言葉が通じない場合よりも、言葉が通じる場合の方が意図が通じないときの失望が大きい。

「騙したな、ディミトリィィ!」

 僕を迎えに来た兵士についていった先は、大総統との謁見の場ではなかった。そこは広めの応接間という感じの場所で、最低限の腰を落ち着ける家具や机があるだけだった。

 そんな上品な場所に似つかわしくない声を荒げているのは、もちろんエロワーズだ。

 椅子から立ち上がって恫喝するエロワーズの傍には、あのメイド少女のアリアと、エロワーズよりも大分品がある男の人の影があった。少女は立っているが男の人は奥の椅子に落ち着いた様子で座っている。多分、ヴェンドヴルムからの使者だろう。

 恫喝を受けているらしいディミトリの様子は、しかし全くたじろぐ様子もなかった。備え付けられた客人用の紅茶を煎れて優雅に飲んでいる。似合うなぁ、そういうのが。

「どうされたんです、皆さん」と、軍服に身を包んだ姿で僕は訊ねた。その僕の姿にエロワーズは見覚えがあっただろう。外套で顔を隠していたとは言え、別人と取り違えるはずもない。

「貴様——やはり、これは陰謀だ!」ここまでをポリグラット語で、続けては拙いヴェンドヴルム語でエロワーズは叫んだ。「レオナルド殿! 私! 騙された!」

「落ち着いてください」とレオナルドと呼ばれた男の人はヴェンドヴルム語で応えた。「状況を整理しましょう。通訳の方も来てくれたみたいですし」

「えぇと、ユウと申します。レオナルドさん——と、そちらは……?」

「エロワーズ・ミッチェルだ! 知らんわけがなかろうが!」

「いえ、初めまして。ポリグラット語、お上手ですね」

「馬鹿にしやがって小僧が——!」

 思わず殴りかかろうとしたエロワーズの拳を、レオナルドが止める。

「何をしているのです。他国の外交官を殴るなんて真似をしては、それこそ国際問題ですよ」

「しかし……」

「もう一度言いますよ、落ち着いてください。あなたに疚しいところが本当にないのなら、それを証明すれば良いだけのことなのですから」

 エロワーズとは打って変わって冷静なままのレオナルドに、僕はヴェンドヴルム語で一応訊ねた。

「申し訳ありません。今来たばかりで状況を把握できていないのかもしれません。どういう状況なのか、教えて頂けますか?」

「つい先日、ポリグラットからヴェンドヴルムに公式の非難声明が出されました。内容は、国際法で禁止されている国家間の奴隷売買の疑いです。これが本当であってはならないと調査をしたところ、このエロワーズ・ミッチェルのエロワーズ商会で、奴隷売買の契約書が見つかったのです。それがこちらです」

 そう言ってレオナルドは上着の内ポケットから四つ折りになった紙を取り出し、広げて見せた。間違いなく、昨日エロワーズが書いて、シェラがディミトリ・トレードの印を押した契約書だ。

「これを見ると、奴隷を販売したのはディミトリ・トレードということになっています。もし仮にそれが本当だとしたら、この奴隷売買の責任の一端はそちら側にもあるということになります」

「確かですね」と僕はヴェンドヴルム語で頷いた。

「さらにエロワーズが言うには、この買ったはずの奴隷が次の日には姿を消したというのです。そしてその日に奴隷売買の実態を調べるための一斉調査が入った——そうなると、これはもう陰謀であると、このエロワーズは言っています」

「まぁ、陰謀論はあらゆる不平不満のはけ口になりますから、そういうこともあるのではないでしょうか」

 僕が困ったような振りをしていると、隣からディミトリに手招きをされ、顔を近づけると耳打ちをされた。

「——なるほど。えぇと、レオナルド殿。実はそちらのエロワーズさんは、このディミトリの元で働いていたことがあるらしく、しかし仲違いをしていたのだとか。これは例えばの仮説ですが、エロワーズさんがどこか別のところで得た奴隷売買の契約相手をディミトリになすりつけたという可能性はないでしょうか」

「どうしてそんなことを?」

「エロワーズさんの立場からすると、本当の取引相手を守ることができますから。それにエロワーズさんが仮にディミトリのことを恨んでいたとしたら、いざというときにはそれを使って脅すこともできるわけですからね。ひょっとすると、この契約書の日付の前後で、エロワーズ商会の裏口付近で怪しい人影などが目撃されたということがあるのでは?」

