

 聖騎士は本当に戸惑っているようで、床に座り込んで頭を抱えた。


 ねえ、東京に行っちゃうの? そして、お医者さんを目指すつもりなの? そんなの、私にとっても初耳だ。聖騎士が学校で成績優秀なのは確かだけれど……


 私は、彼を問い詰めたかった。けれど、言葉にならなかった。

 聖騎士も愛も私を見ない。

 私は、いつもあまりにもこの部屋にいすぎて、いないも同然なのかもしれない。


「行っちゃやだよ! あたしは、までして、聖騎士のことを守ったのに……」

 愛は、彼の首に両腕を回した。


 あんなこと? それが何かも、今の私にはわからなかった。

 以前は当たり前のように三人一緒だった。けれど、中学二年生のときにそうもいかなくなった。

 私の体は、ある日、刹那的に宙へと舞い上がり、地面に叩きつけられた。決して羽衣のせいなどではなく、車に撥ねられたのだ。それも轢き逃げだった。病院に運ばれ、命は助かったけれど、後遺症がたっぷりと残ってしまったのだ。

 母は、そうするのが一番安上がりだからと、私を自宅に引き取った。けれどそれは、愛をタダでこき使うことを意味していた。

 以来、この部屋の介護用ベッドが、私の世界のほぼ全てとなった。そして、愛は流行りのヤングケアラーとなったのだ。

 そして一年近くがたった今、聖騎士と愛は、二人だけの思い出を積み重ねつつあるということなのだろう。


「俺……なれるもんなら、医者になりたい」

 愛の腕の中で、聖騎士は、思いを巡らせ言葉を紡いだ。

「舞に生き続けてほしいんだ! そうじゃなきゃ、俺は頑張れないよ。それに、俺が舞の体を治せたら、愛だって解放されるじゃないか。また、前みたいに三人で……」

 聖騎士の言葉が途切れたのは、愛が、彼の唇を三秒ほど奪ったからだった。


「そんなの信じらんないよ!」

 キスの後で、愛は、私を乗せたベッドに、人差し指を突きつけた。

「ちゃんと見てよ! 舞は、事故に遭うまでは、あたしとそっくりだったのに、今はもう、言葉を話すこともできないし、顔も体もねじくれちゃって寝た切りじゃない!

 聖騎士……あんた、医者になったって、こんなの治せないってわかってるんでしょ? どうせ、東京へ逃げたいだけっしょ!」

「違う!」

「じゃあ、信じさせてよ! あたしが、何かの弾みで、舞みたいに醜くなってしまわないうちに……」


『信じたい 信じられない はざまにて 戦慄わななく背中 抱き寄せる君』


 聖騎士が、愛の望んだ通りに彼女をあやしている間、彼は、何度も私のほうを見たし、私もまばたきを返した。瞼くらいは、今でも自力で動かせるから。

 どうしたって私の体臭が漂う部屋で、彼らの臭いも混じり合ったのだった。


「あーあ、あんたさえこんなじゃなければ、あたし、何がなんでも聖騎士と一緒に東京へ行ったのに……」

 やがて、彼を部屋から送り出した後で、愛は、私に背を向けたまま低く呻いた。

「どうして、あの事故で死んでくれなかったの? 死んでくれてたら、もっと徹底的に聖騎士を守るネタにだってできたのに……」

 愛や母が私の死を口にすることには、とっくに慣れっこになっていた。

 けれど、「聖騎士を守るネタ」って何? さっき「あんなこと」って言ってたのと関係があるの?

 

 愛は、まるで私の心の声が聞こえたように、ベッドのそばまで来て、私を見下ろした。

「……あのころ、半グレの連中が、聖騎士のことを仲間にしようと誘ってた。聖騎士は、家が貧乏で頭がいいから、狙われてたんだよ。

 半グレの一人があんたを轢き逃げしたのは、単なる偶然。でもねえ、あたしは、逃げる車の写真を撮ってたんだけど、それを警察には秘密にすることと引き換えに、やつらに聖騎士を諦めさせたんだ。

 あんたにも母さんにも何も言わずに、このあたしが聖騎士のことを守ったんだから!」

 私は、愛の言うことをすぐには飲み込めなかった。轢き逃げの犯人がまだ捕まっていないことなら知っていたけれど……

 

 ふと、温かな雫が私の頬を濡らした。愛は泣き出していた。

「聖騎士も聖騎士だよ! 医者になれるとしても、それって、十年くらい先の話じゃない! それまでは、あたしに、この臭い部屋にずっといろっての?」

 愛は、泣きながら、両手で私の首を絞めたのだった。

「聖騎士が悲しむ……聖騎士が悲しむ……聖騎士が悲しむからあっ!」

 しかし、愛は、呪文を唱えるように繰り返して、途中で止めたのだった。

 愛は、床にぺたりと座り込んで、しばらく啜り泣いていた。けれど、やがて立ち上がると、無言で私のオムツを替えてくれた。部屋の臭いが一層ひどくなったから、その必要性を認めてくれたようだ。

 しかし、汚れたオムツを始末するとき、手元が狂ってしまったのか、愛の服までひどく汚れてしまったのだ。


 断末魔のような叫び声が上がった。叫んだのは、愛だった。

 彼女は、ついさっきよりもずっと強い力で、私の首をギリギリと締め上げたのだった。


『結局は 私は狡い女かな 生きても死んでも 誰かが喜ぶ』


 聖騎士、どうか私のこと覚えていてね……

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