【Section 2】

 その夜。

 彼は、訪れてきた。

 そしてまた、私に口づけると優しく髪を撫でる。

「体調はどうだい?もえ。どこか苦しいとか、ないかい?」

「亮…兄…。」

 小さく呟くと、彼、阿久津亮治はふっと笑みを浮かべた。

「亮ちゃんの方がいいかな…その方が呼びやすい…?」

 いや、恥ずかしいだけです…。

「10年前。あの事件がきっかけで君はあの家を連れ出された…みんな君を探してたんだけど、君の名前自体変えられててね。君の名前は、萌希じゃなくてただのもえなんだ。」

 事件…確かに、私の子供のころの写真は10歳くらいからしかない。

 小学一年の頃、事故にあってそれ以前の記憶がないのだと父母に言われていた。

 生まれたときの写真も、保育園の入園式の写真もない。

「でも…どう…して…?」

「君があいつらの毒牙にかかるのは絶対避けたいんだ。」

「毒牙…?」

「僕は、君をずっと忘れられなかった。小さい頃のあの手をつないだ温もりと

 君の笑顔を。10才離れてるけど、だからこそ愛おしかった。守れなかった自分を悔やんだ。あの子供がいない夫婦は、君を事件のどさくさにまぎれて誘拐したんだ。君のお母さんがどれだけ病んだか。お父さんがどれだけ手をつくして探したか。」

 そういって、涙を浮かべ彼がまた優しく口づけてくる。

 ああ…溶けていきそうだ…。

「君は退院したら、僕のお嫁さんになるんだ。すぐにね。

 16才だから、籍も入れられる。きっと幸せになろう、2人で。

 君が生きてる間に、君の症状を寛解できるように頑張るからね…。」

「亮…ちゃん…。」

「もえ。これさ、母の指輪なんだけど。つけて。結婚…してくれる…かな…?」

 少し、照れながら…でも真っすぐな瞳が私をとらえて離さない。

「昼は、見つけた嬉しさでキスしちゃったけど…もう離したくないから…その…ごめんね…。」

 「貴方のいう事がもし真実なら…私のこの病気ってひょっとして…。」

「…うん…薬物投与されてた可能性、もしくは何か食事に盛られてたんだと思う。

 ショックだよね…家族だと思ってた人間に毒盛られるって…。でももう大丈夫。あの家には帰さない。君が殺されてしまう。警察にも、きちんと話してあるから、君の血液のサンプルを警察に提出しておいた。科捜研で急いで調べてくれるってさ。」

 なんて手回しのいい。

 まだ半信半疑だけれど、嘘には聞こえない。

 私の本当の家…どんなところなんだろう。病院持ってるくらいだからお金持ちではあるのだろうけれど。それに葛城家、阿久津家っていってたし良家なんだろうなぁ。

 後気になるのは…本当の家で起こった事件って何だろう。

「まだ半信半疑なのはしょうがない。でもね、もえ。僕は、君を…愛してる。

 これは嘘じゃない…本気で君をお嫁さんに欲しいんだ…。」

「…亮ちゃん…。」

 カタン…と外で何か音がした気がした。

 でも、彼の舌が優しく私の舌に絡まってくるのをほどけなくてそのまま

 夢中になってしまっていた。

 死ななくて、すむかもしれない。

 微かな望みの光が、心の中にほんの少し灯った気がした。

 その夜は、そのまま彼がそばにいてくれた。

 優しい彼の囁きに耳を傾け、時々繰り返される接吻に愛おしささえ感じている自分が不思議だった。

 その秘密の時間を、病室のドアの外から怒りに震えながら見ている人物がいる事に気づきもせずに。



 明朝。

 早い時間に彼は、病室を出て行った。

 まだ信じられないけど、味方がいるんだ。

 優しい笑顔、あたたかい手のひら。

 そして…そして…。

 熱い何度もの口づけを思い出して、かなりな勢いで顔中が火照る。

『あうー…恥ずかしいけど、どうしよう…もう好きでたまらないよぅ…。』

 懐かしい、感じがするこの気持ち。

 大好きで大好きでたまらない人がいた、みたいなこんな気持ち。

 そういえば、よく夢に見て思い出せなくて熱だしたりしてたっけ…。

 亮治さんの、ことなのかなぁ…。

 朝ご飯を食べて、備え付けの洗面所で歯を磨いてまたベッドにもどる。

 そういえば朝の検温って食事前じゃなかったっけ。

 まぁ、でも来ないときは昼だよって言ってたし問題ないか。

 別のパジャマに着替えてすぐ、ノックの音がした。

「はい。」

 いつもとは違う、男性の看護師さんが顔を出した。

「一ノ瀬さん、診察するらしいので移動しましょうか?今日、原田さんお休みなんで僕ですみません。」

「あ、いえ。診察ですか、わかりました。」

「今、車いす広げますね。」

 看護師さんはてきぱきと車いすを広げ、私が座るのを促す。

「すみません、ありがとうございます。」

「いえいえ、仕事ですからね。顔色よさそうですし、いい結果出るといいですね。」

「はい、ありがとうございます。」

 世間話や他愛のない話をしながら、診察室に向かう。

 診察室は各階にあるのだが、私の入院している病室のある階は特別室ばかりなので

 大きいナースステーションと医師が常駐する部屋がある。

 診察室とはまた別だ。

 そこに行くのかなと思いきや、看護師さんは別の診察室に向かうようだった。

「阿久津先生は、今会議中でおられませんので田宮先生に診てもらうようにとの事でしたので階下にお連れしますね。」

 エレベーターホールにはまだ朝早いので誰もいない。

 大きいエレベーターと小さいエレベーターが並んでいる隣に、階段があるのだが

 その前でエレベーターを待つ。

 この建物自体が7階という大病院のため、最上階までゆっくりと昇るエレベーターは時間がかかる。

 ふと、窓の外に目をやる。

『今日はなんだか、曇ってるなぁ。』

 そう、思った時だった。

 いきなり、看護師さんが階段の方に向けて私の乗った車いすを思い切り蹴とばした。

「っきゃ…!!!」

「殺したら、あの人は俺のモノになってくれるっていうんだ。恨みはないけど

 死んでくれ、一ノ瀬さん…ごめん…!」

 看護師さんの言葉は遠くどこかで、響いてるみたいだった。

 どうやら、頭から落ちたらしい。

 ああ…痛い…痛いよぉ…亮ちゃん…。

 気が遠くなっていく。

 私…死ぬのかな…。







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