夢を見て現実に生きよ。現実を見て夢に生きてはならない。

「どうぞ、お掛けください。椅子は用意してあります」と、ペトー・タルレインと名乗ったそれは言った。いつの間にか僕の背後にあったはずの扉は消えていて、そこには椅子が置いてある。

 完全に黒い空間の中で、僕とペトー・タルレイン、あるいはラナージュ神、あるいはナイアラ神、あるいは■■■■■だけが確かな輪郭を持っていた。

「これは——何です? 夢?」

「夢も現実も、脳の認識に過ぎません。では、それを区別することにどれほどの違いがあると思いますか?」

 目の前の、ファラオにも似た外見の男はそう言った。

「僕はまだ、この状況を理解できていません」

「状況を完全に理解できている状況の方が、希有なものです。違いますか?」

「あなたは——誰ですか?」

「私は、ペトー・タルレイン。あるいはラナージュ神。あるいはナイアラ神。あるいは■■■■■。それとも×××××。とにかく、あなたたちが『見た』と言う神です。しかし、あなたたちが『見た』わけではない『神と思われているもの』は私ではない。私は、神格の中のメッセンジャーに過ぎないのです。私は混沌ですが、その点は、どうか混同なさいませんよう。この世界では逆立ちしてペトー・タルレインという名前で少しだけ人間として存在していたことがありましたので、ペトーと呼んで頂くと良いかと思います」

「その、僕に何の用ですか?」

「アフターサービスですよ」とペトーは言った。「どうです、この世界は」

「この世界は——って」

「あなた、ネクロノミコンを読んだでしょう」


 ネクロノミコン。

 僕がこの世界に来るきっかけとなった魔術書。


「偉大なる『根源』は、無聊の慰めにあなたの願いを叶えました。私はそのメッセンジャーとして、お話を伺いに来たのです」

「僕は——この世界に来て良かったのか、分かりません」

「分からないというのは?」

「その場の思いつきで、自分の手に余ることをどうにかしようと考えてしまいました。今は、そのことを後悔しています」

「人間にはよくあることです」

「僕がいなければ、状況は今より悪くなかったかもしれません。そうだ、ペトーさん。あなたは僕よりも前に、この国の外交官だったのでしょう。もしもあなたが、まだ外交官だったなら、ひょっとして——」

「最初は私も、これは面白いかな、と思いましたよ。でも外交官という職務にある私は、あまりに人々の運命を左右しすぎる。私の本来の立場からして、それは好ましいことではなかったのです。私は、私と関係のないところで右往左往する人間が見たい」

「だから姿を消したのですか」

「それもあります。代役を用意できなかったことは心苦しくも思っていますが、あなたがやってきてくれたことは僥倖でした」

「しかし僕には、その大役は務まりそうにありません。やっぱり僕は、黙って趣味として言語を研究しているくらいが良かったんだ」


「——では、元の世界に帰りますか?」


 まるで映画にでも誘うように、ペトーは言った。

「え? 元の世界に?」

「えぇ。流石にこの場で、というのは面白くないのでやりませんが、あなたには元の世界に帰る方法があります」

「それは一体?」

「簡単です。この世界で、またネクロノミコンを探せば良いのです」

 簡単という言葉には、容易であるということと、単純であるということの両方の意味がある。今回は多分、後者だろう。

 いや、この神格のメッセンジャーにとっては、容易なのかもしれないが。

「この世界にもネクロノミコンがあるんですか?」

「必ず存在します。何故なら、ネクロノミコンとは『根源』に触れた、あるいは触れようとした者が残した記述に他ならないからです。そして『根源』は、世界の外側に存在しています。どのような世界も、『根源』から伸びる枝葉末節に過ぎないのです」

