勝ちをコントロールすることは難しいが、負けの程度をコントロールすることは本来容易である。
「マジで割と普通に入って来ちゃったけど良かったの?」
ヴェンドヴルムに入国後、宿を取った僕らは今後の流れを整理するために一室に集まっていた。
「多分大丈夫です。正直、結局荷台を検査されちゃうなら、隠すための小細工はしても無駄というか……」
「普通に入国は四人ってことになってるし、多分ボクらの特徴も抑えられたと思うけど?」
「でしょうね」
「でしょうねって! 出国はどうするのさ!」
「まぁ、大丈夫ですよ多分。出国のときも基本的には同じです。それよりも、これからのことを考えましょう」
僕の言葉に、ディミトリが「ふむ」と勿体ぶったような声を出した。
「これから向かうのはエロワーズ商会です。エロワーズ・ミッチェルという人が大元で、規模もそこそこ大きいのですが、あまり大手を振るって売ることができないものを裏で売ったりしているということです」
ディミトリ・トレードと一緒ですね——とは、流石に言わなかった。
「どうしてその店がターゲットなのさ」とハクが訊いた。
「エロワーズはポリグラット人でして。その点でも私が交渉をしやすいという利点になっています。それ以外には、実はエロワーズは昔、私の下で働いていたことがあるのです。今は独立してしばらく会っていませんけれどね。まぁとにかく、そういうわけなので、旧知の仲ということで、こういう裏取引を持ちかけやすいわけですよ。奴隷の斡旋なんて、まともな取引の延長じゃできませんからね」
「でも良いの? 昔の仕事仲間なんでしょ」
「気にしないでください。実は彼が独立するとき、ディミトリ・トレードの顧客情報を盗まれたみたいでしてね。その損失を返してもらわないといけないんですよ」
・・・
エロワーズ商会の建物は大きく、お屋敷と言っても過言ではなかった。いや実際、お屋敷なのだろう。別の仕事があるハクを除いて、僕とディミトリ、そしてシェラ(商品ということになっているのでひらひらの可愛い服を着せられていた)の三人でエロワーズ商会を訪れたとき、最初に出迎えてくれたのはメイドだった。
「ディミトリ・イヴァノフと申します。エロワーズ・ミッチェル氏と内密のお話がしたい。ディミトリが来た、と言えば無視はされないはずです」
いかにもメイドという格好をした少女(とは言ってもハクやシェラと変わらないくらいだろうか)にディミトリはそう言ったが、少女は少し困ったように戸惑っている。
「えっと、ポリグラット語だと分からなかったですかね」
「あ、いや——分かります、すこし」ディミトリの言葉にたどたどしくポリグラット語でメイド少女は返した。「ご主人さまとお話ししたい、ディミトリさま、ですね。待ってください、中、どうぞ」
そう言って僕らに背を向けたメイド少女が歩き始めたのでその後をついていく。彼女はちらちらと僕らの様子を見ながら、「こっちです」と時々行く方を指さしながら案内してくれた。
そうして通された客室は、ディミトリ・トレードにあるようなものとは全く違う、豪奢な部屋だった。しかしどこか成金趣味というか、金を見せびらかしているような下品さを感じる部屋だ。
「エロワーズ、随分成功しているみたいですね」とディミトリが言った。「商談のしがいがある」
「今、ご主人さまを呼んできます。あの、つくろいで……? くつろいで……? て、ください」
そう言ってメイド少女は一度姿を消した。
向かい合ったソファ、そしてそれを挟んで置かれたテーブルがこれ見よがしにあったので、とりあえずそのソファの、どちらかと言えば安そうな方に座った。エロワーズという人物の話を聞く限り、多分、こっちが客人用だろう。
「良い選択です。多分、それで合ってますよ」と言いながらディミトリも僕の隣に座ったが、シェラは座ろうとしなかった。
「座らないの? 広いし座れるよ」
「今のウチは『奴隷』だからね。『商品』が『商人』と一緒に座ってるのは、変でしょ」
シェラのこういう慧眼さを見習わないとな、と思った。
・・・
僕らがソファに座ってしばらくして、
「ディミトリさん、どうされたんです急に——。驚きましたよ」
入口の方からそんな声がしたので目線をやると、そこにはいかにも高そうな服を着て、両手の両指に石の付いた指輪を嵌めた男がいた。現時刻(日没後)を考えると、恐らくわざわざ着替えて、装飾品まで身につけてきたのだろう。
「こんな時間の来客はあまりないので、お待たせしてすみませんね」と言いながらこれ見よがしに取り出した懐中時計は、多分純金だ。本当に凄い。徹底している。
「久々ですね、エロワーズ——」挨拶をしながらディミトリがソファを立ち上がったので、僕もそれに続いて立ち上がった。「いや、今はエロワーズさん、と呼んだ方が良いでしょうか」