 ちらりとアリアの方を見ると、その表情は、僕らの話を分かって聞いているそれだった。そこでだめ押しに、恐らくは彼女の言葉であろうヴェンドヴルム語のままで訊ねた。

「どうです? そんな怪しい人影、ありませんでしたか?」

「——ありました」

 アリアは、はっきりとそう応えた。

 そう、あったはずなのだ。

 それは、わざと怪しい格好をしたハクなのだけど。

「人目を憚るように、すぐに姿を消してしまいましたけど……」

「どう思われますか、レオナルド殿」と訊ねる僕に、レオナルドは思案したまま固まったが、すぐにまた僕の方を向いて言った。

「それだけでは何とも言えません。ただの偶然かもしれない——」

「何をごちゃごちゃと! 俺が奴隷を売られたのは確実だ。それに、そうだ、あの奴隷はターミナルの出身だって言ってたじゃねぇか。だとしたら、検閲の記録に入国記録が残ってるだろうがよ! 褐色肌の十代中頃の女を入れたって、そういう記録がよ!」

 ここまでヴェンドヴルム語でやり取りをしていた僕らに、そのほとんどが分からなかったのだろうエロワーズがポリグラット語で割り込んできた。

「ディミトリさんが『ご相談』したときにも言ったでしょう?」と、僕はレオナルドに分からないようにポリグラット語で応えた。「残っていないんですよ、そんな記録」

「何を言ってんだ、ヴェンドヴルムの検閲は荷物も入国人数も確実に記録されるはずだぞ!」

「入国人数は、確かに四人でした」と言ったのは、ここまでの会話を楽しんでいるらしいディミトリだった。「但し、内訳が違う」

「お前、何を訳の分からねぇことを——」

「褐色肌の少女の入国記録なんて、残ってないんですよ」と、ディミトリは笑いを噛み殺すように言った。


 種はシンプルだ。

 ハクの軍服とシェラの服を交換したのだ。

 シェラは軍帽に髪をまとめて被り、軍人として入国している。他国の軍人が商人の警固でやってきた、というシナリオだった。しかしポリグラット語しか分からない(という設定の)シェラは一言も喋らなくて良い。それは僕が通訳として間に入るだけだった。

 一方ハクは、一般人として——僕と同じ、ディミトリの助手として、入国している。

 しかも、シェラに貸してくれていたシャツ、短パンにサスペンダーという格好だ。そんな格好なら、初めて僕がハクと出会ったときに彼女を『少年』だと思ったように、検閲でもハクのことは男性として記録されているはずである。


 すると残される記録はどうなる?


 ・商人がひとり(ディミトリ)

 ・商人の助手の青年(僕)

 ・商人の助手の少年(ハク)

 ・その警固の軍人がひとり(シェラ)


 契約書にあるような『褐色肌の少女』は、入国記録に一切残っていない。


「——それにもちろん、こちらの出国記録にも奴隷の少女なんて残っていませんよ。『ちゃんと調べてもらった』のに、そちらの話が本当だとしたら、変な話ですよね」

「き、貴様……!」

 エロワーズとディミトリのやり取りを聞いていて不審そうにしていたレオナルドが、「今のはどういう?」と僕の方を向いて訊ねてきた。

「『褐色肌の少女が何処から来たかというのは両国の入出国記録を見れば明らかのはずだ』とエロワーズさんは仰っています。しかしディミトリさんとしても全く覚えがないので、『そんな記録が残っているなら逆に見てみたい』と」

「それについては一応調べさせています。しかし、その様子だと、少なくともそちらにとって身に覚えのあるような情報は本当にないのでしょう」

「いや!」と大声を上げたのはもちろんエロワーズだった。「いや、そんな細かいこと、関係ねぇんだ。あんたは奴隷を密輸するために何らかの策を打った、だからその証拠が残っていない——そんなことは問題じゃねぇ。だってこっちには!」

 レオナルドから契約書を奪い、エロワーズはそれをこちらに突き出す。

「契約書! が! あるんだからよ! ここにはあんたの! ディミトリ・トレードの! 判が! 押してある! ほら! 見ろほら! どう言いつくろったってこれは! あんたが! 間違いなくこの契約書を読んで判を押したってことだろうがよ!」