「しかし、どんな世界からでも『根源』に触れることはできる——だからこそ、ネクロノミコンの記述はどの世界でも一致する——」

「そういうことです。あなたがネクロノミコンを読めば、また元の世界に戻れますよ。この世界のどこかに、確実に存在しているそれを読めば、ね」

 それに、とペトーは続けた。


「実はこの世界は、長くないんですよね」


「長くないって、どういうことですか」

「文字通りの意味です。お友達から聞きませんでしたか? この世界は、『根源』が見る夢なのです。この世界というか、すべての世界がそうなのですが。その夢を行き来できるのが、メッセンジャーたる私の特権というやつです。その意味では、私が外交官だなんて仕事をしていたのは、実に興味深いことですね」

「それとこの世界が長くないというのは、どういう……?」

「いつまでも夢を見続けることはできない、ということですよ。夢から覚めたなら、夢の世界は消えてしまいます。それは現実ではなくなり、記憶にも残らなくなる。『根源』は、間もなく目覚めようとしています。だから、この世界も間もなく消えてなくなるのです」

「消えてなくなるって、どういうことですか」

「そのままの意味ですよ」


 夢から覚めたときのように、この世界が消える?

 それもそう遠くないうちに?


「だから、消えたくないなら、ネクロノミコンを探して元の世界に戻る方が良いのかな、と思いますよ。消える瞬間には恐いとか、そういうことは多分ありませんけれどね。消えちゃったら、その感覚もないので。あなたたち人間は、死を恐れているのではなく、死に至るまでを恐れている——違いますか?」

「この世界が消えるって、それって、あとどれくらいなんですか」

「難しいですね。本当に、数秒後には消えていてもおかしくないくらいです。そして終わるときは、何の前触れもなく終わります。ほら、夢って急に終わるものでしょう。私は見ないので分かりませんけれど」

「……何か、それを避ける方法はないんですか」

「ないです」

「本当に、どうしようもないんですか」

「どうしようもありません。どうしたんです、この世界が消えるのが嫌なのですか? それとも、自分が消えるのが嫌なのですか?」

 どちらなのかは分からない。

 でも、消えると言われたら『嫌だ』と思った、それだけが確かだった。

「でも確かに、せっかく転生したばかりの世界が急に『もうすぐ終わる』と言われたら辛いかもしれないですね。じゃあ、特別に今すぐ元の世界に戻してあげても良いですよ」

「え?」

「どうします? 今すぐ元の世界に戻してあげますよ。そうそう、この世界はあくまで夢みたいなものですから、あなたがネクロノミコンを開いて術式を完成させた直後くらいに戻ることになります。胡蝶の夢、という言い方がありましたよね。あなたはネクロノミコンの術式を完成させて、そこでちょっと長い夢を見ているだけなのです。ほら、そろそろ起きる時間ですよ」


 今すぐ、元の世界に戻れる?

 しかも、ここに来たときの、あの瞬間の直後くらいに?

 明日からまた、ただの大学生として日本の大学に通える?


「——僕は」

「はい」


「——もう少し、ここにいます」


「おや」

「戻ろうと思ったなら、ネクロノミコンを探せばいつでも戻れることは分かりました。それに、この世界がもうすぐ消えてしまうということも理解しました。その前触れが何もなく、どの瞬間に消えてしまうかも分からないことも」

「なるほど」

「でも、今もし元の世界に戻ったら、僕は自分の無責任さに耐えられないでしょう。きっと、一生苦しむと思います。思いつきで一国の政治に関わって、上手くいかなかったからって全く関係のないところに逃げ帰って——そんな自分に、多分僕は一生苦しむ」


「まぁ、それを見たかったんですけど」


 と、混沌は言った。


「では、もう少しこの世界の物語を楽しませてもらいましょう。さあ、朝が来ますよ。そろそろ目を覚まさないと。ねぇ、■■■■■」


 あぁ、そうだ。

 どこかで聞いたことがあると思ったら、それは僕の名前だった。

 でももう僕のものじゃないから、聞き取れなかったんだ。


「それに元の世界だって、いつ醒めるか分からないですものね」

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