「やめてくださいよディミトリさん。昔の通りで、良いんですよ」
言葉ではそう言いながら、明らかに格の違いを見せつけようとしている。それに、紳士然とした振る舞いではあるが、その本質は全くジェントルマンのそれではなさそうだ。その証拠に僕らに座ることを促す前に自分から僕らの前の(多分もっと高価な)ソファに座ったし、さっきのメイド少女が後をついてきているが彼女にも座るように促しはしない。
「何か、私にお話があるとか?」
「えぇ、ひとりの成功した商人としてのあなたに、商談というか——相談というか」
そう言いながらディミトリもソファにもう一度腰を落ち着ける。それに続いて僕も座ろうかと思ったが、少しだけ座るのを待った。
それを機会だと察知したディミトリが、「あぁ」と言って僕を指した。
「先に紹介をするべきでしたね。こちらは私の通訳でして。お恥ずかしい話、未だにヴェンドヴルム語は分からないことばかりですから、通訳を雇うことにしたんですよ」
「へぇ」とエロワーズは興味なさそうに言った。そうだろうとも。きっとこの人の視界には、僕の姿なんて最初から入ってなかったんだろうな。「まぁ、ヴェンドヴルム語は難しいですからね。私も未だにさっぱりだ。とは言え、だからこそポリグラット語しか話せない他の客の需要が、うちみたいな店にはあるわけですがね——。しかし、私たちはこうしてポリグラット語で会話ができるだろうに。通訳なんて必要でしたか?」
「まぁ、入出国のときとか、ここ以外の商談とか、色々と。でもここに彼がいるのは、ヴェンドヴルム語の翻訳のためではなく——」そこでディミトリは言葉を切って、顎で立ったままのシェラを指した。「あれとの通訳なんですよ」
「その娘、肌の色からすると、まさかターミナルの?」
「えぇ、実は。ポリグラット語の覚えは悪いですが、雑用はそこそこできますよ」
「いやいやディミトリさん、何の話をしているんです?」
「単刀直入に言います、エロワーズ」と、ディミトリは言った。「この娘、買いませんか?」
このディミトリの言葉に、エロワーズは多少驚いたようだった。
「……。…………。ディミトリさん、冗談は——。……いや、聞きましょう。どういう話です?」
「この娘は、ある取引の負債の埋め合わせとしてとある筋から受け取ったものでしてね。最初はこういうのを使ってみるのも良いかと思いましたが、何せうちはしがない雑貨屋ですから、言葉が分からないと任せられる雑用も多くない。それなら、もっと上手く使ってくれる誰かに譲りたいと、こういうわけです」
「しかし何で私なんです? こんな遙々、ヴェンドヴルムまでやってくるなんて。それにご存知だと思いますけれどね、国を跨いで奴隷売買をするのは国際法違反ですよ。他国の人材を勝手に売り買いするのは認められていない」
「だからこそ高い値がつく——違いますか?」
「まさか密入国させたのですか? どうやって?」
「詳しいことは秘密ですが、その点についてはご心配なく。あなたが明日からこの子を店番に置いたとしても、それが犯罪行為として咎められることはないでしょう」
「いや、だからといってこんな話をおいそれと受けるわけには——」
「エロワーズ、これは商談というよりも相談だと、さっき言いましたよね」
「あぁ、確かに。相談とは、つまり?」
「私は、この娘をあなたにあげるつもりで来たのです。つまり、無料で」
無料という言葉に、エロワーズは明らかに反応した。目が大きくなったし、生唾を飲む音も聞こえたと思う。
「簡単に言えば維持費の問題でしてね。奴隷とは言え、何もないのに殺しては殺人罪だ。衣食住も最低限のものは与えないといけない。しかしこの子は言葉を話せないから、店番もできない。そうなると、掛かるコストに対して得られるリターンがゼロということになる」
「なるほど、だから無償でも手放したい」
「そうです。そして、ここで首尾良く引き渡せたら、私は自国で『奴隷が逃げた』と保険屋に駆け込むのです。この奴隷には、『紛失保険』を掛けて、安くない保険料を毎月支払っています。私はその奴隷が『脱走』して行方を眩ませたということにして、保険金を得られるという寸法です」
「わざわざここまで秘密裏に持ってきたのは、保険屋が国内を探しても絶対に見つからないようにするため、そして推定死亡の扱いにして保険金を高くするため——ということか」
「流石はエロワーズ、話が早い。それで、どうです? 貰って頂けますか? もちろん、あなたのものになった後は好きにして良い。もっと物好きな人に売っても良いし、自分で雑用を仕込んでも良いでしょう。そうですね、食事くらいは作れますよ。ターミナルの出ですから、味は独特ですけれど」
そこまで言って、ディミトリは言葉を止めた。エロワーズの反応を待っているのだ。
少しして、エロワーズは言った。
「……いや、これは駄目だ」
何だって?
