自分以外の存在は、自分と独立して存在する。しかしそれを確信する術は、実はない。
大総統が死んだ。
この一事について、大総統府の人間はひとまず国内の人間にはこの話を隠蔽することになった。これを機にテロリストが反旗を翻すようなことがあっては困るからだ。
ヴェンドヴルムとポリグラットの戦争関係は、ひとまず白紙に戻った。新たな指導者が決まるまでは返事は保留にするということでヴェンドヴルムの使者を帰してはいるが、多少の『賠償金』を得たとしても、これで戦争になることはなくなったと言えるだろう。
ただ、ヴェンドヴルムの使者にはポリグラットの大総統が死んだことが知られてしまったことをどう考えるべきかは難しい。これまでの流れからヴェンドヴルムがポリグラットに対して好戦的であるとは考えにくいが、使者に箝口令を敷いたところで、一国の主が死んだことをいつまでも隠し通せるものではないかもしれない。
とは言え、ひとまずは国家間のやり取りにおける『機密事項』とすることで、大総統の死はその場にいた人間と大総統府の人間のみが知ることとなった。人の口にどの程度戸を立てられるかは分からないが、仮に口を滑らせる者がいたとしても、大総統が死んだなどということを信じる者は多くないだろう。
そして、大総統を殺した兵士はそのまま大総統府の牢屋に幽閉されることになった。大逆の兵士はしかし抵抗する様子も見せなかった。
だからこれで、一件落着と言えば、一件落着だ。
「——どうしたのです。見張りに来たのですか?」
大総統が殺されたその日の深夜、大罪人が幽閉されている牢屋に僕はいた。鉄格子の向こうには、つい数時間前まで大総統の隣に立っていた側近の兵士の姿がある。
「それとも話し相手になってくれると? 私とあなたは、それほど親しかった覚えがありませんが」
「口調、違いますよ」と僕は言った。
「おや」
「一度、あなたとは話したことがありました。僕を初めて大総統府の部屋に案内してくれたときです。そのときと口調が違う」
「これが素の私ですよ」
「そうなんでしょうね——ペトーさん」
僕がそう言って、瞬きをする間に、鉄格子の中に居た兵士の姿は、あのファラオにも似た混沌の姿になっていた。
「ナイアラ神は、身近な人の姿になって近くで見守ってくれている——と、シェラが言っていました」
「興味深いですね。いつから私が私であると?」
「あなたが、大総統を殺したからですよ」
「というと?」
「シューベルが言っていました。大総統を殺すのは、人間には無理だと。そして、シューベルはきっと正しい。だから、大総統を殺せたあなたが、人ではないのだと思ったんです。ペトーさんなのかどうかは、正直分かりませんでしたけど。そこまでいくと、何でもありですしね。それでも、僕が知っている——出会ったことのある神格は、あなただけですから」
「私は神ではなく、メッセンジャーに過ぎません」
「似たようなものですよ、僕ら人間からすると」
この牢屋には電気や松明の類いがない。
しかし、石造りの壁の一部に穴が開けられていて、そこから月明かりが差していた。
それに照らされるペトー・タルレインという存在は眉目秀麗で、神々しかった。
神ではないにせよ、神々しいと思った。
「どうしてあんなことをしたんです?」近くにあった適当な腰掛けに座りながら、僕は混沌に声を掛けた。「まさか僕らを助けてくれたわけではないでしょう」
「もちろん、助けたつもりはありません。ただ、見苦しかった」
「見苦しかった?」
「あなたは、あなたにできるだけのことをやりました。これがあなたを主人公とする小説だったなら、それですべては丸く収まっていたでしょう。しかしこれは現実で、あの大総統と呼ばれた人間は止まらなかった。そしてそのままあの人間を好きにさせていたとしても、面白いことにはなっていなかったでしょう。ただ戦争が起こって、ポリグラットが打撃を受けて、それで終わりですから」
「面白い——というのは、どういうことですか? あなたは、神格のメッセンジャーとして物語としての面白さを重視すると?」
「あるいはそのように言うこともできるかもしれません」と、目の前のペトーは言った。いつの間にかペトーは鉄格子の向こうからこちら側に出てきていて、僕の目の前に座っていた。「この世界は夢。私は、それを楽しむ者のメッセンジャー。どうせ見るなら、面白い夢をと、思うだけですよ」
「僕には、正直、よくわかりません」
「今回のことは、私にとっても特例的なことなのです。普段、私は物語に干渉しません」
「それが嫌で外交官を辞めたのですものね」
「しかし、物語を間近で見たいとは思います。必要なメッセージを、役者に伝える役目もありますしね。だからこそ、私が持つ千の顔のうちのひとつが、大総統役の側近の兵士だったのです」
「では、他にも?」
「もちろん。私は、いくつもの顔を持ちます。この顔だって、本当の顔ではない」
そう言ってペトーは、僕の顔を覗き込んだ。
「この物語に出てきた、あなた以外のすべてが私という可能性だって、あるんですよ」
「——あるいは、僕という可能性もあるんですね」
「そうかもしれません。この夢は、私のひとり舞台なのかもしれない」
僕は、僕が生きていることを知っている。
僕は、僕が存在していることを知っている。
だから、この世界は確かに存在すると思う。
「さて、そろそろここを離れようかと思います。私が忽然と姿を消すとしたら、今晩のうちが一番——盛り上がるでしょうから」
「またそんなことを……」
「では、■■■■■。またどこかで会いましょう。あるいは、既に会っているかもしれませんけれどね」
「えぇ、また、僕が元の世界に帰りたいと思ったときにでも出てきてください」
「——そうだ、あなた、結局元の世界には戻らないのですか? もうすぐこの世界はなくなってしまうのに」
「良いんです。もう少し、僕はここに居たい。一緒に居たい人たちもできましたし、それに——」
それに。
「世界がいつ終わるかなんて、本当は誰にも分からないですから。そんなこと、気にしても仕方がないでしょう」
なるほど、とだけ言って、ペトーは闇に消えていった。
最後に見せたその顔は、不思議と人間味のある顔であるように感じた。
それもまた、あの混沌の無数の顔のうちのひとつのだろうけれど。
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