結末の第三章

チェーホフの銃を撃つのが機械仕掛けの神であっては意味がない。

 簡単に言えば、僕は大総統を見くびっていたということになる。ヴェンドヴルムから『宣戦布告の取り下げ』を打診された大総統は、「つまりヴェンドヴルムには戦争で勝ち目がないからこういう態度に出たのだろう」と考えたのだ。

 そのため、大総統は『宣戦布告の取り下げ』をレオナルドから受けたとき、「受け入れない」と言ったのである。もちろん本当は、レオナルドは宣戦布告なんて知らないし、レオナルドは『奴隷売買』についての謝罪をしに来ただけだったのだけど。

 しかしこうなると、事態は最初よりもずっと悪くなっていると言って良い。大総統は宣戦布告を行った認識でいるからこのまま戦争状態に突入するつもりだし、ヴェンドヴルムは宣戦布告を受けていないつもりなのでそれを防御できない。この状態ではポリグラットの先制攻撃はそれなりに大きな打撃になるだろうけれど、それに対してヴェンドヴルムが反撃したなら、結局はポリグラットが壊滅的打撃を受けて敗戦するだろうし、そのとき、ポリグラットの国際的立場は底辺どころではない。


 どうしてこんなことを始めてしまったのだろう、とこれほど思ったことはなかった。


 確かに、外交官に任命された時点でそれを断ることは難しかったかもしれない。しかし、すべてを捨ててどこか別の国に逃げることはできたのではないか。そうだ、前任外交官もどこかに姿を消したと言うし、僕もそうすれば良かったのではないか。

 昔、「やらないで後悔するくらいなら、やって後悔した方がマシだ」という言葉を聞いたことがあったのを思い出す。そのときには、「まぁ、そうかもしれないな」と思ったけれど、結局後悔する段になるとどっちも一緒だった。考えてみれば随分と無責任なアドバイスではないか。そうして行動して失敗した責任を、その人が執ってくれるわけでもあるまい。


 大総統とレオナルドの通訳では、レオナルドには「この件については追って判断を連絡する」と大総統が言ったことにした。レオナルドはしおらしくそれを受け取り、夜のうちに早馬でヴェンドヴルムに向けて発ったはずだ。

 一方、僕は大総統府に与えられた部屋に戻った。そこにはシェラがいて、「どうだった?」と訊ねてくる。僕は無言で首を横に振り、それ以上は何も言わず、状況について考えたくなくて、そのままベッドに入った。そう言えば、首を横に振ることが「ノー」を基本とするネガティブな意味になるというのは文化的な文脈があってこそ通じることかもしれない。シェラにどう伝わったかは分からない。国によっては首を横に振ることがイエスになることもあるらしいから、明日、シェラにもう一度説明した方が良いかもしれないな、などと考えながら、僕は眠りについた。

 その後、シェラがどうしたかは分からない。


 ・・・


 コンコンと、ノックの音がした。


 それで目が覚めて、上半身を起こす。誰かが部屋の扉を叩いているのだ。

 こんな真夜中に? 誰が?

 ベッドから降りて立ち上がり、扉を開ける。

 しかし誰もいなかった。

 廊下は真っ暗で、兵士の姿もない。

 気のせいか、寝ぼけていたか、と思って部屋に戻ろうとすると、廊下の向こうにランタンの明かりが見えた。その明かりはこちらに近づくでもなく、遠ざかるでもなく、ただゆらゆらと揺れている。


 まるで僕を誘っているみたいだった。


 好奇心で、あるいはただ何となく、その光の正体を知りたいと思って、僕はそれに近づいた。僕が近づくと光は少しだけ遠ざかるが、僕が見失わない程度のところで必ず待っていてくれる。それを追って、明かりのない建物の廊下を歩いていく。

 どんな風に歩いたかも分からなくなって、自分の部屋に戻れるかどうか不安になってきた頃、遠くにあった明かりがふっと消えた。

 急に明かりを失って、空間は真っ黒な闇に包まれる。

 ずっとこうしていては前後左右も分からなくなってしまうと思い、まだ感覚が残っているうちに、光があったはずの方へと歩いていった。


 そこには、扉があった。

 鍵は掛かっていない。

 導かれるままに、僕はその扉を開けた。


「ようこそ。一度、ちゃんと話してみたかったのです」

 それは、聞いたことのない声だった。


 そしてそれは——日本語だった。


 部屋の中は真っ暗のはずなのに、その男が空間に浮かぶように、椅子に座っているのがなぜか分かる。

「自己紹介をしておきましょう。私は、ペトー・タルレイン。あるいはラナージュ神。あるいはナイアラ神。それとも——■■■■■と言った方が分かりやすいですか?」

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