ここまでお膳立てしたのに、まだ断る理由があるのか?
僕は少なからず緊張したが、ディミトリを見るとまだ涼しい顔をしている。
「何か条件があるなら伺いましょう」
ディミトリは努めて平生の声色のままそう言った。
「貰う、というところが駄目だ。適正価格で買わせてもらおう」と言ったエロワーズは、近くにいたメイド少女の方を向き、こう続けた。「おい、アリア、金貨を持ってこい。三十枚だ。それと契約書ももってこい。ほら、急げ!」
恫喝を受けた、アリアと呼ばれた少女は急いで客室を飛び出していった。
「お金なんて要らないですよ、本当に。だって、保険金が——」
「そうはいかんぞディミトリさん。これじゃあ、こっちが一方的にリスクを負うことになる」
そこでエロワーズは、にちゃりと笑ってみせた。『にちゃり』というのは、口の中に涎が溢れていたのか、口角を上げて笑うときに『にちゃり』という音が本当にしたのだ。
「万一、という程度の可能性かもしれないが、この奴隷譲渡が公になる可能性がある。そのとき、売買の記録と契約書が残っていなければ、あんたはいくらでもシラを切れるだろう。だが俺は、『なぜかディミトリ・イヴァノフの奴隷を所有している』ということになっちまう。下手したら盗みの罪までついてくる」
もはや完全に紳士の仮面を外したらしいエロワーズは、そこまで言って、喉を鳴らすように笑った。
「なるほど、確かに。これは気付きませんでした。まさかそんなやり方があるとは」
「へへ、本当に抜け目のない男だよあんたは。ずっとそうだったよ。そういうところがマジで気に食わなかった」
「分かりました、では正式に売買契約を交わしましょう。ちゃんと適正価格で取引をしたという証拠も残してね。実際に私も奴隷を売って利益を得て、しかも契約書も残るというのなら、私とあなたは共犯だ」
「そういうこと。あんたが裏切ったときには一緒に地獄に墜ちてもらうってことよ」
「正直なところ、ちょっと見くびっていましたよ。やっぱりもう、エロワーズさん、とお呼びした方が良かったかな」
そう言いながら、少し困ったようにしてディミトリは背広からケースのようなものを取り出した。ケースを開けると、その中にはディミトリ・トレードとして封蝋に印を押すためのスタンプが入っているのが見えた。封蝋だけじゃなくて、契約書の署名代わりにも使われるのか。
そう言えば、シューベルが「封蝋にオートグラフを押しても良い」とか何とか言ってたのを思い出す。その慣用句の意味が、今分かった。ディミトリ・トレードで雑用をしているときにそういう手形のようなものが必要なときには、必ずディミトリが自分で署名をしていたから。そんなのがあるなら貸してくれたら僕も押せて楽だったのに。まぁ、雑用に任せて良い道具ではない——か。
そんな風に思っているとアリアが走って戻ってきて、エロワーズに金貨が入っているのであろう袋と契約書らしい紙を手渡す。エロワーズはそれを乱暴に受け取り、袋の中と契約書の内容を確認して、契約書には何かを書き入れてから、両方をソファの間のテーブルに乱暴に放った。
「金貨三十枚と売買契約書です。ご確認を」
エロワーズの言葉に従うように、ディミトリは袋の中身を改めて、それから契約書を読んだ。横から僕も内容を確認したが、契約書の内容は普通の売買契約書だった。簡単に言えば、エロワーズはディミトリから、金貨三十枚で奴隷を買う、というものだ。その下に奴隷の特徴を書く欄がある。それは多分、名前がない奴隷も多いからだろう。特徴のところには、『褐色肌の女』とだけ、エロワーズの字で書いてあった。
「まぁ、特徴は追々、分かることもあるかもしれないがね」
エロワーズのそんな言葉に、「そうですね、とりあえずはこれで良さそうだ」などと言ってから、ディミトリはシェラを手招きした。
そして近寄ってきたシェラに、子どもに言葉を教えるようにして言った。
「良いかい、きみは今から、この人のものになる。エロワーズという人だ。覚えるんだ。エロワーズ、だよ」
シェラはそれを分かっているのか分かっていないのか、とりあえず頷いている。
「そして、これはその契約の証だ。きみが自分で押しなさい。その方が実感が湧くだろう」