 つばを飛ばしながら言うエロワーズに、ディミトリはまた紅茶を飲みながら涼しく応えた。

「そんな契約書には身に覚えがありません」

「そいつは無理筋だろうがよ! じゃあこの、判は一体何だ!」

「それは私が訊きたいくらいです」

「なんだと!」


「何年も前になくして困っていた当店のスタンプが、どうしてあなたの手元にあるんです?」


 その言葉に、エロワーズはもちろん、僕も固まった。

「な、何言ってんだ、あんた昨日、俺の目の前で、これをポケットから取り出して押しただろうが!」

「そんなまさか。そのディミトリ・トレードのスタンプは、何故か丁度あなたがいなくなった頃からずっと見当たらなくて困っていたのですよ。お陰でもう何年も、取引は全部署名でやっていますよ。お陰で大事な取引は必ず私が同席しなければいけなくて、雑用を頼んだ人にも迷惑を掛けることもありました」

 そう言いながら僕をちらりと見るディミトリ。

 まさか、僕にスタンプの存在を知らせていなかったのは、いつかこんな、復讐の瞬間が来ると思っていたから?

 いや流石に、そんなことは——。

「そんなことがあるか!」とエロワーズが今日一番の声を出す。それだけで国際問題になってもおかしくないくらいの声量だった。

 それに対して、ディミトリは逆にほとんど吐息のような声で返した。

「エロワーズ、教えたはずですよ」と言うディミトリの声量はエロワーズの何十分の一とも知れないのに、やけによく響いた。「商人たるもの、いつか来るかもしれないチャンスのために、普段から準備をしておけ。それが『運が良い』商人の共通点だ——とね」

「ユウさん」と、レオナルドが僕に通訳を求めた。

「どうやら、エロワーズさんはディミトリさんがなくしたと思っていたスタンプを持っていた、ということのようです。その契約書に押されている印は、ここ数年、ずっとディミトリ・トレードでは使っていないものだとか……」

「……では、エロワーズ商会の調査を続けてみましょう。ひょっとすると、この件のスタンプが出てくるかもしれません」

 そう言えば、契約書に印を押した後で、ディミトリがスタンプをどうしていたか思い出せない。多分、あの後すぐ、ディミトリ・トレードのスタンプはディミトリの手を離れたはずだ。

 ……いや、そうじゃない。

 ディミトリは、あのスタンプに——。


「い、いや——まだ、まだだ! ディミトリ、指紋、指紋って知ってるか? 人間の指の形は全部違って、それで付いた手垢から、誰がどこを触ったかが分かるんだ! ヴェンドヴルムの科学技術で調べれば、あんたが自分の手でスタンプを押したことは明らか——」

「ですから、私はそんなもの、押してないんですよ」

「ふん、こればかりは調べればわかるぞ、往生際が——」

「おや、ご記憶にない?」

 ディミトリのことをシャーロック・ホームズみたいだと思ったことがあったのを思い出す。まるでこの一場面は、ホームズが犯人を追い詰める瞬間みたいだった。

 そう。


 ディミトリは、スタンプに一度も触れていないのだ。


 ディミトリはケースを取りだして、蓋を開けただけ。

 そこから先は——


「お、お前、おま」

「思い出しましたか」


 ——シェラが判を押したのだ。


「お前、ディミトリ、お前——」

「いやぁ、ちゃんと思い出してくれて良かった、エロワーズさん。これで私の身は潔白ですね。まさかとは思いますけれど、子どもの悪戯の責任を私に押しつけようとしているわけでもありますまい。そもそもそういう大事なものを、子どもの手の届くところに置いておいたら駄目ですよ。次から気をつけてくださいね。あと、スタンプは近いうちに返してもらいますからね」

 エロワーズの理性の糸が切れたのはその瞬間だったのだろう。

 何かよく分からないことを捲し立てながらディミトリに掴みかかろうとしてレオナルドに取り押さえられた。それでもなお、ディミトリに暴言を吐き続けている。

 椅子から立ち上がり、そんなエロワーズを見下ろして、ディミトリは困ったように言った。

「すみません、私、ポリグラット語しか分からないもので」


 ・・・


 その後、僕は、気重そうなレオナルドと一緒に大総統との謁見に臨んだ。


 ここまでの準備に不足はなかったし、残るはレオナルドの言葉を上手く『翻訳』して大総統に伝え、大総統に矛を収めてもらうだけだった。

 その結果から言おう。


 失敗した。

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