そう言いながら、ディミトリはケースを開けて、ディミトリ・トレードの印をシェラに取らせた。
「ははは、契約書の意味も分からないのに実感も何もあるまい」
そう言って笑うエロワーズに、「確かに」なんて相槌を打ちながらディミトリは色の付いた蝋とマッチを取り出した。契約書の上でマッチに火を点け、蝋を溶かし、ぽたぽたと落とす。
「ほら、ここにそれを押すんだ」とディミトリに言われた通りに、シェラはそれを押し、蝋が固まるまで待ってから持ち上げた。こうして、契約書の下の方に、ディミトリ・トレードの印が確実に押された。
「分かっていますね、ディミトリさん。これで共犯ですよ」
「これは一本取られてしまった。後学にさせて頂きますよ、エロワーズさん」とディミトリは困ったように言って、それから思い出したように僕に向かって言った。「そうだ、この子からも挨拶をさせましょう。せっかくここまで来たんですし、通訳をお願いしますよ」
それを受けて、僕はシェラに彼女の言葉で「エロワーズさんに挨拶を、だってさ」と伝えた。シェラがひらひらした可愛い服の裾を摘まんで恭しい仕草をしながら彼女の言葉で応えたのを、もちろんエロワーズは理解できなかった。
「今、何と?」
エロワーズの疑問に、僕は応える。
「『これから宜しくお願いします、ご主人さま』と言っています」
「はは、勿論だとも。私は自分の所有物には優しいぞ」
こうして、僕とディミトリはシェラを置いてエロワーズ商会を後にした。
ちなみに本当は、『地獄を見せてやるから覚悟しろ』だった。
・・・
そして次の日。
シェラをエロワーズに売って、その後はエロワーズ商会の本拠地からシェラを取り戻すために僕らはちょっと手荒な真似をした——なんてことは全くなく、次の日、エロワーズが仕事に出ている間に、シェラは普通にエロワーズ商会から出てきて、そのまま僕らと合流した。
「正直、ここが一番大変かと思っていたんだけどな」
拍子抜けした僕に、
「まさか買った次の日に奴隷がいなくなるなんて思ってなかったんだと思うよ。本当に売られてたら、商会を出たって行くところなんてないしね」
シェラは当然のように言ったのだった。
「そう言えば、何か、こう、乱暴とかはされなかった?」
「大丈夫」
「本当に?」
「エロワーズの算段では、まだウチを商品として転売するか、それとも自分が使ってやるか、決まってなかったと思うから。一応、新品の商品として大事にしてもらえたよ」
ディミトリが運転する馬車の荷台の幌を捲って中に潜りつつシェラが言うのを聞いて、ディミトリは「エロワーズは、そういう慎重なところがあるんですよ」と言って笑った。
「もしかして、そこまで予想して?」
「商品を大切にするのは、商人として当然のことですから」と言いながら手綱をしならせて、ピシッという音に続いて馬が歩き始めた。「他にも色々教えたような気がしますが、どれだけのことを覚えているやら」
「そう言えば、契約書は大丈夫だったんですか? あれが後々見つかるとディミトリさんの関与も疑われてしまうのでは——」
「大丈夫ですよ。後は幸運が微笑んでくれることを期待しましょう。安心してください、私は運が良い方ですから」
「本当に大丈夫なんですか? いざというときに僕があなたの味方をするとは限りませんよ。だって僕はあなたに金貨五十枚の借金があるんですから」
「恐いことを言いますね。そんなつもりなんてないくせに」
「分からないじゃないですか」
「分かりますよ。あなたが善人かどうかくらいならね」と言い、ディミトリは笑った。
それからは拍子抜けするくらい何事もなくヴェンドヴルムを出国して、昼過ぎにはポリグラットに到着した。ポリグラットに到着してからはディミトリと分かれて、僕とシェラはハクに送ってもらうかたちで大総統府に戻った。
そこから僕たちは自分たちの部屋に戻り、ハクもどうやらシューベルにことの次第を報告しに戻るということで、僕らは束の間の休憩を得ることができた。
陽が暮れた頃、部屋の扉がノックされ、外交官としての仕事の時間だと告げられた。
細工は流々、仕上げをご覧じろ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます